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24・その機械音は生きているか

 九鬼くんは、案内するだけあってここを訪れたことがあるようでした。そこはどうやら老人ホームのような介護施設らしく、入口はインターホンで中の方とやり取りしないと開けてもらえません。私達全員がガラス戸を通り抜けると、扉は再び硬い音を立てて閉まり、自動で施錠がされました。


 ツルツルの床に、広い廊下。その両側にはどこまでも手すりがついていて、揃いのポロシャツを着た職員さん達が、車椅子や周辺のソファに座って寛ぐ利用者へ朗らかに声掛けを行っています。外からの様子とは裏腹にアットホームな空気。血の通ったコミュニケーションが交わされる真っ当な社会がそこにはあります。私は、自分があまりに異質で、場違いに感じました。


 九鬼くんは職員さんの詰所のようなところへ行くと、あの一見無害そうな天使の笑顔を振りまいて、何やら話をしています。それもすぐに終わって、私と夫、東さんは彼に手招きされるのでした。


「ワラビー、行こう」


 東さんは、私の手をしっかりと握って大きく頷きます。私は何とか一歩を踏み出しました。


「そう、白崎しらさきさんのご親戚?綺麗なお嬢さんね。きっと喜ぶわ」


 一人の職員さんが私達の先頭をきって歩きます。母が居る場所へと案内してくれるようでした。

夫をわざとらしく押しのけて私の隣を歩く九鬼くん。彼の方をチラリと見ると、母は再婚しているとのことでした。


「蕨野さんは彼女にとっては障害そのものだったからね。あれからすぐに再婚したんだよ。さすがに再婚後の生活までは僕にも調べられていないけれど、こんな良い施設にずっと入ってるってことは、相手はお金持ちなんじゃないかな」


 そうかもしれません。でも、私の母の歳ならば、本来こんな所に入るには若すぎるはず。そして、相手もまだまだ存命の可能性が高いというのに、なぜ母は一人きりでここにいるのでしょうか。


 九鬼くんと過ごした夜から、少しずつ母の記憶が蘇ってくるようになりました。朧げながらも、線が細くも整った顔立ちの人だったように思います。声質については全く覚えていませんが、刷り込まれた『幸せになりなさい』の呪詛だけははっきりとしています。果たして、私を捨てた母は幸せになれたのか。その答えはもう分かってしまった気がしました。


 小さい頃からのことを振り返ると、一般的な意味での母に憧れたことはあります。それでも、父にどうして私に母がいないのかと尋ねたことはありませんでした。それだけは触れてはならぬことだと、禁忌なのだと、家の空気が語っているのを子どもながらに理解していたのだと思います。


 母とはどのような存在なのかと想像しても、よく分かりません。それに、ついしばらく前までは記憶すらなかったのですから、いなくて困るということもなかったのです。いないと認識するためには、まずは居るという経験を元にしないと比較のしようがないのですから。


 そう考えると、東さんは私と似ていて違います。彼女の中にはずっと『ママ』がいて、今も『ちょっと出かけている』だけ。ですから、いずれ帰ってくると信じてるようですし、こんな彼女の元にならば、いつか『ママ』も帰ってくるかもしれないと私にも思えるのです。


 では、私は。私は今、何をしようとしているのでしょう。九鬼くんは、母が私を捨てたと言いますが、私は無意識に記憶から母を消していました。本当に捨てたのは私の方かもしれないのです。そんな私が母に会うというのは、帰るなのか、戻るなのか、それとも出会うなのか。


 母は何と言うでしょうか。まず、私だということに気づくでしょうか。もし気づいたら、何をどう説明し、どう弁明すれば良いのかが分からないのです。


 もし母が寂しがっていたのならば、ずっとその存在を忘れ、探しもしなかった私は詫びなければならないのでしょう。もし母が怒っていたならば、突然赤の他人が押しかけたことを詫びて、再び忘れるよう努めるべきかと。もし母が泣いていたならば、泣く原因の一部は私にあるのかもしれないと言って、ひとまず一緒に泣くしかないかもしれません。では、笑っていたならば。それならば、父が亡くなったことだけを伝えて、私は名乗らずに消えたいと思います。


 どの道、たぶん私は母と会いたくないのです。


 母の視線が私の顔に、胸に突き刺さって『幸せになりなさい』と言われた時の恐怖がまだ拭えません。冷静に、第三者的に考えると、決して母の言葉は冷たいものではありませんが、あの時の気迫は言葉面をそのまま捉えるだけではあまりある闇が染み込んでいたのは確かです。


 生まれ持った相性もあるでしょう。そして、タイミングやあらゆる環境的要因も。人と人との出会いとして、母と私の巡り合わせは恵まれたものではなかったのかもしれません。


 では、私は母とどうなりたかったのか、やはり母という存在を強く欲しているのかというと、本音は否。漠然とした『母』という像を恋しく思う気持ちに嘘はありませんし、そんな存在を持たない私自身が不幸に思えたりもします。しかし、それと今後母と再び縁を結ぶのとはまた別物なのでした。


 私の足取りは重く、先導する職員さんはこちらを何度も気遣い気に振り返りながら、歩くスピードを緩めます。それでも、進むのです。前へと。


 もし、父が生きていたら何と言うでしょう。父ならば。


「あの」


 私は立ち止まって、後ろを振り返ります。すぐ後ろを歩いていた夫は立ち止まりました。


「私、どうしたらいいですか」


 父ならば言うと思うのです。夫に相談し、その通りにしろと。

夫は、しばらく俯いた後、こう言いました。


「僕も、怖い」










 そこは、受付があった建物から渡り廊下で繋がっている別棟にありました。ほとんど人は見受けられません。かなり広い等間隔で大きな引き戸が並び、職員さんが立ち止まったのは三階の最奥でした。


「どうぞ」


 職員さんは一度ノックして、扉を開けます。入口からすぐの所には、薄い水色のカーテンが引かれていました。その向こう側にある何かの機械のシルエットがぼんやりと映っています。消毒液の臭いもしました。心拍数をとる装置があるのか、ピ、ピ、ピと規則的な音だけが死んだように静かな部屋の中で鳴っています。


「ここはね、医師と看護師が常駐しているから安心なんだよ」


 九鬼くんが薄く笑いました。


 機械音は響きます。

職員さんや九鬼くんの声は、きっと部屋の中の人にも届いているはずでした。水色のカーテンの隙間から窓が見えるので、それ程大きな部屋ではないと分かるのです。しかし、中の様子は変化しません。


 機械音が響きます。


 東さんは、唇を噛み締めて言葉を無くしていました。夫からも表情が無くなっています。


「来て、良かったでしょ?」


 九鬼くんの声と機械音が重なります。私は答えません。

機械音が響きます。少しずつ大きく響きます。大きくなります。

九鬼くんは、私の背を軽く押しました。私はぎゅっと目を瞑ります。





「私は、会いません」





 決めました。

 私は、母を捨てるのです。もう一度。


 母とはもう会うべきではないし、とうの昔に分かれ道は過ぎてしまっているのです。物理的にはきっと三歩から五歩も行けば、そのラインを越えることができます。でも、しません。


 私は、なけなしの勇気を振り絞って胸を張りました。透視ができそうな程、カーテンの向こう側を睨みます。そして、頭を下げました。




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