23・綺麗には程遠く
「黙ってるって、言ってたのに」
高速のサービスエリアで、私は九鬼くんと向き合っていました。私の声は自分でも驚く程低く掠れていましたが、九鬼くんが笑ったところを見ると彼には届いたようです。
「先に裏切ったのは蕨野さんだよ。二人っきりで行くはずだったのに」
「私、あなたのこと嫌い」
すると、九鬼くんは一層笑みを深めるのです。
「ほんと、好き」
九鬼くんとの会話は、駐車場内を忙しなく行き交う車やトラックの音で、途切れ途切れ。私は好きの意味を考え始めていました。
好きなもの。吸い込まれそうな実家の池。晴れの日は万物に等しく与えられるひだまり。一人きりになれる羽毛布団の中の暗闇。どこまでも続き、どこかで何かと薄く繋がっている海。それと、生き物の中で好きなのは、東さん。形が無いもので好きなのは、夫の匂い。
九鬼くんは。彼は私を好きと言いますが、私を生き物として好きのではないと思います。お人形か、ゲーム画面の向こうにいる『ヒロイン』と言ったところでしょうか。それが悲しく感じられてならないのは何故でしょう。私が傲慢なのか、それとも私を貪った彼に私はこうなる呪いをかけられてしまったのか。
「さすがあの女の娘だね」
あの夜、九鬼くんがこう言ったのを覚えています。怨みと辛みと憎さを全て私の中に吐き出して、深夜になる頃には語る声には明るささえありました。父の大切なものが詰まった書斎。そこは死の現場。そんな場所で泣き腫らすまで犯された私は、これ以上彼の思うままにはなりたくありません。
「それでも、私は嫌いです。さよなら」
私は踵を返して歩き始めます。すぐに声が追いかけてきました。
「あの人のことも嫌いでしょ? それに、どこに帰るの? 帰る場所なんて、どこにも無いのに」
私は無意識に下腹を手で押さえて振り向きます。言葉が出ませんでした。
「行こう。皆待ってる」
邪悪な天使の青年は、うっとりとこちらを見つめて手招きします。私は、彼の視線で顔に何か薄い膜が張り付いた気がして息苦しくなり、お手洗いに走りました。空いている洗面台を見つけて、すぐに蛇口前へ手を翳します。何度も洗いました。顔に水を叩きつけて、必死で拭います。水が肘を伝ってカーディガンの中へ侵入し服を濡らしていきますが、そんなこと全く気になりませんでした。とにかく綺麗にしたくて、ほんの少しでも身に染み付いた穢れを落としたくて仕方が無いのです。なのに落ちない。洗っても洗っても、綺麗になった気がしないのです。
「それぐらいにしときなって」
ふと横を見ると、東さんがいました。
「探したんだよ。やっと見つけたから声かけてみたけれど、全然反応してくれないし」
「ごめん、なさい」
「顔真っ赤になってる。ほら、身体も冷えるよ」
頬を伝う涙が妙に温かく感じられました。
「紀南って言っても、どこに行くの? やっぱり、海? 私、水着とか持ってきてないよ」
再び走り出した車内で、話すのは主に東さんです。
「そういうのも良いけれど、先に寄りたい所があってね」
九鬼くんは自分のスマホを眺めながら、細かな道順を夫に伝えていました。私は東さんから借りたつばの広い大きな帽子をしっかりと被り、視線は山の稜線を追い続けます。
やがて車は高速を降りて、みかん畑が広がる山に入りました。右手に海、左手に山。時折緑色をした早生みかんの無人販売所があり、見かけるのは軽トラか農作業あがりの老人ばかり。車は細い上り坂を少し苦しそうな声を上げながら登っていきました。
「ワラビーはその寄り道とやらのこと知ってるんでしょ?」
東さんの声が不安そうに震えました。先程サービスエリアで擦り上げて赤く腫れてしまった頬が、さらにチクチクと痛みます。斜め後ろから、九鬼くんが咳払いのように小さく笑う声が聞こえました。東さんに話すかどうかは私に委ねられたということでしょう。私は、右側で運転する夫からも視線も若干感じながら、覚悟を決めました。
「母に、会いに行くんです」
沈黙がおりました。車のスピードはさらに遅くなります。
「お母さんかぁ。私もずっと会ってないんだ」
私の事情を東さんに詳しく話したことはありません。でももしかすると、夫と五十嵐さん経由で知っているのかも知れません。
「そりゃぁ怖いよね。私も怖いもん。うちのママは十年ぐらい前から帰ってこないんだけど、私はすごく会いたいんだ。だけど、会いたければ会いたくなる程怖くなる。もちろん、ママが私の知らない人みたいになってるかもしれないっていうのもあるけれど、何よりすっごく久しぶりに会う娘の私を見て、ママががっかりしないかってね」
目の前の山の中腹に白い建物が見えてきました。
「ワラビーはどうなの? 私だったら怖いなぁ」
私は怖いも何も、既に身体が強ばってしまっています。相手の拒絶を待つ前に私自身が拒絶しているのです。でも、パンドラの箱は必ず開かれるために存在するのかもしれません。その時は刻一刻と近づいていきます。
「ミヤコちゃん、五十嵐は?」
夫が急に焦ったような声を出した。
「ゼロさん、あたしとイガちゃんは何でもないんだよ。なんであたしがあの人の予定を知ってるのさ?」
「いや、こんな時あいつだったら何て言うのかなって思って」
夫が普通の会話をしているのを見るのは新鮮でした。他所ではいつもこうなのかと思うと若干の疎外感を感じます。
「たぶん、こう言うんじゃない? 『千代子ちゃんはもっと泣いた方がいい』って。お父さん若いのに亡くなられて、お母さんも実質いなくってさ。もっと年相応に泣けばいいのにって言いそうだよ。何だかんだで優しいからね、あの人」
バックミラーを見ると、不貞腐れたように窓の外を見る九鬼くんが映り込んでいます。
「あたしもそう思ってるんだ。ワラビーはきっと、これまでもずっと何でも自分で解決してきたんだろうね。でも、もう我慢しなくていいんだよ。こうやって皆いるんだからさ」
車は白い建物の前にある大きな駐車場へ入っていきました。
ただの建物なのに、地の果てにある墓場のように虚ろで、おどろおどろしい影を落としています。私は東さんに外からドアを開けてもらうまで、車の外には出られませんでした。




