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22・どんな事情があっても

 庭先の彼岸花は、咲いたばかりにも関わらず、頂いた朱をすぐに散らしてしまいました。


 実家の押し入れの中にあった古い浴衣で夜を越して翌朝、私の気怠さとは対照的に外の光は眩しく、来訪者は敷居の向こう側で立ち尽くしています。


「帰っておいでよ」


 夫は今にも泣きそうな顔です。随分と長い間、まともに彼の顔を直視していなかったことを思い出しました。急に懐かしさと恥ずかしさ、最後には気まずさと申し訳なさでいっぱいになり、私は視線を足元に落とします。日頃靴下を履いて日焼けしない足先は異常な程に青白く、透けるような質感は自分の身体なのに別物に見えました。


「帰れません」

「それなら、僕がここに住もう」

「なんで」

「僕達はもう、これ以上離れるべきじゃない。どんな、事情が、あっても」


 私は、夫の胸に飛び込みました。夫の匂いがしました。


「千代子、怒らずに聞いてほしい」


 私は束の間の温もりから拒絶されたように感じて、身体を瞬時に凍らせます。


 私に怒る権利なんてどこにもありません。むしろ、怒られるならば私の方です。


 私は九鬼くんから逃げられたはずなのに。どうして彼に囚われて彼に飲み込まれていったのか。冷静になればなるほど後悔が大きくなり、自分が許せなくなります。その一方で、あの時はもうどこへも行けなかったのです。彼は私の腹違いの弟であり、私よりも長く孤独の時間過ごしてきました。彼がその憤りをぶつける相手は、もはや私しか生存していないのです。不都合なこと全てに蓋ができればどれだけ楽か。私は生まれながらに罪を背負い、償うこともできず。それどころか、さらなる罪を重ねたのでした。


「僕はね、姉さんに彼女と会ってもらいたいんだ。彼女もきっと、喜ぶと思うよ」

「それがご褒美なのですか」

「そう、とっておきの」


 そう言って、暗がりの中、九鬼くんは私の上で果てました。


 九鬼くんは、明日迎えにくるのでここで待つようにと言って消えましたが、それ以上の条件は言っていません。私は、夫の方をつっと見上げます。


「怒りません。怒りませんので、その代わり、私の話も聞いてください」


 夫は目を見開きました。


「先に千代子の話を聞きたい」

「いえ、先にどうぞ」

「ううん、千代子が」


 裏切りの妻である私は、おそらく夫が切り出すだろう話が見えています。夫は九鬼くんのように私の全てを知っているとは言わないものの、野性的な勘で感じることができるのです。きっと今も、はっきりとは分からずとも一晩で変わり果ててしまった私に気づいているはずです。


 そう、かろうじて残っていた白く細い道が、いよいよここで途切れます。いざその時を前にしても、私は驚くほど気持ちが穏やかでした。金色に色づいた田んぼの稲穂が微かにそよぐような、収穫の時を待つという心持ち。


「じゃ、僕から」


 観念した夫は口を開きました。


「今夜からは、一緒に寝よう」


 急に、あらゆる音がクリアになりました。草木が成長する音さえ聞こえそうなぐらい。私を包む『場』の音が突然一方向に、私の方へ向かって駆け寄ってきたのです。そして、私が今いる場所が何たるかをはっきりと示してくれました。


「そんなことですか」


 あまりにびっくりして、私が九鬼くんとの約束に付き合ってほしいと切り出すまでに、それから一時間もかかってしまいました。










「ミヤコちゃんも誘ってみたら」


と夫が言うものですから、私は東さんを実家に呼び出しました。東さんは眠そうにしながらも愚痴一つ言わず、むしろ嬉しそうに私と夫が乗る車に乗り込みました。それに、九鬼くんが続きます。生まれて初めて、これが本物のカオスなのかと思いました。


 運転手は夫です。


 昨夜、夫は昼間に話した通り、私と寝ました。私のベッドを彼の部屋に運んだのです。八畳の部屋は狭くなりました。ベッドは並べて置いてあります。夫は寝る前に私の左手を握りました。身体は、いつも通り一人寝のようにベッドの中央にありますが、少し左に引っ張られるような形。人生で迷子になっている私を何とかこの世に繋ぎ留めようとしているのかもしれません。なかなか寝付くことはできませんでしたが、久しぶり夢も見ずに朝を迎えることができました。もちろん、いつものアレも起きませんでした。


 車は高速道路を滑るように進みます。景色は山ばかりで、全く進んだ気がしません。


 ナビは九鬼くん。彼は模範的な優等生に扮そうとしていました。夫には私のクラスメイトであることを名乗ると、車を出してもらうことについて丁寧に礼を言います。しかし、完璧すぎる笑顔の意味ありげな視線に、夫は小さく頷くだけでした。


「あんた、なんで来たのよ」


 東さんが九鬼くんに話しかけます。


「僕のこと知ってた?」

「クラスメイトだというぐらいしか知らないけど、それが何?」


 東さんは、私や店のお客さん以外には冷たい人のようです。九鬼くんは面白そうに受け答えしていました。


「こっちこそ、知ってた? 蕨野さんを誘ったのは僕なんだよ」

「紀南に行くんでしょ? 何様のつもり? ワラビーはあたしの友達だよ。勝手に変な所連れて行かないで」

「やっぱりトーキョーは東京が良かったの?」

「あんた学校じゃほんと目立たないけど、やっぱり嫌な奴だったんだね」

「こうなるのが嫌だったから、蕨野さんは君に近づいてほしくなかったんだよ」

「言いたい事あるなら、あたしがここで聞くよ。言ってみな」

「もう無いよ。全部聞いたから。身体にね」


 車内の温度が下がりました。

 助手席に座る私は、夫の顔を見れませんでした。




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