21・男の子
今回のお話は、お歳暮並みに様々な地雷を詰め合わせたような内容になっています。これ以上ハードなのは読みたくないという方は、このページの要約を書きましたので、それを読んで次のお話をお待ちください。
こんな顔していても、九鬼くんは男の子でした。
すっかり油断していたのは、おそらく夫のせい。夫は毎朝のキスをルール化することはあっても、それ以上は望まなかったし、風呂場で遭遇しても静かに場所を譲るだけでした。私はその待遇をそういうものだと受け止めていて、どこにも疑問を抱かなかったのです。何度も言うようですが、私の中で男性とは父のことで、父亡き今は夫のことでした。
では、九鬼くんは。
彼は性別不詳の座敷童子という認識。白い光の中からふわっと浮き出てくるような、無邪気な存在。でも、角は生えています。鋭い八重歯も。笑うと、急に醜くさが溢れる人なんて、彼の他には知りません。
九鬼くんは言いました。
「蕨野さん」
目は完璧な三日月形。
「どうして年頃の男女を一所に集めて一緒にするといけないのか、知ってる?」
どうしたもこうしたもありません。昔から男女というものの間には生まれながらの隔たりがあり、その隔たりを楽しむのか憎むのかは、時勢や環境、相性次第。改めて善悪を議論することは無意味だと思えました。
「そういうところが好きなんだよ」
三日月はさらに細く、弓の弦のようになりました。
「無抵抗な人を真綿で絞り上げていくのは、本当に愉快だね」
九鬼くんは心底嬉しそうに口角を上げると、ゆっくりと右手を持ち上げます。男の子にしては細く繊細な親指と人差し指が、阿弥陀様のように柔らかな輪を形作ります。しなやかな動きに見惚れていると、またクスクスと笑われてしまいました。
「これから蕨野さんをこの床に縫い付けるよ」
何のことか分からず、私が瞬きをした瞬間。九鬼くんが作った輪が弾けて、私の身体に衝撃が走ります。気づいた時には、私は床の上で仰向けになっていました。
「素直だね」
九鬼くんが近づきてきて、私の足と足の間にやってきます。私を真下に見下ろしていました。また、輪が弾けます。私は右の手に重りがついたように感じました。何もついていないはずなのに、酷く重く、とても動かせそうにありません。
「少しの間、じっとしていて欲しいんだ」
輪が弾ける。左手が動かなくなる。輪が弾ける。右足が痺れたように感覚が薄くなる。輪が弾ける。左足まで動かせなくなった時になって初めて、私はことの重大さに気づきました。
「蕨野さんは、この顔に既視感を感じたことはない?」
かろうじて肩だけを少し震わせる私に、何事も無かったかのように話しかける九鬼くんは、私の顎のラインに指を滑らせました。
「そっか。無いのか。残念だな。そして、それは不正解だよ」
私は改めて九鬼くんを見つめます。とても近くにその麗しい顔がありました。睫毛が長いと思いました。
「僕はね、蕨野さんを見ると既視感に襲われるんだ。とても似てる。僕と似てる。同じ気持ちだって信じていたのだけれど」
「あなたの気持ちなんて、知りません」
ようやく言い返すことができたのに、唇の上に九鬼くんの指が二本重なりました。次第にその圧力が強まっていきます。下手に口を開けると彼の指を噛んでしまうのではないかと思い、私にはどうすることもできません。滲み出る涙も拭えない今の私はあまりに無力で無防備で。
「言ってはいけないことを言ってしまったね」
別人のようでした。
地の底から這い出てきた巨人のような声。
「蕨野さんに、一つ昔話をしてあげよう」
昔、ある大きなお屋敷に幸せそうな夫婦が住んでいました。資産家の夫に嫁いだ妻は、蝶よ花よと育てられた所謂お嬢様で、結婚後、明らかに生活が悪くなったと感じてしまった彼女に非はありません。しかも、夫の影には別の女がいたのです。彼女は娘を一人産みましたが、夫婦の溝は見る間に広がっていきました。そんな折、彼女に近づく男が現れました。元々、そこにいるだけで色香を振りまいてしまう害悪な女です。そんな花に群がる虫ケラとでも言いましょうか。彼女は虫ケラたちに傾倒していきました。虫ケラは花畑がなければ生きられません。女はその花としての役目を果たすことに使命感にも似たものを抱くようになっていきました。
ある日、彼女は一匹の虫ケラに誘われて屋敷を出ます。すぐに夫が追いかけてくるのですが、彼女は三ヶ月の猶予を申し出たのでした。そこからです。彼女とその娘の濃密な三ヶ月が始まりました。彼女は別荘で過ごしました。黄色の花畑が広がる避暑地にある静かな場所。彼女は娘を慈しみ、こう言い続けます。『幸せになりなさい、幸せなりなさい』と。それはもう呪いのように刻みつけて、娘の耳に瞳に言葉を焼き付けていったのでした。何も知らない娘は、ただ母親が自分のことを愛してくれているとしか思わなかったのでしょう。まさか、その後に別れが訪れることなどつゆ知らず、野山を駆け回って過ごしていました。
こうして、女は消えたのです。
女は計画犯でした。大変身勝手な自己愛者でした。夫という最も醜い虫ケラと作った子どもは所詮虫の遺伝子を受け継ぐもの。せめて花である自分に含まれる美の要素を残そうと、彼女は娘を蝶に羽化させました。根拠も術も元手も無しに、幸せになることを命令し続けることで、自分の役目を果たしたと勘違いし、そんな自分に酔う女。一方ひらひらと舞う蝶は、行く宛てもなく、帰り道も分からないまま飛び続けました。
そしてある日、突然倒れた娘は十日間寝込み、その後、女のことを忘れました。
「女はどこに消えたと思う?」
九鬼くんの指は唇から顎へと下って、喉の辺りを行ったり来たりしています。私は生命の危険を感じ始めていました。依然として、身体は思うように動きません。手足に括りつけられた見えない重りは、さらに増加しているようにさえ思えました。
「興味ありません」
さらに、頭痛がするのです。九鬼くんの綺麗な顔と、黄色の花畑、白い世界。その三つが交互にフラッシュして視界を遮り、思考が全く真っ直ぐには定まりません。
「嘘だ。目はそう言っていない。あ、そっか。他のことに興味があるんだね」
九鬼くんは器用にも、私のブラウスの一番上のボタンを片手で外しました。
「僕はね、蕨野さんの苦しむ顔が好きなんだ。もっともっと歪ませたいし、その方法は知っている」
「ほんと、悪趣味」
「そう、そうやって、元の姿に戻っていけばいい。ねぇ、知ってる? 僕は蕨野さんが大好きで大嫌いなんだよ。蕨野さんは自分のことを不幸だと思ってるでしょ。そんな不幸なポジションが羨ましくて仕方ないんだ」
九鬼くんの顔が、急に鼻の先に近寄りました。彼の息が直接私の身体に入ってくるぐらいに近く。
「本当はね、その場所に収まるのは僕のはずだったんだ。そういう計画だったんだよ」
「分からない」
「そうだろうね。蕨野さんは、家政婦のことなんて興味なかったもんね。その息子のことなんて、尚更だ」
私は、息子がいたこと自体知りませんでした。葬式前から姿を消した家政婦さんの行方は、未だに分かりません。探そうとしていませんから、当然なのですが。
部屋はすっかり暗くなってきました。九鬼くんの気がより大きく膨らんで、弾けんばかりに私を圧倒します。
「ねぇ、蕨野さんはタンポン派だよね。だったら、きっと大丈夫だよ」
「何なの」
「これから始まるのは秘め事だよ。ちゃんと黙っていることができたら、御褒美に良い所へ連れてってあげる」
九鬼くんは、私のスカートの裾をつまみました。
「姉さんは、僕がいただくね」
今回のお話を要約すると『千代子、両親の秘密を知る。さらに、貞操の危機』といったところでしょうか。
できるだけ日を置かずに更新できたらなと思っています。
応援よろしくお願いいたします。