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16・我壊

 海上では、携帯の電波がほとんど届きません。


 下船すると、夫が運転する車はしばらく高架下の幅の広い一般道を走り、やがて高速道路へと乗り上げました。そこからです。私のスマホ、そして夫のスマホがひっきりなしに震え始めたのは。


 私は夫の方を盗み見ました。その横顔は強張り、瞳からは光が消えています。顔色が悪いのです。きつく結ばれた口元。夫の耳にもこのバイブ音は聞こえているはずです。何を知っていて、何を隠しているのか。私は握りしめた自分のスマホの画面に映る実家の家政婦さんの名前をじっと見つめます。


 車は、サービスエリアへ入っていきました。










 父の通夜はその日の夜でした。


 夫と共に実家に戻ると、家政婦さんが全ての段取りをして待ち構えていました。私は、昨年父が唐突に言い出した成人式向けの晴れ着選びと共にしつらえた喪服に袖を通します。究極の黒。指を乗せると吸い付くような滑らかな質感の高級生地でできたそれは、金額なんて聞かない方が身のためです。家政婦さんは、せっせと私に着付けてしていきました。久方ぶりの着物。否応なしに背筋は伸びて、しっかりしろと身体を叱咤激励されるのです。髪は華美にならないような体裁で、後頭部にまとめられました。わたしは、一人娘。形式上、喪主にあたります。


 夫は、洋装の喪服で私を待っていました。


「知っていたの?」


 夫は私に一歩近づいて、私の左の指先をそっと握ります。顔色は変わりません。


「先生に会いに行こう」


 夫にとって父は、義理の父である以上に恩師なのでした。これは、着付け中に家政婦さんから聞いた話です。


 座して襖を開けると、広い座敷にポツンと敷かれた布団は薄らと厚みをもっていて、枕と思しき方向には小高い丘がありました。旅立っても尚その存在感は威圧的で、そこに在るという気配が強く肌で感じられます。家政婦さんはそっと白い布を外しました。


「穏やかなお顔でしょう」


 どこか勝ち誇った顔をする家政婦さんを夫は完全に無視しています。父の死に顔の向こうに焦点を合わせているようで。ここにはいない誰かと対話しているように見えました。


 確かに父は目を釣り上げているわけでもなければ、眉間に深い皺を刻んでいるわけでもありません。ですが、しっかりと閉じられた口元に父の忸怩たる思いが消えずに残っていると気づけたのは、やはり私がこの人のひとりむすめだからに相違ありません。


 いつも堂々と地に足をつけ、視線は斜め上だった人。私が人前で俯きながら歩くと背中を荒々しく叩かれて、服の中に物差しを仕込むと言って脅すのです。父の娘である私は、いつも良い子であり、世間の模範であり、冷静でいなければなりません。虚ろな気を身体から微かにでも漏らすことは許されず、いつしか私は感情の起伏を無くしていきました。いつも口を噤んで瞳に何をも映さずにいれば、それに徹してさえいれば父がつけいる隙はなくなります。事実そうでした。歳が十を数えてからは、叱られることもほとんど無くなりましたから。一方、時を同じくしてこの父親の口元の皺が濃くなり、いつも何かに耐えているかのように見えたことに因果関係があったのでしょうか。それを解き明かすことまでが一人娘の責務だとは思いたくないのです。


「まだお若いのに」


 家政婦さんは、当たり前のことを言っては目頭を押さえます。

今時、五十代で亡くなるのは珍しいことかもしれません。父も、こればかりは長寿社会の波に乗って、もう少し生きる予定だったにちがいありません。やり残したこともたくさんあることでしょう。けれど、父を憐れに思うことはできません。ましてや、悲しむことも。ですから。


「お泣きになってよろしいのですよ?」


 家政婦さんからそう言われて初めて、本心に気づいてしまったのでした。


 私は、父から解放された。

 そして、私はその解放を歓迎しているし、喜んでいるのだと。


 家政婦さんは表情を崩さない私を鼻で笑うような仕草をしましたが、夫がわざとらしく咳をしたので急に取り澄まして私達から距離をとります。


 家政婦さん。きっと彼女は、女なのです。父に寄り添う女。自分こそが家の主人である私の父と並ぶに相応しく、父の全てを知り尽くしていると信じているにちがいありません。実家にいた頃は私にも甲斐甲斐しく世話してきたというのに、今は最低限になったのが良い証拠。彼女の視線は私を敵視していることが明らかで、彼女こそ本気で悲しんでいるようには見えません。それなのに言外に「私の方が上だ」と主張したくて仕方がない様子。


 あまりにも愚かしく、それこそ憐れです。これには夫も何か思うところがあるようでした。


「千代子。先生は生前からこの時のためにきちんと準備を進めてこられた。弁護士も決まっている。他人の事なんて気にしなくていいんだよ」

「え」

「先生は全て分かっていた。そして、千代子のことだけを考えていた」


 それはもう淡々と。最後通告を受けた家政婦さんだった女は、一瞬泣き崩れるようにして畳に突っ伏した後、転がるようにして座敷を出ていきました。彼女を見たのは、これが最後になりました。


「千代子、愛の形は人それぞれだ」


 雲が空を流れて行く様を眺めるかのように、夫は家政婦さんが消えた行方を目で追います。


 確かに、そうでしょう。命を宿す生き物の数だけ性格というとのは存在し、その表情にも生き様の数だけバリエーションが生まれうる。父の顔に死んだ今でも彼の意志が焼き付いているのと同じで、きっと死に顔というものも数多の種類があるのでしょう。けれど、こんなにも私の心を逆撫でするものは唯一つ。


 ついに、私は壊れました。

 愛を知らないのに愛を語る夫の横で。

 音も無く。前触れも無く。

 すぐには誰にも気付かれずに。



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