14・壁の向こう
外はいつの間にか夜景に変わっていて、沖合の方にまで船の灯りが点々と浮かんでいます。まるで海に棲む亡霊のように、ほおっと光ってはチラチラと揺れるのです。水平線は見えません。海はそのまま空に繋がってあの亡霊たちを天に誘っているのではないでしょうか。恐ろしいこと。
夫は和室にあがってきて、私の隣に座ったのが始まりの合図でした。部屋には間接照明しかありませんから、どこか薄暗く気味が悪く感じられます。これが、これから始まる夫の話にぴったりの良い演出になるなんて、その時の私には思いもよりませんでした。
夫はここ、別府で生まれ育ちました。家族は母親一人。父親はいなくなったのか、それとも元々いないのか、夫は知らないし興味は無いそうです。
母親は夜に働く女性でした。時折昼間も働きました。夫はごく普通の温かい一般家庭の一人息子として、何食わぬ顔で学校へ通い、友達と馬鹿騒ぎをして笑い、ろくに勉強もしないのにテストではなぜかいつも良い点をとって、控えめながらも幸せそうな顔をして生きていました。運動神経はそれほど良くなかったようですが、体育の授業はマラソンだけが得意というタイプで、文武両道ではないところに人間らしさが滲みます。ですから、周囲の子達から頭が良いからとやっかまれることもなく、毎日欠かさず登校し、お世辞にも美味しいとは言えない給食も常に残さず食べることができていました。教師からの評価は可も無く不可も無くといったところ。特別目をかけられることもなければ、悪目立ちすることもありません。世間から見ると、本当に平凡な男の子だったのです。
しかし、これを一般家庭や一般的な少年の標準だと決めつけるには少々厳しい現実がありました。
小学校から徒歩二十五分のところにある自宅は、決して大きくはありません。プレハブよりもマシかもしれませんが、申し訳程度に仕切っただけの薄壁で区切られた平屋の長屋。屋根の瓦は何度かの台風で飛ばされて数を少なくしていました。崩れ落ちそうなブロック塀に取り付けられた、錆び付いた格子の門を押し開けると、冥界から漏れ出た妖怪のような音が空間を歪ませ、「お前の家はここなのだ」と夫を迎え入れるのです。荒れ放題の庭は雑草が背丈程にまで生い茂っていて、それをかき分けるように進むと、飾り気のない真っ平なエンジ色のドアが待っています。そして夫は静かに深呼吸をすると、ランドセルから白い紐からぶら下げていた鍵で開錠するのでした。
家に入ると、大抵知らない靴が並んでいます。それは常に男性もので、一足の時もあれば二足の時もあります。ツヤツヤに磨きあげられて、その家にはあまりに不似合いな物のことも多く、夫はそれらには絶対に触れようとはしません。なぜなら、母親からキツく禁じられていたからでした。
家は広くありません。玄関横には細長い下駄箱があり、その向こうにはすぐに食卓があります。食卓の向かいにある窓側には殆ど使われていない台所があり、夫が片付けない限りはシンクにゴミの山が溜まっていくシステムになっていました。
食卓の向こう側には風呂場と狭い洗面所、それにお手洗いがあり、夫はさらにその奥にある納屋へ忍び足で駆け込みます。納屋はおおよそ三畳あり、そこは母親からも許された夫の居場所でした。納屋を隔てて隣。毎日のように声が聞こえてきます。夫は、それが誰のものか知っていましたが、長い間認めることはできませんでした。そんなある日、夫は奇声を発します。
何と言ったのかは、本人も覚えていないそうです。ただ、その直後ほとんど裸の母親が襲いかかってきて、気を失ったことだけは確かだそうで。
再び意識を取り戻した夫が、まず耳にしたのは母親の叫び声でした。
「お前なんていなくなればいいんだ! 誰のためにこんな生活してると思ってんだよ?」
夫の母親は、一般的に美人と呼ばれる顔立ちをしていましたが、夫はそれを世界一醜い鬼だと思ったそうです。夫は、鬼の言いつけを守ることにしました。家から存在感を消し、ある種「いなくなる」ことにしたのです。
夫の息を潜めた生活が始まりました。夜な夜な天井を履い回る鼠よりも小さくなって、過ごしました。
「どうして、そんな家を出ていこうと思わなかったのですか?」
「なぜだろうね」
夫はこんな話をしているにも関わらず、半笑いでどこか遠く、壁の向こうを見ていました。そして、言うのです。
いつも壁越しに聞く母親の声は嫌いだと。嫌いだけれど、救われるのだと。声を聞くことで、それに耐えることで、いつか存在が許される時が来るのではないかと信じていたと。
「もしあの人が本気だったならば、すぐにでも僕を叩き出すことはできたはず。でも、それはしなかった。それにね、時々『助けて』って言ってるように聞こえたんだよ」
「助けにいったの?」
「泥舟は、二人で乗ったらもっと早く沈むだけだから」
夫の瞳は曇りガラス。ぼんやりと橙の灯りを映していますが、その奥にはほとんど光は届かない闇があるのに気づきます。
「でもね、母親って、やっぱり特別なんだよ。結局、中学卒業と共に捨てられたとしてもね」
「そういうものなのですか」
私は、母を知りません。
「そう、そういうもの。だから僕が女性が苦手なのも、自宅で声が上手く出せないのも、まだ彼女の呪いが身体に染み付いているんだろうね」
夫は壁に向かって腕を伸ばします。届かないと分かっていても。何も掴めないのは明らかでも。その向こう側にもう誰もいなくても。
「こうすることで、恭順を示すことで、どうにか普通っぽく生きてるフリができるんだ」
夫の腕は宙を切り、乾いた音を立てて畳の上に落ちました。
「びっくりした?」
「いえ、あの」
「僕はたぶん愛されて育っていない。こういう人ってさ、どうやって人を愛すれば良いのか分からないんだって聞いたことない?」
その手の知識も、私にはありません。私は曖昧に首を振ります。
「だからね、千代子のこと」
夫は私の方を見つめました。
「愛することは、無いと思う」




