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11・解放

 あの人と呼んでいるものの、それが誰なのかは分からないのです。顔も分かりませんが、女性的な何かを感じさせる、おそらく人。もしかすると、何度も夢の中に、夏の光の中に、冬の風の中に、春の空の上に、秋の落ち葉に埋もれるように、幾度となく現れる彼女は私の妄想の産物かもしれません。けれど、あまりにもリアリティがある彼女の存在は長年私から消え去ることなく、昨今では鏡で自分の姿を見ている時でさえ視えてくるのです。

そして、その影が一層濃くなるのはこの景色。黄色の花畑。


 私は黄色が嫌いです。

 元気が出る色だとか、危険を知らせる色だとか、感じ方は人それぞれですが、私にとって黄色とは痛烈な記憶であったり、醜悪なものの象徴です。刃物を後ろ手に握って薄気味悪い笑顔で近づいてくる殺人犯。断崖絶壁までに追い詰められて、もう飛び降りるか刺されるしかありません。けれど飛び降りた所で眼下は黒い海と白くて高い大波。究極の二択を迫られた時、人が取る選択は大きく二つ。選ぶか、選ばないか。私は、選んだつもりで選びきれず、いつの間にか足元の崖が崩れて否応無く奈落の底へ落ちていくのです。そして目が覚めて汗だくの身体を布団から起こすと、カーテン越しの空が白みがかっている。そういうことは、よくあります。


 でも、今は現実です。

 横には薄笑いの九鬼くんが居て、私の身体には短い影がくっついていて、なかなか癒えない膝の傷が今更のようにしくしく痛むのですから。それは分かっているのに、これが夢であればと思ってしまいます。


「私、帰る」

「どこへ?」

「どこって、家に」

「それは、本当に蕨野さんの家? 蕨野が帰るところなの?」

「それは……」


 九鬼くんは、白いTシャツを来ていて、夏のような白い日差しの中に佇んでいました。空から遣わされた天使みたいに美しいのに、それがかえって彼の中の邪悪さを際立たせているようで。


「ほら、思い出して。蕨野さんはお母さんに棄てられたよね。最後にお母さんと会ったのが花畑だったんだよね。お母さんは蕨野さんに何と言ったのかな? 蕨野さんは、お母さんの言いつけ通り良い子に過ごせているのかな?」

「私は」


 私の全身はぐっしょり濡れ始めました。暑さのせいではありません。嫌な汗が噴き出して止まらないのです。


「もしかして、お母さんの言う通りにしていたら、いつか赦してもらえるとでも思っているのかな? それとも、許してあげようと思っているのかな? お父さんも酷い人だよね。突然転校させるし、家は追い出してしまうし。しかも蕨野さんには、大切なことを何一つ言わないんだもんね」

「私は」


 遠のきそうな意識を必死で繋ぎとめます。同時に、存在しなかったはずのものが分厚い埃を被った状態でその姿を現し始めました。見たくない。触れたくない。知りたくない。


「しかもあんな変人と住まわされて大変だよね。蕨野さんはよくできた家政婦さんなんだよね。ご奉仕はどんなことをしてあげてるの? 教えてよ」

「私は……!」

「蕨野さんが、何?」


 それは、昔テレビで見たゾンビに似ていました。逃げても逃げても追ってくる。死んだかと思っても、何度でもそのおぞましい顔を上げて、四つん這いから二足歩行へとすぐにその力を取り戻して、私をあちらへ引きずり込もうとただれた手をゆらりと揺らしながら伸ばしてくるのです。ついに私は足がすくんで動けなくなってしまいました。首に絡みつくねっとりとしたぞんびの長い指と腐臭。


 もう、限界でした。

 ゾンビが私の剥き出しの肩に歯を立てます。なぜか私の身体からは緑の血液が噴水のように噴き上がって。


「私は、私は、どうしたら良かったのよ」


 私の視界は、私の居る世界は、全ての色という色がそれまでとは違っていました。青は青ですし、赤は赤。ですが、どれも爛々としていて、それぞれに熱量があるのが分かります。そして私も。


「私は、こんなにがんばっているのに。どうして私がこんな目に合わなきゃいけないの? 私はどこで間違えたの? なぜこんなことになってしまったのよ? ねぇ、教えて。何でも知ってるんでしょ? こんな嫌がらせをする九鬼くんなら、私を変えることができるんでしょ? ねぇ、お願いよ」


 最後は、声が掠れて自分でも聞こえるか聞こえないか分からないぐらいの音になっていました。とても人間とは思えないような、獣の叫びとして、私の声は黄色の花畑に吸い込まれていきます。


「そうだよ。そうやって怒ればいいんだ。叫べばいいんだ。そうすれば僕も少しは救われる。きっと、あの人もね」


 私の視界の下半分が突如真っ黒になります。目眩を起こしたのでした。平衡感覚を無くして傾きかけた私を九鬼くんは意外にも頑丈な腕で支えてくれます。


「今なら、蕨野さんのこと、本当に好きになれそうだよ」

「人の泣き顔が好きなんて趣味が悪いわ」

「そうかな? もっとボロボロになってほしいな。そうすれば、それをオカズに白米だけを食べて、あと三千年ぐらいは長生きできそうだよ」





 家に帰ると、車庫に車がありました。身体が強ばって、鞄の外ポケットに手を差し込んだまま、中から鍵を取り出せずにしばらく立ち尽くします。家に入ることにこんなに緊張するのは初めてのことでした。


 私にとって家とは出ていく所でしたが、夫にとってはどうなのでしょうか。やはり、帰るところなのでしょうか。


 考えるべきことから思考を逸らせておきたいのに、結局遠回りしてでも戻ってきてしまう。それは、家の定義に連なることかもしれません。



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