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10・追憶の鍵

 静かなエンジン音が遠のいていきます。これは夫がいなくなったという合図。私はそれを見計らって布団から起き出すと、キッチンに向かってテレビをつけました。雑多で無意味な情報の海も、多少の気晴らしになるのです。


 天気予報は、今シーズン一番の暑さになると告げていました。私は日に焼けるとすぐに肌が真っ赤になり数日間痛みます。確か鏡台の中には日焼け止めもあったはずだと、記憶の中で確かめました。


 トーストは一枚だけ焼き、何もつけずに食べました。食パンに小さな半円型の歯型をたくさんつけて遊びながら、何度もスマホの画面を眺めます。同級生の男子からこういう連絡を受けるのは初めてのことです。結局返事はしていませんが、九鬼くきくんという人物は私が必ず約束の場所、約束の時間にやってくることに確信を得ていることでしょう。私はそういう人ですし、彼もああいう人なのです。どちらかといえば敵対しているとも言える私達は、夫婦よりもある意味分かり合っているのでした。







 九鬼くんが駅前のロータリー付近に現れたのは十時三十秒前で、私が到着したのはそれからさらに三十秒前。九鬼くんは私の顔を見ると挨拶するでもなく、ただ「行こう」と言いました。


 九鬼くんは、どちらかと言えば中性的な顔立ちをしています。いつの間にか神隠しに遭ってこの世からふと居なくなっても誰も気づきそうにないような儚さ。もしくは彼自身が座敷童子やあの世に導く妖なのか。まだ午前なのに、早くも熱気を孕んだ風が彼の髪を揺らし、強い光線がその存在を白く焼いていました。


 どこかスピリチュアルで透明感のある外見。普通であればクラスでも一部の女子には人気が出そうなものをそうではないのは、きっと彼の笑い方に問題があるのでしょう。あの不気味さは日陰がよく似合います。あまりにも似合いすぎるからこそ、私もついつい気を許して会うことを決めてしまったのだと思われます。


 この駅は路線バスのターミナルにもなっていて、多くのバスが発着していました。九鬼くんは四番乗り場へ向かい、既に止まっていたバスの入り口ステップへ片足をかけて、こちらを振り向きます。私は頷いて彼に続き、乗り込みました。私が青い二人がけシートの窓際に腰掛けると同時。バスはまるで怒っているかのように荒く威圧的な鼻息を吐き出すと、ゆっくりと動き始めました。


 緩やかに景色は流れていきます。ほんのりと空調が効いていて、快適な移動になりそうでした。でもそれは初めだけのこと。私は九鬼くんの視界に入りたくなくて、九鬼くんよりも後ろの席に座っていたのに、彼は私の横の席に移動してきたのです。この辺りは観光地もありませんし、土曜日の午前なんて乗客はほとんどいません。ガラガラなのに、わざわざ私の横へ密着するようにして座る意味は分かりませんでした。


「どこに行くんですか?」


 このバスは、市役所前を経由して街中を経由した後、海辺の岬まで行き、同じルートを折り返して駅へ戻ってくるという巡回バスです。


「猫、探してるんでしょ」


 九鬼くんの横顔が、ビル影に重なって少し暗くなりました。


「もしかして、見つけてくれたの?」


 バスが少し進み、信号で止まりました。再び眩しい陽の光が差し込みます。


「どこのどんな猫なのかも知らないのに?」


 九鬼くんの不気味さは今日も絶好調でした。バスは幹線道路の高架を潜り、車内は完全に薄暗くなりました。


「今日は、ショートトリップできるよ」

「小旅行という意味?」

「少し違う。君は、本来あるべき場所へトリップするんだ。僕はその案内役」


 猫の話はどこかへ逃げていってしまいました。その辺りの電柱の影にでも潜んでいて、ふっと前触れもなく私の視界を横切るかのようにして再開することを期待していましたが、九鬼くんは楽しそうに口角を上げたままで喋りません。バスはずんずんと街中を進んだ後、大きな山に突き当たりました。ぽっかりと空いたトンネルが近づいてきます。その暗闇の中にバスは吸い込まれていきました。








 降りたのは、『岬西口』というバス停でした。あばら家と呼ぶと失礼かもしれませんが、壊れかけて傾いた長屋が並んでいます。庭先で洗濯物が揺れている家もありますから、こんな所でも人は生活できるということなのでしょう。


 生い茂る雑草をかき分けながら歩みを進めると、海が見えてきました。粗末な民家の入口では、何をするでもなくパイプ椅子に座った老女が海の向こうを眺めています。足元の土が砂のように細かなものに変わった頃、やや整備された野原に行き着きました。


 中央には屋根付きの休憩所があります。昔はちょっとした展望台的な観光地だったのかもしれません。でも、潮風を感じるには海から遠すぎるこの場所は、なんの面白みもありませんでした。私は、じわりと汗が吹き出るのを感じます。これだけ暑いと、せっかく塗ってきた日焼け止めなんて、なんの役目も果たさないかもしれません。


 その時、近くの草陰がカサリと揺れました。バッタが跳ねたにしては大きすぎる音。立ち止まって様子を伺っていると、出てきたのは白い猫と黒い猫でした。


「ほら、向こう」


 九鬼くんが休憩所を指さします。すると、腐りかかった柱の影から、さらに猫が現れました。


「猫さん」


 近づくと、もっとたくさんいました。ベンチの上に横になる猫。床で丸くなる猫。皆暑さを凌いでいるのでしょうか。どの猫も、とても不機嫌そうです。


「ここ、何だか怖いわ」

「僕と一緒だから?」

「それもあるけれど。皆こちらを見るんだもの」

「そうだね。いつも皆に見られてるんだよ」

「猫であっても、不躾な視線は失礼だわ」

「けれど、そういって怒る蕨野さんのことは好きだな」


 私はびっくりして、猫の背に伸ばしかけていた手を勢いよく引っ込め、九鬼君の方を振り返ります。そんな私に驚いたのか、目の前の曇り空のような灰色の猫は私に飛びかかりました。


 いえ。ただじゃれ付いただけだったのかもしれません。灰色猫は私の手の甲に傷を作りました。薄らと血が滲んでいます。


「そう、その顔も好き」

「私、帰ります」

「次のバスは一時間後だよ」


 そう言うと、九鬼くんは血で汚れた手を握って私を立ち上がらせました。


「行こう」


 私達は手を繋いだまま歩き続けました。野原の端の方から始まっていた遊歩道は、緩やかな長い上り坂が五回と、急な下り坂が三回あり、苔で覆われた岩やビッシリと蔦植物が張り付いた急斜面の横をうねうねと続いていきます。初夏のエネルギーをふんだんに吸い込んでたくさんの葉をつけた木々の下では、外気が二、三度低く感じられました。九鬼くんは白く光ったり黒く染まったりしながら、ただ楽しそうに足取り軽く私を導きます。途中、灯台まで後三百メートルという標識が現れましたので、行先が判明してほっとしていたのも束の間。

 私を待ち受けていたのは地雷でした。それも、近づくだけで発動するという強力なもの。


「着いたよ」


 九鬼くんは、とても誇らしげに笑っていたと思います。そんなことも記憶にきちんと残らないぐらいに、トラウマの引き金はしっかりと引かれ、眉間に穴が貫通する感覚が広がっていきました。


 花畑。全て黄色の。潮風と共に遥か彼方から私の全身をすべて飲み込むべく、高い高い波が迫ってきます。私には視えていました。あぁ、これはあの人の呪いなのだと。


 今でも耳にはっきりと残っています。決して消えることは無い呪詛。



『幸せになりなさい』




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