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1・セーラー服の若妻

緩やかにスタートしました。

丁寧に書いていければなと思います。

 世の中というものは、不思議で満ち溢れているのですね。


 十七歳のお誕生日を迎えた日。まだ高校生という御身分なのに、私は十歳も年上の男性をパートナーとして生きることになってしまいました。でもここから始まるのは、そんなことよりも、もっともっと不可思議なお伽噺なのです。


 それは下校途中に立ち寄ったスーパーからの帰り道のことでした。私は、学用品が入った鞄と白ネギが二本飛び出る大きなビニール袋をぶら下げて、自転車を漕いでいました。セーラー服のスカーフが風になびきます。黄昏時の住宅街。家々の隙間から、この世ならざるものが私の手を引いているかのように、自転車は右へ左へとゆらゆら揺れます。つまり、私は自転車に乗るのが下手なのです。夏になって日が長くなったためか、もう五時なのに空はまだ昼間のように明るく感じられました。


 私は、夕飯の段取りを頭の中でおさらいしながら、ぐらぐらする前輪をなんとか制御します。二人で囲む夕飯は、私にとっては幸せの時間。無事に一日が終わるという実感がもてるので、ささやかな私の楽しみなのです。そこに美味しいお料理は欠かせません。


 私は、パートナーのことを人前では『夫』と呼んでいます。そうしないと格好がつかないので、仕方のないことなのです。


 夫は、鶏肉が大好きです。冷蔵庫の中の鶏肉を切らせると怒ります。それ以外で怒ったところは、私の知る限り見たことがありません。だから今日も、鶏肉を一パック買い足しておきました。


 自転車を漕ぐとお腹が空きます。食べ物のことばかりを考えていたからかもしれません。私は早く帰れるように近道しようと考えて、誰もいない公園の中を横切ろうとしました。けれど、公園の敷地の淵にある段差に乗り上げた瞬間、視界はくるりと回転。次の瞬間、私の目の前には固い地面が迫っていました。こけてしまったのです。


 痛い……です。


 膝からは血が滲み出ていましたから。見渡すと、辺りに野菜などの食材が散らばっていました。今日はたまたま卵を買っていなかったことは、不幸中の幸いです。でも、鶏肉のパックに穴が開いてしまい、同時に私の心にも風穴が開いてしまったその時。背後で一台の車が急停車する音が聞こえました。



「おかえりなさい」


 車から降りてきたのは、私の夫です。

 この台詞は、私が先に言うべきものでした。


「ただいま。おかえりなさい」


 続けて言うのは、なぜか照れます。


 彼の髪はとても短くなっていました。昨夜私が「少し短めの方が若く見えると思う」と言ったからかもしれません。仕事帰りなのでスーツ姿でした。お仕事の合間に切りに行ったのでしょうか。


 私の視線に気づいた夫は、何かもごもご呟くと、私に手を差し伸べました。私はそれに掴まり、立ち上がります。


 二人で、買い物したものを拾い集め、車に積みました。夫の車は大きいので、私の自転車も悠々と積むことができます。

 私はいつも通りに助手席に座って、ローファーのつま先を揃えました。夫の車は自分の家の車のはずなのですが、まだ他所の車の匂いがします。


 夫は、何か私に声をかけて、車を発進させました。


 しばらく走ると、植木屋さんの前の横断歩道で、手を上げる子どもたちがいました。車はピタリと停止して、夫は私の方を振り向きます。


 たぶん、何か言ったのだと思います。ですが、また声は聞こませんでした。夫の声は、とてもとてもとても小さいのです。


 夫と生活を始めた頃は、彼の言葉を一字一句聴き逃すまいと必死になっていました。相手は一応対等と言えるパートナーとは言え、十歳も年上の男性。やはり失礼なことはできません。


 ですが、次第に私は疲れていきました。


 全てを知ろうとすることが無意味に思えてきたのです。私は、きちんと聞こえる声で話すことができない夫は、他人とのコミュニケーションにおける怠慢を働いていると思いました。ついに、怒りも感じるようになりました。



 もちろん、私はこのことを夫にも丁寧な口調で訴えました。そのおかげで、簡単な挨拶だけは聞こえる音量を出してくれるようになったことは、大変喜ばしきことです。


 でも、人間というものは貪欲な生き物で、私はもっと彼の声が聞きたくなってしまいました。


 なぜなら私、彼の声が、好きなので。


 彼の声は、高すぎず低すぎず、癒し効果のある優しい音波です。すっと身体に沁み込んでいく化粧水を超える浸透性があります。


 夫は、目の前を渡る子ども達に笑顔を向けていました。そして、また何か言いました。


 あぁ。なぜこんなにも、彼の声は小さいのでしょうか。きちんと普通の音量を出せば、あんなにも良い声なのに。本当にもったいないことです。



 その後は、なぜあんなことをしてしまったのか。

 当時の私にいくら問い正しても、きっと答えは見つからないことでしょう。



 私は無意識に、カーステレオについていた音量ボタンを押していました。上向き矢印のボタンです。




「千代子。僕たちにもいつか、子どもができるかな?」




 とんでもない言葉が聞こえました。

 それも、少し大きめの音量で。

 しかも、音質はクリアです。



 私は黙って、下向き矢印の音量ボタンを連続で押しました。


 彼はまた何か言っていましたが、声はもういつも通り小さくて聞こえません。世の中、知らない方が良いことがたくさんあると言いますが、それは本当のようです。



 私、千代子、十七歳の夏。

 不思議な力を手に入れました。



お読みくださり、どうもありがとうございます。



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