第80話 旧名二環
散りばめられた夜の光。
満天の星空は天高く。
優しい風が地表を撫でた。
居間を明るく。彼女は一人、帰りを待っていた。
しばらく家を空けていた家族の帰宅を待っているのだ。
先程よりずっとつけっぱなしのテレビは目の前に。ニュース番組で流されているのは、芸能、経済、スポーツ関連、先ほどまでの緊張感は微塵もない。国営放送は普段通りの19時を送った。
予告された災害は不発に終わり、この町は再び平穏を取り戻す。
しばらくして、やがて聞こえてくる音は玄関の方から。
オートロックが開く音。
ガチャリと。
これが不審者でないことは当たり前すぎる日常の一つだ。
つい先ほど、今から帰ると彼から電話があったばかりである。
玄関の方までぱたぱたと迎えに出る夏子。
そこにいるのは一人の男だ。くたびれた革靴を適当に脱いで靴箱へとしまっていた。
また、年季の入ったロングコートとそれの掛かった男の広い背中は、身長に関わらずその人間の大きさを感じさせた。
そして頭に載せた紳士な帽子と、そこからはみ出るグレーなくせ毛。
最初に帰宅したのは、叔父である増住陽一だった。
「おかえりなさい。」
「ああ、ただいま。悪いね、ずっと家を空けてしまった。大丈夫だったか?」
「私は大丈夫です。叔父さんこそ、お仕事お疲れさま。」
増住陽一。一見ごく普通の中年だが、叔父はこの町の知事を務めており、割と偉い人であった。
知事としての日々は大変忙しいようで、兄以上に家を空けがちな叔父であるが、こうしていつも夏子と潤史朗のことを気にかけており、実の父親がわりの立場と言っても差し支えはない。
ただ、歳も20を越えた後には一緒に暮らしていても、やはり他人という距離感はどうしても詰めようがなく、言葉遣いは他人行儀になりがちだ。
しかしそれでも、こうしてよく面倒を見てくれることには感謝しているし、できるだけ家族としてありたいとは思っていた。
実際のところ、何故知事たる増住がこの兄妹を引き取ったのかは謎である。考えられるのは、やはり潤史朗関連。つまりは公安絡みという訳であるが詳細はどうも伏せられているようだ。
しかしそれの関係がどうであれ、今は確かに家族ということに間違いない。
こうして夏子が夕食に用意した鍋を囲み、そしてその日の出来事を話しながら、団らんのひと時を共有するのだ。
今日の夕飯は、鶏肉をふんだんに使った味噌鍋だ。
溢れんばかりの湯気がもうもうと部屋に立ち込め、外から戻ったばかりの冷えた体は、それだけで温まりそうに思えた。
増住は脱いだコートを椅子に掛け、早速鍋を頂こうと、自身の椅子を引いて掛ける。
「悪いなぁ。夕飯待ってくれてたんだろ?」
「鍋ですしね。一人で食べるのもおかしいかなって。」
「そうだなぁ、鍋ってのは大人数で食ってなんぼのもんだわなぁ。よし、そんじゃ頂きま……。」
「待って。」
茶碗を片手に、沸々と鍋に踊る鶏肉に箸を向けたその時、夏子がそれをぴしゃりと止めた。
「へ?」
「ジュンがまだ。です。」
「お、おお。おぉ? そう言えば潤史朗のやつ、まだ帰ってないのか?」
「そうなんです。」
「んんん、そうか。」
「多分、例の地震の関連でジュンの方も忙しいんですよね?」
「まぁ、そうなんだが。だが流石にもう上がってるとは思うがなぁ……。」
増住は首を傾げた。
潤史朗の方はとっくの昔に地底から戻っているはずだった。
彼からの報告では、超級ムカデリオンの鎮圧に成功し、問題のアサルト・ゼロも撤退。取り敢えず事態は収拾したとのことである。
それがつい8時間前のこと。
こちらは知事としての後処理に追われ、なかなか帰宅できなかったわけであるが、潤史朗の方も何かしら事後処理で忙しいのだろうか。
少なくとも、負傷によって帰還が遅れていることは無い筈だ。そのことについても報告は受けている。
平和が戻った街に、潤史朗だけが戻らない。
と、そう思った矢先であった。
玄関のほうからまたしても音。
戸の向こう側。その遠くより、吹き上がるエンジン音が轟いた。
「ジュン?」
夏子はがたりと席を立つと、先ほどよりも速足で玄関の方へと向かった。
しかしどうだろう。
すでに聞こえないエンジン音、戸の開かれる様子は一切ない。
不思議に思って、彼女はスニーカーを靴箱から落とすと、踵を潰したまま外に出た。
誰もいない駐車場。
いつも通りに置かれる軽トラックと、それと増住のSUV。
「……。」
ただ。夜風に流れ、聞こえ来る叫びが一つ。
バイクのエンジン音が遠くにあった。
「潤史朗じゃあなかったか?」
増住が彼女に遅れて外に来た。
「……。」
「お? そう言えば俺が帰った時に、黒いバイクがここにあった気がするが……。勘違いだったか? そうだよな、バイクなんていつも置いてないしな。」
「いま、ジュンがいた。」
「んお?」
「叔父さん。鍋、冷める前に食べましょ。」
「おお。いいが、潤史朗は?」
「……。」
「ん?」
夏子は、少し乱暴に玄関の戸を閉めた。
食卓に戻る増住と、しばらく玄関に突っ立つ夏子。
彼女はそこで、自分のスマートフォンを開くと、いつもの会話アプリを起動した。
いつ帰るの? と書いた彼女のメッセージは、ただ既読の表示が出るのみで、潤史朗からの返答はそこに無かった。
星の吹かす夜風の中。
走るバイクは旧名古屋第二環状自動車道の上。
黒い車体は、まるで何かから逃げるように。夜も働く運送会社のトラック群を次々と抜き去っていった。
どこへ向かうともなく。
今はただ、このスピードの中だけに生きていたかった。
そして、ようやく立ち止まった場所は夜のパーキングエリアだ。
ガソリンがそろそろ底をつく。
セルフの給油所には自動車の一つもなく、さっと紙幣を飲ませてハイオクを満タンに。給油自体は数分も掛からずに作業を終えた。
燃料は満タン。しかし、これで帰るのかと言われれば、まだそんな気分にはなれないでいた。
潤史朗はここに。
脱いだヘルメットはバイクのシートに乗せたまま。それを眺めて啜る缶コーヒーだった。
この瞬間を最高だと、そう思うだろうか?
そうだ。
缶コーヒーはいつだって最高だ。
アサルト・ゼロの幹部たちを退け、そして超級ムカデリオンを撃退することにも成功した。この町の平和を守りきった。
だがそれについて、特別な喜びや、達成感なるものは、何か、つかみ損ねた気がしてならない。
別にいいのだ。
しかし。
なんとも言い難い、この虚無な感覚と現実感。
まるで手の平から、何か大事な物をこぼして失くした様な。
これに、不思議と違和感がなく。そんな自分が立っている。
コーヒーが旨い。
別に夏子と顔を合わせずらいとか、そんなことを思っているわけではない。
しかしだ。
あの時自分が感じた事、その予測の先にあったものは、ただ決められた宿命的絶望と、それを自然と受け入れる自己という存在。
能力を高めたルニアと額を合わせ、その瞬間、自身の思考回路が焼き切れんばかりに働き、そして未来にあり得る最悪の可能性を再現した。この尾張中京都の終焉、そして人々の暮らしの崩壊を極めて現実的に予見したのだ。
そして、それを何の抵抗もなく、まるで当たり前のことのように受け入れていた自分が、その時そこにいた。
破滅に向かう都市を見て、抱く感情は無に近い。
唯一、そこにある不思議な美しさのみを全身で感じ取り、死にゆく人々をただ眺めて見送っていた。
無論ここが尾張中京である限り、妹もその中にいただろう。
しかし、そんな当然たる事実はほんの一切も気にもしていなかった。
自分とは何なのか。
それは想像以上に中身がなく。
虚無で。
暗く。
すかすか。
コーヒーの味がよく沁みる。
こみ上げるような激しい思いはなく、改めて思う自己の存在に否定的な価値を見出せず、しかしその思考の残した事実自体には疑問を持たざるを得ない。
想定された崩壊の先に、失ってなるものかと走る自分は想定になかった。
つまり何が言いたいのか。
要は、現実的に脳が感じた都市の危険に際し、夏子を守ろうと必死にならなかった自分がいて、むしろ崩壊を美しく感じ、その狂気を受け入れたことに対する、複雑な感情だ。
口で言うほど、人の世を救いたいなんぞとは思ってはおらず。ただ地底の虫と戯れていたいだけの自分に気づいてしまった。
それでも、そのことに対して肯定を渋っているわけでもなく。
確かな事実として認識した。
ふと思い出す、あのテントウムシドローンこと、東雲廉士の言葉を。
ニセ潤史朗、だっただろうか。それもあながち間違ってはいないかもしれない。
なにせ、こんなにも空なのだから。
今自分で考えていることすら、どこか形骸的で、ただ社会通念上の倫理観をなぞったにすぎないと感じる。
ほんとの自分などむしろ、何もないのか。
そしてそれについて、絶望や苦悩といった自己肯定的な証拠すら挙がってこないときた。
それでコーヒーが旨いわけだ。
見上げる夜空は恐ろしいほどに美しく、この途方もない距離感は、地下でずっと暮らしてきた者たちにとっては、幻想的なほどに絶景と言えよう。
僕は、誰だ。
そんなとき、なんとなく開いたスマートフォンには新たな通知が入っていた。
帰りを待つ妹夏子かと思いきや、それは意外な人物からの連絡であった。
いや、全然意外ではないか。
モヒカンにサングラスのアイコンと、その吹き出しからは典型的なオネエ言葉が綴られた。
なんてことはない夕食の誘いである。
だが、そこに添付される画像には長い銀髪の少女が写っていた。
そういえば腹も減った。
今日は誰にも会う気分ではなかったのだが、何となくそちらに足が向いた。
再びバイクに跨り、満タンの燃料でエンジンを吹かす。
テールランプの幻影を残し、駆ける高速道路は海を目指した。
時間にして30分も掛からなかっただろう。
旧名二環を降りて、南進すること更に数分。
辿りついた場所は海。添付された画像の背景とその景色が一致した。
揺らぐ海には星の光が散りばめられ、暗い浜辺には明るい炎と、それに照らされる人影が二つ。
潤史朗は適当にバイクを降りると、その二人の元へと歩いて向かった。
「あ~ら潤史朗ちゃん!! 来てくれたのね! 嬉しいわ。」
「ジュンシロウ! キタ!!」
金網に焼ける肉と胡椒の香り。
誰もいない浜辺でバーベキューか。
白衣のモヒカンはDr.ニュートロンと、そして小さなルニアが肉を頬張る。
ルニアはこちらを振り向くと、口からはみ出た巨大な肉を一気飲み。端から使っていない割り箸を投げ捨てると、こちらに向かって駆け出した。
砂浜を蹴り、飛んで抱き着くルニアは潤史朗の胸に。
元のサイズに戻った、ちっこいルニアだった。
「おう、ルニア。しっかり食ってるか?」
「クッテル! ルニア、ニククッテル。ニクウマイ!!」
「そっか。良かった。」
「ジュンシロウモ、ニク、タベル!」
「そうだね、頂こうか。実はおなかペコペコなんだよ。」
そう言ってルニアを下に降ろすと、バーベキューコンロの方へと砂浜の中に足を運んだ。
トングで直接肉を突っついて食べるルニア。
ワイルド。
そしてドクターの方はせっせと肉を追加する。
「あの、ルニアちゃん。それ全然焼けてないわよ?」
「ン?」
肉で頬をパンパンに張ったルニアは不思議そうに首を傾げた。
「焼くの代わりますよ。ドクターもしっかり食べて下さい。」
「あら、いいのよアタシは。それより潤史朗ちゃんも、ほらどんどん食べて。ルニアちゃんに全部食べられちゃうわよ。」
「ははは、そうですね。」
「それよりあなた。妹ちゃんのほうは良かったの?」
「え?」
割り箸で肉をつまむ潤史朗は一旦その手をぴたりと止めた。
「こっちに誘ったアタシが言うのもなんだけど。妹ちゃん、あなたのこと心配しているんじゃないかしら。」
「そう、ですね。」
潤史朗は焼かれた肉を紙皿に載せて置く。
そして、上げた視線はどこか遠く、波打つ海面に向けられた。
「何か、悩んでる?」
「いえ。」
「そう。」
「強いて言うなら、悩んでないことに悩んでいますね。」
「あら、それは幸せじゃない。」
「そうですか?」
と。
再び紙皿に視線を戻すと、そこに乗せた肉は何故か巨大化していた。
横からルニアが、どんどん肉を盛ってくる。
「ジュンシロウ! モットニク、クウ!」
「あ、ああ。ありがと。」
だいぶ生焼けだが。
「ほら、ルニアちゃんの言う通りよ。つまらないことに落ち込んでないで、どんどん肉を食べなさいよ。」
「別に落ち込んでるわけじゃ、ないと思いますけど。」
「じゃあ尚更よ。ほら食べて!」
とりあえず、ルニアがくれた生肉を網に戻した。
落ち込んでいるのだろうか。
そうではないと思うが。
「そもそも妹ちゃんのところに一直線で戻らないこと自体が変よ。」
「まぁ、そうですよね……。」
そしていい具合に焼けたところで拾い上げ、タレに浸して肉に噛みつく。
なるほど、これは旨い。
またそう思うと同時に今まで無視してきた空腹がどっと押し寄せるように腹が鳴るのだった。
「いい食べっぷりじゃない。ほらもっと遠慮しないで。」
「ジュンシロウ、モットニク! モット!」
そうして追加される生肉だった。
「ねえ、ドクター。僕って何ですかね?」
不意に出ることば。
別に答えを求めているわけではないが。
なんとなく、そんな疑問が口からこぼれた。
「あなたは、あなたよ。潤史朗ちゃん。」
「ジュンシロウハ、ジュンシロウ!」
そこに加わるルニア。
「ルニア?」
「ジュンシロウ、ルニアトオナジ。」
そう真っ直ぐ見つめる少女の目は、ずっと閉ざされたままだ。
しかし、彼女はこちらの胸の真ん中を、そしてそのずっと奥のほうを見つめているのはよくわかった。
「ルニアトオナジ。カラッポデ、ナニモナイ。ナニモミエテナイ。」
そんな少女は、目を細めたまま。そして、にこりと笑うのだった。
「ウフフ。」