第79話 地下核実験場最深部
これにて終焉。
我々は敗北し、そして世界は崩壊を始めるのだ。
怒りに溺れ、地に歪みを走らすは掘削龍。遂に人類を敵とみなしたか。ムカデは地上を目指し、その障壁となり得る物体を、岩盤に、また防壁層、あらゆる地盤を凶悪な牙で破壊した。この超級が目指すは、ただ地上。
光が苦手だと? それが一体何だろうか。
我を忘れて思い切り突き崩せば、電気の流れ、配線の束は容易く途絶えた。もはや、この虫の上昇を阻むものなど何もない。
揺れる尾張中京都。
地下コロニーの中央に大穴が開けられる。それは、地獄の底部と日常とを繋ぐ鬼門となった。
この実態が意味するところは。
それは。
怪虫の侵攻、これに尽きる。
ゴキゲーターが、デスモスキートが。いや、ありとあらゆる怪虫が、人の生きるエリアへとなだれ込むのだ。
崩壊が始まる。
まず初めに、この町を襲ったのは小規模な地震。しかしこれをムカデリオンの上昇であると知る者は誰もいない。
一部の地下民は、何も知らぬまま死ぬだろう。
突如として地盤面が吹き上がり、人の築いた構造物は一瞬にして粉砕した。巻き込まれた者は数知れず。地鳴りを怪しんだ次の瞬間には、その直下より来たる掘削に巻き込まれ、人の体は分断、飛び散った。
地下空間への警告および避難誘導は間に合わない。
その間地上では、何の理由も知らされないまま都内各所でサイレンが叫びを上げていた。
尾張中京都全域、そしてこの空全面を覆い尽くすのは、まるで空襲警報か。それ自体が絶望で、悲痛な叫びである。
いつか遠い、戦いの時代を彷彿とさせる終末の予兆。
一体何に備えられたかも不明だが、ここにシェルターが存在する。すべての都民をここに収容できるのか、どう見積もっても不可能、いや、すでにどうでもい問題だ。
この事態に避難を開始する者、また日常を継続する者もいた。
ある者は家族と連絡を取り合い、ある者は然るべき機関に説明を求めた。
誰しもがこの非常事態に疑問を抱いた。
しかし、見上げるいつもの蒼い空が、今日は異様に乾いて見える。
いつも独り占めにしていたこの空は、ただ黙って、都市の終わりを見下ろすのだ。
午前10時18分。超級ムカデリオン、地表に到達。
この時点でシェルターに退避していなかった者の生存率は95パーセント。
都心のビル群は、突き上げられた衝撃によって軒並み倒された。ほんの初期段階で、もはや隔離都市の被害は甚大、この倒壊で多数の犠牲者が発生する。
そして地上に達したムカデリオンが目にするものは、眩しく照らす東の太陽。
こればかりはどうしようもなく、ムカデリオンは撤退を余儀なくされる。
こうして超級ムカデリオンの地上侵攻は沈静。事態は終息へ。
と、そうなるのだろうか。
いいや全く違う。
災害の始まりはこれからだ。
ムカデリオンの脅威とは、その本体の直接的破壊力または耐久性、巨大性にあるわけではない。
一番の問題となるのは、この虫が作る"道"である。
境界層や、その他の防壁層を難なく突破するムカデリオンは、その掘削行為自体が大きく脅威であるのだ。
一体何物が、この虫穴を登ってこようか。
そう、あの大量のゴキブリたちが、まるで炭酸水が噴き出すように、この穴を伝ってやってくるのである。
同日午前11時00分。
ここで一度、シェルターを後にして自宅へと荷物を取りに戻った者の生存率は90パーセントほど。
自宅で箪笥や棚を漁っていると、運が悪ければその背後から何かが襲い掛かるだろう。
それが大きなゴキブリであるとわかった時には既に手遅れ。
小さな牙で噛みつかれ、少しづつ体を削られるように食べられるのだ。
災害一日目にして、被害は都市機能の完全停止にまで至った。犠牲者の数は決して少なくはないだろう。
一日目を生き残る確率、90パーセントほどか、もう少しは高い。
しかし、この生存確率とは一日ごとに10ずつ程増低下していくこととなるのは間違いない。
押し寄せたゴキゲーターの第一波は、所詮都市人口の数パーセントに満たない頭数だろう。だが、この虫の繁殖力は凄まじい。
一週間後、果たして我々の生存率は20パーセントになっているだろうか。
幼虫の数は莫大だ。そして、これは孵化したその瞬間から既に獰猛な怪物である。
さて、一ヶ月が経過しようとしていた。
安心してほしい。
最初からずっとシェルターに身を隠していた貴方は、生存確率90パーセント。
ここに怪虫の脅威は未だない。
しかしそんな貴方は、あらゆる我慢を強いられる。快適とは程遠い空間で、この長い一ヶ月間を生き延びた。
シェルターは当初よりその定員を大きく上回っている。換気装置はキャパシティーオーバー。湿った大気は不衛生極まりなく、空気に含まれた恐ろしい病原体は凄まじい速度で拡大を始めていた。そして排泄における浄化装置だが、とても間に合うはずがない。もはやシェルター内部は、捨て置かれた人間飼育場である。カビが繁殖し、地面の泥は排泄物、色の変わった人間が、それにまみれてあちらこちらで倒れている。
そして致命的なのは、ここにある水と食料がほんの一週間で切れたことだろう。
すでに死への未来は見えている。
さて、こんな醜悪な死体養殖場は早々に脱出すべきだろうか。
開けてみればいい、外に繋がるその扉を。
しかしそれは自己責任で。
もしかしたら怪物から逃げ切れるかもしれない、だがしかし、ここにいればもしかしたら救援が来るかもしれない。
けれど、みな怖いのだ。
外にいるのはゴキブリだけじゃない。
もしも、隔離都市の根幹を成す例の大気圏清浄装置が破壊されていたとすれば、そこには間違いなくドコデモダケの脅威が発生している。
巨大ゴキブリの存在について認識が無かったとしても、ドコデモダケの恐ろしさを知らない日本人はいない。
あなたが生き残るための選択は、ただの運だ。
そうして災害発生から31日目。
あなたは今、どこで何をしているのだろうか。
どこで何をしていてもいい。
どこにいようとも、あなたの生存確率は1パーセント未満。
地下衛生管理局、特別殺虫チームSPETによる生存者救出作戦はあり得ない。
関西隊も首都本隊も、決して動くことはないだろう。
これに対応するのは公安隊のみである。
31日目、0時00分。
ミサイル攻撃開始。
公安隊は尾張中京都を日本の地図から消し去るため、作戦行動を展開する。
すべての怪虫を圧倒的火力で葬り去り、日本全土にその怪虫被害が拡大するのを阻止するつもりなのだ。
発射されたこのミサイルが、一体どのような類のものなのか、もはや言うまでもあるまい。
こうして事態はようやく収拾する。
事後の処理については、都市の復興も含め何一つ目どは立たない。すでに経済も傾きかけているが、今こうして日本があること自体が奇跡と言っていい。まずはそこから、また一から全てがはじまるのだ。
それで、ムカデリオンの脅威は?
どこへ。
そんな中。この地下で、31日間ずっと横になっていた自分。
壊れた手足。
地上がどうなっているのかなんて想像に容易い。
いまの気分はどんな感じだろう。
すべてを失った気分はどうだ。
見える景色はどこまでも続く黒い闇と、耳がおかしくなるほどの静寂。地面のひんやりとした感覚もすでに忘れてしまった。
この状態についてどんなコメントをすればいいのだろうと。
いや、死んでいるのか、死んでいないのか。それすらも曖昧である。
「……ルニア、どうしてだろうね。僕は、何も感じないんだ。何もね。」
そうして虚空に、ぽつりと音が消え去った。
「それはアナタが、何もないから。」
実に突然に、その出来事は次の瞬間であったのだ。
確かな音を、声の在りかを全身に感じる。
静かに、しかし明瞭で、優しく起こすような女性の囁く小さな声。
巻き戻る時間は全速で、この崩壊の31日間を逆回転に駆け抜けた。
覚醒の時間。
ふと目を開けると、そこにはルニアが顔を覗き込んでいた。
気を失っていたのか。
「ごめん、どれだけ寝てた?」
そもそも、意識を失うような覚えも、眠りについたような記憶もないのだが。
「?? 潤史朗?」
首を傾げるルニア。
銀に長い髪の毛が垂れ下がる。
「潤史郎は、ほんの一瞬目を閉じていただけだぞ?」
「一瞬?」
言われてみればそうかもしれない。
見渡す周囲は先ほどと何ら変わりはなかった。
ムカデリオンも無論そこに。
しかし、この頭の中には確かに31日間の時間感覚が……。
いや実際どうなんだ。よくよく考えてみれば、単純な夢のような。それにしては随分と現実感に溢れた時間であったが。
「潤史朗。きっとそれは、アナタがほんの一瞬に頭によぎった未来図だ。嘘ではないよ。ワタシがこうやって、それで恐らくだ。」
「へ?」
すると。
突然顔を近づけるルニアである。
互いのおでこが、ぴたりとくっついた。
少しだけ冷たい。
「え、ルニア?」
「ん? どうした?」
顔を離すと、そこにいたのは一人の女性。
雪のように透き通った肌、艶やかな長い銀髪、そして黄金の輝きを宿す彼女の瞳はまるで宝石のようだ。
その彼女の姿に、一瞬思考が奪われた。
息をすることさえも忘れていたかもしれない。
ルニアはいつの間にか中ルニアから大ルニアになっていたのだ。
「ふふふ、あっはははっはははは。どうだい? これがワタシだ、あっはははははは。アナタに力を分けるつもりだったが、なぜだかワタシも力がみなぎるんだ。」
そう言えば義腕義足の各部が過剰運動によって焼き切れてしまっていたはずだが。
しかしどうだろう、こうして上体を起こすのに何ら違和感なく腕が動く。
「もしかしてルニアが、その力で僕の義肢を動かしている?」
「そんなことはないぞ。けれど、どこかで繋がっているかもしれないな。」
繋がっている?
その意味は考えてもわからなかった。
だがそれでも、膝を持ち上げれば素直に動き、手をついて、難なくこの体は立ち上がったのだ。
ルニアの方が、ほんの少しばかり目線が高い。
7等身のモデル体型、目の前には大人の女性が立っている。
これがルニアだとは少しばかり信じがたいが、それでも部分的には小中サイズの面影が強く残る。
すべては推論に過ぎないが、おそらくルニアから、例のよくわからない力を借りている状態なのだろう。
そして先ほどあった31日間の崩壊のヴィジョン。
あれは、彼女と額を合わせた瞬間に引き起こされた、自身の脳みその過剰妄想かもしれない。
その瞬間に考えていたのは、ここでの敗北が引き起こす、今後の展開についてだ。
その予測に、嘘や願望など一切ない。第三者的に思考を巡らせれば簡単に辿り着く結果に過ぎない。
すなわち。
今ここで、この超級を倒さなければ、妄想の31日間が本当に現実のものとなる。そういうことだ。
やることは一つ。
「なあ潤史朗、わかるか? あふれるほどのワタシの力。しかしなんだろう。この高ぶりは以前のものとは少し違うのだ。アナタといると、とても落ち着く。暖かく、居心地がいい。包まれているような感じで、満たされる。」
高く、透き通った言葉を刻むルニアの口。
彼女の声には、ただ笑顔で返した。
向かい合う二人。
そしてその横には、超メガ級地底害虫ムカデリオン、その頭部がそこにあり。
「地上がめちゃくちゃになるの、止めていい?」
「構わないよ、潤史朗。アナタが思うままに。」
「わかった。」
「どうすればいい?」
「それじゃあ……。」
と、今のいままで嵯戸爆弾の威力に悶えていたムカデリオンは、ようやく次なる攻撃を繰り出してきた。
大あごを開いての突撃だ。
「これを止めて、ルニア。」
「わかったよ。」
ムカデリオンに向かって両手を掲げるルニア。
するとどうだ。
その巨体の突進は、見えざる壁に阻まれた。
空中で停止するムカデリオンの頭部。反動でルニアも数メートル後ずさるが、完全にムカデリオンを制したのだ。
拮抗する二つの力。
ムカデリオンの咆哮。
そして、高らかに笑うルニアがある。
「あはっはっははっははははっははっはははっははは、見ておくれよ潤史朗! これがワタシだ! ワタシの力だ! あはっははははははははははは!」
残念だが、そろそろここで終わりにしよう。
ルニアに止められ間近に迫るムカデリオンの顔は、なぜだが大変哀れに感じた。
こいつが、31日間に渡る大災厄の始まりなのだ。
しかし、その結果もたらす被害の規模からしてみれば、それの引き金となったこの生き物は、なんて小さな物なんだろうと思う。
だが、そうであるからこそ、ここで確実に摘み取りたい。
腰のポーチから取り出すのは簡易的な無線爆破スイッチが一つ。
できればこれは使いたくはなかったのだが、こうなってしまった以上、賭けてみる他ないだろう。
既に爆薬はムカデに飲ませてある。
そう、あの時だ。
高機動殺虫車ごとムカデリオンに飲み込まれた際、メガキラーを5本、体の中に置いてきた。理論的には約500頭のゴキゲーターを殺せる容量だ。
そして、このスイッチで事前設定したメガキラーのボンベを爆散する。これも少年仁太のテロ知識のお陰である。
ただし、この容量で殺せなかった場合にどうなるか。
それが最も懸念されるべき事項であり、使用を控えたい理由だ。
その理由とは、要は予測される崩壊の31日間の始まりだ。
仕損じ、下手に刺激して逆鱗に触れた場合、本当に地上まで掘削してしまい兼ねないと考える。
けれど、それでも今ここで体内メガキラーを発動させる訳とは。
もう我々は、十分に時間を稼げたのだ。
「それじゃ、ポチッと。」
スイッチを押す。
すると、およそ10秒ほど後だろうか。ムカデリオンは突如として、のたうち回る。
腹に背中、その長大な全身を壁体にぶつけ、そして口からは緑色の液体を噴出した。
核実験場を大きく揺さぶる。
けれど、これは掘削の振動ではない。
苦しみ、もがく、ムカデリが描く死の乱舞だ。
そして最後に、地龍は大きく咆哮を上げると、その頭から全身を床に打ち付け、沈黙した。
ただただ口の隙間から緑の液が流れ出るのみ。
どうやら、メガキラーの容量は十分だったようだ。
また、それと同時くらいだろうか。
このトンネルの後方より響き渡るけたたましい音は、怪物級大馬力エンジンのトラックが接近してくる音に違いない。
きっとアサルト・ゼロに足止めを食らって遅くなったのだろう。
しかしこれにてようやくSPETの到着だ。
駆逐トラックが複数台あるのなら、もはや心配はどこにもない。
関西隊か首都本隊か知らないが、ひとまず有り難い。
けれど残念だ。
どうやら彼らSPETの出番はない模様である。すでにムカデリオンは完全に沈黙した。
その車両群を背景に、ルニアと顔を見合わせた。
眩いヘッドライトは、彼女の笑顔を明るく照らす。
興奮を超えた充実感と暖かさ。
同時に、空っぽの中身と、なんの不満のない虚無感をここに覚えるのであった。