第40話 キッチン
建て売りの一軒家がずらりと並んだ住宅街。
お洒落な街頭が所々に立っており、日が沈もうと寂しさはない。
部活帰りの中高生、数人が揃って自転車を引いた。
会社から戻ったサラリーマン、疲れた足取りで自宅を目指す。
じっくり煮込む鍋の音が、そして窓からこぼれる部屋の明かりが彼らの帰宅を暖かく迎えるのだ。
町は明るい。
日が暮れようとも地底よりかはずっと明るく、穏やかだ。
そしてなによりも、ここには待つべき人がいて間違いなくここが帰る場所なのだと全身で感じる。そして染み渡った温もりが、むしろ孤独を思い出せた。冷え切った体で、熱いお風呂につかったような、そんな感じだ。
孤独なバイクが一台、疲れ切ったエンジンを小さく唸らせ、そろりそろりと町に帰った。
黒いカウルは夜風にすっかり冷やされて、一人の時間は十分以上に堪能した。
鋭さは気高さ、孤高の凄みを纏ったマシンも、今日はもうお疲れだ。
そんな一人も、暖かく迎え入れてくれる場所がここにある。
潤史朗は、自宅の敷地にバイクを突っ込んだ。
軽トラックとSUVの間に駐車して、スタンドを立てるとヘルメットを脱ぐ。
実に何日ぶりの帰宅だろうか。
「異常はなさそうだ。」
「だな。いつもどおりの我が家だ。」
潤史朗はそう言って、軽く周囲を見渡した。
ここに来た理由は、家に帰って風呂に浸かるためではない。
あくまで夏子の捜索に、まずは自宅をとやって来た。
あの電話の様子で、普通に自宅で待っているとは思えないのだが、それでもクガマルの強い主張で、まずはここに立ち寄ることにしたのだ。
「ホントに家にいるのか? 夏子のやつ。」
「逆に聞くが、家じゃなかったらどこにいるってんだ?」
「わからんけど、今の夏子は尋常じゃなくピンチなんだ。あの置手紙に電話の声。家出かもしれないでしょ。もしくは悪いやつに攫われたのかも。」
「結構な妄想力だな。お疲れさんだぜ、全く。」
「いくぞ。お兄ちゃん出撃。」
バイクを降りた潤史朗は、玄関の前に立った。
強引に破壊された形跡、もしくは侵入された跡はない。
異常なし。
電子ロックを解錠する。
システムに問題は見られない。正常な動作で玄関が開く。
いつもの玄関。
靴は全て靴箱に整頓されている。謎の侵入者が土足で上がった様子もないし、予期せぬ来訪者もないようだ。
異常なし。
一旦そこに腰をおろして、ブーツの紐を解いた。
靴箱の中に夏子のスニーカーを発見。おそらくは今日病院に履いて行ったものだろう。
家にいるというのだろうか。
ふと。
腰を下ろした背中から、不穏な気配を感じた。
金属同士が規則的にコツコツ当たる音。
奥に誰かがいる。
なぜそれを怪しむかと言えば、それが夏子でない可能性が高いと思うからだ。
今日の妹の機嫌は、斜めどころか転覆している。
彼女が無事であるならば、キッチンからそんな音が聞こえるはずがない。
これは異常事態とみた。
「気をつけて、クガマル。奥に誰かがいるみたいだ。」
「……。そりゃいるだろ。」
「警戒体勢を維持しつつ前進する。」
「どーぞ。」
姿勢を低く、足の運びは慎重に。
音を立てないように進入を試みる。
リビングの明かりを確認。
キッチンからは鍋の音。人の声は聞こえない。
奥に続く扉をそっと開いた。
少しづつ中を覗くように。
人の影。
スリッパに、膝まであるソックス。さては女か。
前に垂らしたパステルカラーの布はエプロンに違いない。
後頭部には長い黒髪を束ねている。
これは……。
「ああ、ジュン。お帰り。帰ってたならそう言ってよ。こっそり入ってきたら驚くじゃん。」
「え、ああ。うん。」
エプロン姿の夏子が、おたまを片手にキッチンに立っていた。
異常は、ない。
「な、夏子、だ、大丈夫なのか?」
むしろ異常がないのが異常だ。
目の前の光景が、いつもの日常すぎる。
夏子の様子もいたって普通。怒っているどころか、にわかに上機嫌にも感じられる。
「何が? 何かおかしい?」
「ああ、いや。」
「ナツコ、タダイマ! ナツコ、タダイマ!」
猫被り似非ロボットモードになったクガマルが、普通に飛んで入って来た。
「クガマルもお帰りなさい。」
「タダイマ! タダイマ!」
「夏子?」
「なに?」
「体は、どうもないの? 熱っぽいとか頭痛いとか?」
「別に何ともないけど。どうしたの? 今日のジュンなんかおかしいよ。」
「そ、そうか?」
自分がおかしいのか? と首を傾げる。
クガマルの方に目をやると、こちらも至っていつも通り。部屋の中を無意味に飛び回っている。
「何ぼーっと立ってるの、荷物置いてきたら? まだ帰って手も洗ってないでしょ。ジュンの方こそ体調悪いの?」
「いや、僕はなんともないけれど……。」
「僕って……。ふふ。それ私に言うの久しぶりに聞いた。」
「へ? ああ、いや。お兄ちゃんだな、そうお兄ちゃん。お兄ちゃんは元気だぞ。うん。」
と、夏子に言われるまま荷物を置いて洗面所に。
いつもどおりの夏子。
何も問題はない。これですべてはいいはずだ。
だが、何か腑に落ちない。
あの置手紙や電話は一体なんだったのだろうか。
手を洗っていると、横にクガマルが飛んできた。
「クガマル、これ一体どーなってんの?」
「どうもこうも見たままだ。」
「んん?」
小声で返したクガマルは、またリビングの方に飛んで戻った。
もしや。
自分が勘違いして空回りしただけなのか?
夏子が特別怒っている様子もない。
「……。」
「ごめんね、夕飯もうすぐできるから、その辺に座ってて。」
「お、おう。」
いや、その考えは甘いだろう。
我がクレバーな妹は、何か企んでいる。で、クガマルはそれを悟っている。
そうに違いない。
夏子の無事を確認できて、胸が落ち着くと同時に、頭の回転は平常通りに回復した。
どうやら、もしかして大変空回りしていたのではなかろうか。
呑気なクガマルがリビングを徘徊している。
やはり空回りか。
あの虫、今頃腹の中で笑っているの違いない。
「はぁ……。」
だが、これだけ心配をかけておいて、夏子が何もないということはあり得ないだろう。
いつも通りなのが逆に恐ろしい。
取り敢えずソファーに掛けるとリモコンをとってテレビを付けた。
ニュース番組。
カメラが入って行くのは地下5000付近の境界層ぎりぎり手前あたり。
荒んだ工場地帯、通路の壁体は落書きだらけで、汚れにまみれた男が新聞紙をひいて横に寝ている。
走りゆく軽トラックは荷台に物騒な銃火器が。
まるで、前時代的な海外の紛争地帯を見ているようだった。
今でこそ、こんな暖かい家のリビングでぼんやりとその映像を眺めているが、これが日常的に仕事で通る場所だと思うと不思議な感覚。
夏子は普段、これを見て兄の職場をイメージしているのだろう。
心配。
しない筈がない。
逆の立場で、もしも夏子が大学の研修などで地下の深くに行くような事態があったとすれば、自分は断固阻止するだろう。
それを思うと、彼女の気持ちを普段蔑ろにし過ぎだ。
駄目な兄、いや家族として合格ラインに程遠い。
丁度その時、いつもの電話がポケットで鳴った。
見れば画面に"情報課長・野口"と表示されている。
「はい。志賀です。」
――おお志賀君、でたか。電話に出れるという事は、体調の方は大分戻ったのかな?
「ああはい、お陰様で全快ですよ。」
――そうか、それを聞いて安心した。
「すみませんね。随分と迷惑をかけたようで。本当はすぐ連絡を取りたかったんですけど、ちょっと立て込んでましてね。ご心配をおかけしました。」
――いやいいんだ、君が無事なら。だがまぁ、ちょ~と些細な問題があってだねぇ。うん。
電話越しの課長の声が少し小さくなった。
――今回の件、君は公安隊から借りている人材であって、行方不明だったとなると色々まずいんだよ。それで、なんとか君の方から公安の開発部に上手くごまか……、いや説明をお願いしたい。
「ああ、そういうことっすね。了解しましたよ。」
――悪いね。公安隊とウチの組織は基本的に関係がアレだから。まぁ関西支部への連絡は私の方からしておこう。
「関西支部?」
――うん? そうか違うね、SPETは基本的に本部の統括で、あれは関西基地ってだけか。となると連絡は本部の方だねえ。そうかそうか。
「もしかして、SPETの要請は課長の方から?」
――何? 他に誰だというんだね。私だよ私。私の機転で特別殺虫チームを要請したんだ。こう見えても私は現場第一主義なんだよ。はははははっ。
この人がSPETを?
普段の様子からして少し意外だが、もし本当ならば、この人にも命を助けられたとなるんだろう。
いろいろな人の関わりで、家に帰れたわけなのだ。
「そうですか。いや、ホントに助かりました。結構やばかったんで。」
――はははは。まあ何だ、君の妹さんにも大分突っつかれたということもあってだね。とても兄思いの妹さんだよ。良い家族に感謝するんだね。はははは。それではまた、週明けからよろしく頼むよ。
そうして電話は切断された。
夏子が、課長を動かして……。
キッチンで動く彼女の方に目をやった。
「彼女に命を助けられたんだな。」
いつの間にか横にいたクガマルが、そっと耳元で呟いた。
「……、そのようだね。」
鍋をかき混ぜていた夏子は、こちらの視線に気が付いた。
彼女と目が合う。
「どうしたの?」
「いいや。なんでも。」
「もうできたから、適当にお皿だして。」
「おう。」
食卓に皿を並べて箸を用意。
冷蔵庫から麦茶のボトルをだしてテーブルの真ん中に。
夏子がキッチンから運んでくる鍋からは、食欲をそそる香りが。なんの料理だろうか。カップ麺以外の食べ物には疎いのだ。
「豚の角煮。」
夏子はそう言うと皿の上に肉を盛った。
「ウマソウ! ウマソウ! ナツコ、リョウリジョウズ!」
想像以上に豪華なメニューが食卓に並んだ。
なんだこれ。
今日は誰かの誕生日だったか?
「どうしたの? 座れば?」
「お、おう。」
両手を合わせた後、夏子の料理を頂いた。
角煮と言うだけあって四角く切り分けられた豚肉はとんでもなく分厚いが、噛みつけば驚くほどに柔らかく、そして中からジワリと味付けが染み出た。
自分の皿には箸を付けず、こちらの様子をずっと伺っている夏子。
肉を一切れ食べ終えると彼女は間髪いれずに感想を求めた。
「どう?」
どうもこうも。
旨すぎる。
夏子の料理の腕は知っているが、これは気合が入り過ぎだ。
「うまい。」
「そう、良かった。」
そう一言いって、彼女は自分の皿に箸をつけた。
少し濃い目の味付けは、自分好みのとても丁度良い具合。白米との相性が抜群であっという間に完食した。
「どうせいつも仕事じゃカップ麺ばっかりなんでしょ、しかもこんなに長く家空けて、もう栄養バランスがったがたなんじゃない? だから、ちょっと気合入れてみたの。」
「旨かった。」
「カップ麺より?」
「当然だ。」
そう言って夏子の方に視線を上げると、彼女は笑って見ていた。
その表情に、応えるべき思いは数えきれないほどある。
これ以上にないくらい、胸がいっぱいに詰まった。
「ありがとう。あと。ごめん。」
「ん? 何が?」
素知らぬ顔で、彼女はそっぽを向いて見せた。
口元が少し笑ってみえる。
「いつもだ。迷惑かけてばかりいるけど、本当に感謝してる。心配も、もの凄く掛けた。それでもこうやって待っていてくれて、ありがとう。」
自分らしくないとは思いつつも、今日の夏子には特別真摯でいたいと思った。
そして伝えるべきことは、真っ直ぐに向かって言葉にしたい。
「ふふ、よろしい。」
夏子は目を細めて笑った。
「少しは私の気持ち、わかってくれたみたいだね。ちょっとは心配してくれた?」
「そりゃ、するでしょ。あんな置手紙するし、電話も何かおかしいし。もう、心配過ぎてどうにかなるかと思った。」
「それ、いつも私が感じてることだよ。」
「いつも悪い。」
「わかってくれたらいいよ。」
「ごめんな。あと、何か助けられたみたいで。ほら、職場に電話したでしょ。」
「え? ああ、そうだね。まぁ。」
「ありがと。」
「いいよ。妹だし。」
課長の言う通りだ。
面と向かってはとても言えないけど、夏子が妹でいてくれて。
「皿洗うよ。」
「別にいいよ。ゆっくりしてて。」
「そういう訳には……。」
「じゃあ布巾でよろしく。」
「了解。」
そんな彼女に、返せるものが何かあるだろうかと思う。
普段の感謝というか、日ごろから掛けている迷惑のお詫びというか。
いざ、そうやって考えると自分が夏子に対してできる事が恐ろしく少ない事に気が付いた。
いや、情けない。
地下で害虫と戦うことも何だかんだ中途半端だし、何か解明ができたわけでもない。それでもって、家に帰れば家事は夏子に任せきり。
夏子を食事にでも誘おうか、それとも何か贈り物でも?
いや、どっちも感謝の形としては安っぽい。
もっとこう、金じゃないだろ。
「夏子。」
「なに?」
こうなったら直接聞く。
「何かしてほしいこと、っていうか、欲しいもの? ええっと、いやそうじゃなくてだな。なんか、ない?」
「何それ。」
いざ言ってみると、言葉がもう滅茶苦茶だった。
「う~んと、そうだね。」
だが真意は伝わったらしい。
「それじゃ明日、ちょっと付き合って。」
「ん? ああ、わかった。」
夏子の方からお出かけに誘われた。
珍しい。
「それじゃ、お風呂お先に頂くね。」
「はいよ。」
明日は、夏子の要望に全て答えよう。
貯金の解放準備は万端だ。口座の方は何時だって全開放にできる。
夏子が行きたいと言えば、沖縄でも北海道でもグアムでもヨーロッパにでも行けるし、金塊が欲しいと言えば、買えるだけ買う所存だ。
何だって任せろ、お兄ちゃんに。
「いいのか? 呑気にデートしてられる状況じゃねえぞ。ルニアのことも然ることながら、地下の状況はとても良いとは言えねえ。特にあの穴の件。数日もほかっとける案件じゃねえだろ。」
横でクガマルが言った。
「いかにも。だが、この世で妹より重要なものが存在しようか、いや存在しない。」
「そう言うと思ったぜ。」
自室に戻る。
明日は予定ができたことだし、今夜中にできるだけの情報を集めようと思う。
「ところでジュンシロ―。夏子が電話で言ってた、大切なものがなくなるって、結局なんだったんだ?」
「さぁ。別に深い意味はないんじゃないか?」
と、そう言いつつ部屋の扉をがらりと開く。
すると、目の前には巨大な可燃ゴミ袋。
中には大量の、秘蔵カップラーメンコレクションが詰められていた。
「そういう事か。」
「こ、これは……。」
部屋に置いてあるあたり、これは自発的に捨てろと、そう言っているのだ。
「この状態であれば、捨てずに隠し持つことも可能だが……。」
「だが、そんな不誠実なこと……、いやしかし、こいつらを、自分の手でゴミに出せと言うのか? この我が子のようなカップ麺たちを……。」
妹なりに兄の健康を考えてか、それとも単なる罰なのか。
どちらにしても。
心がつらい。
床に両手をつく潤史朗。
その後ろを、バスタオルを抱えた夏子が通りすぎる。
「私の料理の方が当然旨いんでしょ? 捨てれば?」
と、一言いって風呂に向かって行った。
「諦めろジュンシロ―。明日は可燃の回収日だ。」
「そう……、だな。」
つらい。




