第33話 特別病棟ー4
ある時。
私がいつものように兄の見舞いに行った時の事だ。
今更になって思うが、この病室はとても入院患者を寝かせておくような場所ではなかった。
壁や床は灰色に冷たく、ベッドを取り囲む数々の精密機器。どちらかと言えば手術室のようなイメージだろう。
なぜ兄はこんな場所に置いておかれるのだろうかと。疑問に思わないこともないが、私はそれについて深く考えるようなことはしなかった。
ただ、設備が完璧に整った場所で、兄が早く快方に向かうのならばそれに越したことはないし、この部屋にリラックスできないというのならば、私が毎日通って花を飾れば、少しは良くなるだろう。
しかし、今日。
私がこの部屋に行った時、いつもそこで横になっている人がいなかった。
ベッド横から伸びるアームに繋がれた液晶ディスプレイ、私が病室の扉を開けて入ると、いつも彼はその端末で新聞記事などを読み漁っていた。
だが今日は、画面は真っ黒のまま。
背中に置いてあったクッションは窪んだ状態ですらなく、隅のほうに寄せてある。患者監視装置も電源が切れているし点滴棒も撤去されていた。
どうして?
私はベッドに近づいて布団を捲った。もちろんそんなところにいやしない。
部屋を見回しても、彼が隠れるような場所もありようがない。
嫌な予感が頭をよぎる。
まさか。
いやそんなことはありえない。
昨日まではあんなに元気だったのだし。
小走りで病室を出た私は、病棟中を駆けてまわり、ようやく見つけた関係者の人間を捕まえて、潤史朗の行方を聞いた。
「あの、ちょっとすみません! 兄が……。」
だが、その研究者らしき人が言ったのは、機密事項で教えられないとのこと。
そんな、馬鹿な話が……。
私は妹だ。
私が知っちゃいけないなんておかしい。
「すみません。兄は、志賀潤史朗がどこにいったか知りませんか!?」
遂には一般病棟のカウンターにも聞きに行った。
カウンターに勢いよく両手を突いて、前のめりになって迫る。
受付の女性は私の尋常じゃない様子に驚いた様で、慌ててパソコンを叩いた。
しかし結果は。
そのような人はおりません。と。
「ご親族の方でしょうか。そのようなお名前の方は入院されておりませんね。病院は本当にこちらでよろしかったでしょうか。救急搬送されて見えた方でしたら、他の病院にも照会することが可能ですが……。」
「隣の病棟の、西の病棟の患者なんです。昨日まではいました。」
私のその発言に、受付は少し合点がいったような表情で答える。
「ああ、そうですか。それでしたら、こちらではわかりかねます。」
「どういう事ですか!?」
「いえ、あちらは公安隊が関係している施設でして。敷地は同じですけれど、管轄が全く違うんですよ。」
「そう、ですか……。すみません。ありがとうございました。」
最初に特別病棟の方で機密と言われた時点で、こんな普通の受付でわかるはずがないとは予想がついていた。それでも駄目元で聞いてみたら、公安隊の関係機関だと言う。
まさかの公安隊。
重大犯罪者や重要参考人、そんな人達を収容しているところだったんだと、そのことに驚きを隠せない。
同時に、何故兄がそんな場所にいたのかと言う疑問。
重大犯罪者。
そんなはずはない。あり得ない。
記憶喪失で本人も私も何も覚えてはいないが、だとしても、兄がそんなはずはない。
それがわかったところで、もし連れていかれるとしたら。
公安の施設か裁判所か。
そう思った私は、そのままの勢いで病院のロビーを後にした。
病院前のロータリー。
まずはタクシーを捕まえなければ。
「すません! 近くの公安の施設まで!」
取り敢えず、目の前にあったタクシーに飛び乗った。
「はいよ、お嬢さん。えっーと、近くの公安の施設っと。北九州署でいいかな。」
「じゃあそれで!」
そうしてタクシーが発進しようと動き出した。
ロータリーをまわり、正面の入口へ。
と、その時だ。
タクシーの運転手は急にブレーキを踏んで、車体は前につんのめる。
「おおっと、あっぶねーな!! お嬢さん大丈夫かい?」
「ええ。大丈夫。」
出入り口から出ようとした瞬間、病院の敷地内に突然飛び込んできた公安隊の巡視車両。
黒塗りの車体に赤色回転等を乗っけたそれは、ウイング付きのスポーツセダン。
ノーブレーキで突っ込んできたその巡視車両は、車体を振り回すようにしてタクシーを回避。そのままスピードを殺さずに、後輪を鳴らしながらロータリーを旋回すると、正面玄関前で停車した。
「なんだありゃあ、とんでもねえ公安隊員がいたもんだ。市民ポストに投稿してやる!」
公安隊。
なんとなくそれが気になって、門を出るまで私はその巡視車両を目で追っていた。
車両から降りる若い男性。
きちんとしたスーツの姿で、そして頭には、何かカメラが付いている。
奇妙な人だ。
「あんな奴が公安をやってるから、過激派の連中が止まらんのだ。火に油を注ぐような強引なことばかりしやがって。全くこれだから……。」
タクシーの運転手がぶつぶつと何か言っている。
しかし、私の中では何かが引っ掛かっていた。
スーツを来て、それでちゃんと立って歩いている。まさか兄な筈がないだろう。
兄は、そう。右に義腕を付けているだけで他に何もない。
そういえばカメラ。
兄も頭の横の辺りに付けていた。
あれは流行りか何か?
いやいや、そんな訳……。
いや、あんなカメラを付けている男が、そんな、そこらへんにやたらいるはずがない!
「あのすみません!! やっぱりなしで!!」
「え? ええ??」
私はタクシー運転手に小銭を渡すと勢いよく扉を開けて車を降りた。
なにが起こっているかわからない。
ただ、あの巡視車両に乗っていた人を見逃す訳にはいかないと、頭のどこかで大きな声が叫ばれている。
私は病院の方に向かって走り出した。
さっきからもう、走ってばかり。
久しぶりの運動で呼吸は上がりまくりだ。
それでも急ぎたい、走らずにはいられない。気が付けば勝手に足がそうしていて、知らない内に疲労している。
でも、それでも私は止まらない。
病院の受付。
スーツ姿の不思議な男性が押し掛けていた。
「あの~、今日見舞いに来た子で。女の子いませんでしたか?」
「女の子ですか?」
「そうそう身長は大体こんなもんで、質素な感じの……。」
「いえ、それだけでは何とも……。」
「一言で言うと、美少女。ですかね。ふふふ。」
「……。」
「思い当たらないなら仕方ないですね。もしかしたら病室でずっと待ってるかもしれませんし。それでは。」
そう言って、男はカウンターを後に振り返る。
病院の広いロビー。
その真ん中で、女の子が一人。
両膝に手を置いて、苦しそうに肩で呼吸をしていた。
彼女が顔を上げると、その男と目線が一致する。
「夏子。」
「ジュン。」
二人は同時に歩み寄った。
「ねえ、わかってるの……、ジュン。」
夏子は息を切らしながら言った。
「私が、もうどれだけ、どれだけ心配したと思ってるの!?」
掠れる声。
それでも彼女は続けた。
「ホントに、死んだかと思ったんだから!」
「……、ごめん。」
夏子はもう一歩、潤史朗の前に歩み出た。
「ばか。」
突き出される右手の拳は大変優しく、潤史朗のお腹にぶつかった。
「ごめんな。いやほんと。」
「いいよ、もう。」
小さく上下する彼女の肩。
潤史朗は自身の両手を、そっと彼女を支える様にその両方の肩に優しく添えた。
ゆっくり傾く夏子の額は、彼の胸にこつんと当たる。
「よかった。生きてて。」
「死なないよ。夏子が毎日来てくれるから。」
「自覚してよ。ジュンがいなかったら、私さ……。」
「僕も同じだ。」
ほんの少し、病院のロビーを盛り上げた二人だった。
彼らは互いの顔を見て笑い合うと、もうしばらく訪れることのないこの病院を二人歩いて去っていった……。
「ねえ、その足と腕……。」
「まぁ車に乗って! 話はそれから。」
「これ公安隊の車だよね? どういうこと?」
「まぁ乗って!」
助手席を勧める潤史朗に言われるがまま、夏子は巡視車両に乗り込んだ。
車内を見渡すも、他に誰か乗っているという事はない。
彼女が乗ったのをみると、潤史朗も運転席に座る。
重厚感のあるドアを閉め、車はそっと走り出した。
「今日はちょっと大事な話があるんだ。」
「大事な話?」
北部九州都中心街をのんびり駆ける巡視車両。
周囲を走る車は、やたらとスピードを落とし、行く先々で避けられた。
快適すぎる都心ドライヴ。
不安と疑念が入り混じった夏子を横に、潤史朗は少し嬉しそうだ。
「足と腕がちゃんとあるって素晴らしいな。こうやって妹を連れてお出かけできるんだ。まぁ自分のものじゃないけど、それでも最高だ。」
「ねえジュン、いい加減教えて。その手足とこの車のこと。」
「手足は付けて貰った。車は借りた。」
「説明が足りてない。」
「いやね、実は僕は公安隊の職員だった。らしい。」
「それほんとに?」
「じゃなきゃ今頃、他の公安車両とカーチェイスになってるって。」
確かに。潤史朗が元公安職員ならば、特別病棟のことも説明がつく。
そしてその義足と義腕。随分自由に動かせるようで、横で見ている分には生身の人の体となんら遜色はない。
夏子としては、例え兄の両手足がなかろうとも兄は兄であって、それ以上彼に求めることは何も無かったが、手足があるのならば、それは良い事に他ならない。ただ、彼の身の周りの世話が省けるのは、ほんの少し、ごく僅か、もしかしたら寂しいかもしれないのだった。
「服を買おう。」
「は?」
急に百貨店に車を乗り入れる潤史朗。
夏子を連れて、少し高級そうなお店に入る。
「今日のジュン、ちょっと意味わからない。」
「金はある。借りた。ああ、今更聞くけど今日予定大丈夫?」
「それは、まあ問題ないけど。」
「なら良かった。まぁそんな困惑しないで。」
「するでしょ普通。」
少し高そうなブランドものが並ぶお店。
そう言えば、潤史朗の方を見てみると何気に彼はスーツできめている。
何だろう。
プロポーズでもする気なのか。
「ああ、すみませ~ん。この子に似合う服、適当にお願いしま~す。」
気付けば、潤史朗は店の綺麗な女の人に話しかけ、夏子がうだうだしている内に勝手に服選びが進んでいた。
「なんか適当に流行りっぽいやつで。」
「でしたら、こちらが大変お似合ですよ。ああ、でもこっちでもいいですね。彼女さんなら、何でも似合ってしまいそうで迷います。スタイルもとてもいいですし。」
「ふふふ。自慢の妹です。」
「あら、失礼いたしました。妹さんでしたか。てっきり……。」
「ふふふ、いいですよ。そう思って頂いても。ふふふ。」
「仲が大変よろしいんですね。」
そんなやり取りを耳で聞いていた夏子は、不自然に目線を逸らして服選びに専念した。
少し頬が赤く染まるのを、手に取った服で顔を隠す。
「決まった?」
「いや、まだ……。おしゃれとか、私あんまりわかんないかも。」
「じゃあこれは? さっき店員の人に選んで貰った。」
そう言って無邪気な顔で服をかざす潤史朗。
とは言っても、一旦は着てみないとわからない。
夏子はそれを受け取ると試着室に入った。
自分ではとても買えないような高価な服が一式。お金は本当にいいのかと、むしろそっちが心配だ。
それでもせっかく選んでくれたのだし、夏子は一度それに袖を通して潤史朗に着て見せた。
「どう、かな。」
少し自信が無さそうに、夏子は試着室のカーテンを開ける。
「いけてる。」
「本当? よくわからないけど。ちょっとスカートとか短すぎない?」
恥ずかしそうにスカートのすそを引っ張る夏子。
潤史朗は顎に手を添えて、彼女の全体をざっとみた。
「よし、それにしよう。おねーさーん、これ買いまーす。」
「ねえ、ちょっと、決めるの早すぎない? ちゃんと見たの? ……。」
ファッションのことは全く分からない。だが潤史朗がいいと言っているのだから、きっとそれが一番いいのだろう。
「支払いはカードで。」
次に向かう先は特に告げられていない。
ただ楽しそうにハンドルを持つ潤史朗を横目に、いつの間にか夏子の方も不安を忘れていた。
先ほど言っていた大事な話というのがとても気になるが、この様子からして悪い話ではないんだろう。
到着した場所は、高層ホテルのレストラン。
百貨店の他にも寄り道をしていたせいで、外はすっかり真っ暗だ。
窓際のテーブルからは、都心に灯る光の景色が上品に二人を飾っていた。
「で、こんなに連れ回して準備した挙句。最後はここってわけね。勿体ぶっちゃって、一体何を話すつもりなの?」
「いや、話の内容自体そう大したことじゃないんだ。今日一日のことは僕からのお礼だと思ってよ。」
「何のお礼? お見舞いのお礼だとか、そう言うのだったら要らない。私がしたくて勝手にしたことだし。」
「夏子が生きていてくれたことへの感謝。それじゃ駄目?」
「それは……。」
夏子は一旦潤史朗から目を逸らす。
「別に駄目じゃない。」
「そうか。」
やがてテーブルにやってくるのはソフトドリンク。
蝋燭を挟んでグラスを少し上に掲げた。
「乾杯。」
「かんぱ~い。」
「夏子、尾張中京都に住もう。」
「別にどこでもいいけど、それが今日言いたかった話?」
「あと、僕は昔みたいに公安で働くことになった。」
「……。」
「ただ少し配置が変わって、もしかしたら地下衛生管理局の方に厄介になることもありそうだ。」
返事のない夏子。
しかし潤史朗は続けた。
「夏子の方は、奨学金の事とかも色々手配できる見込みがついた。勿論働くことも悪くはないけど、現状は僕の稼ぎの方でどうとでもなる。まあぶっちゃけ公務災害的なのりで、公安の方が特別に面倒みてくれる訳なんだけど。」
「それ、危ない仕事だよね。」
「ん?」
「別に私はバイトで何でもする、大学にもそこまでこだわってる訳じゃない。そんな事よりも、ジュンが危ない仕事をするのは反対だよ。」
「……。」
潤史朗は手に持っていたグラスを一旦テーブルに置いた。
「安全な仕事だ、とは言えなけど。でも公安と地衛局の仕事は、僕の意志でどうしてもやりたいんだ。夏子の為というより自分の為。」
「どうして?」
「失くした過去を取り戻したい。」
「無理だよ。」
「無理かどうかはわからない。ただ、少し不審な事件と一緒に、夏子も僕も沢山の物を失った。このままじゃ、僕はどうしようもならない。わからなくなったものをそのまま放った状態は嫌なんだ。夏子はどうなの? このまま知らない過去を知らないままでいいの?」
「私は……。」
「頼む。」
「……。」
しばしの沈黙。
潤史朗はじっと彼女の方を見ていると、やがて夏子は口を開いた。
「約束して。」
「なにを?」
「絶対、ちゃんと仕事から帰って来るって。」
「わかった。」
「ちゃんとって言うのは、完全に健康で、記憶もなくさずにって事だよ?」
「わかった。」
「じゃあ、指。」
「へ?」
「小指だして。」
「ん? ああ。これね。」
机を挟んでお互いの小指を繋いだ二人。
この約束が果たしていつまで守られるのか。
残念ながら、ほぼ守られない未来について潤史朗的には予想がついていたが、努力目標として頑張ろうと思うところである。
「破ったらどうなるの?」
「どうしようね。」
こうしてここから、潤史朗と夏子の始まったばかりの未来が動き出す。
これからの二人に待ち受けているもの、どうか平穏で、ごく普通の日常であることを願うばかりだ。
しかし一方は義腕義足の公安職員。地衛局絡みと言う事は、怪虫の繋がりだということも想像に容易い。それが平和かといえば、真逆の世界と言えよう。
それでも、知らなければいけない過去と、知るべき記憶が何処かにあるようで、それは直感的に確信がもてるところであった。
日本の地下には何かがある。
それは失った記憶であり、まだまだ知られざる大きな秘密だ。
その全てを暴き出すため、そして夏子を守るため、志賀潤史朗は新たな人生の一歩を踏み出したのであった。




