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MEGA-KILLER ~地下衛生管理局特別殺虫係~  作者: 浪川晃帆
第二部
30/81

第30話 特別病棟ー1

 

 志賀夏子。

 聞いたところによると、どうやらそれが私の名前らしい。

 目が覚めた時は病院のベッドの上。

 知らない天井、知らない場所。病室には私の他に誰もいない。

 花瓶は、ただ瓶としてそこに置いてあるだけ。何の飾り気もない。それは花さえなければ工芸品ですらなく、真っ白いつるつるの、ただの陶器。便器と同じだ。

 

 体の方は特に異常はない。異常があるのは頭の方。

 何も思い出せなかった。

 自分の事も、家族のことも、大切なことは何一つ。

 いわゆる記憶喪失。事故で脳にダメージがいったとか何とか。

 私の頭の中は、丁度そこに置いてある花瓶のような感じだろう。真っ白で、中は空っぽだ。

 退院もすぐにできると言われたが、退院したところ一体どうすればいいのだろう。

 どこに帰ればいい? 

 誰が待っていてくれる?


 退屈な病院生活。全てを忘れた私にとって、それは途方もなく、先が見えない無限の孤独だった。

 

 私には何もなかった。

 友達と呼べる人すらいないのか。

 病室にはベッドが6つ。そこにいるのは私一人。

 時々看護師さんが来てくれたり、1日一回は白衣の先生が問診にくる。

 しかし、それだけだ。

 あまり意味のないような言葉を交わして、暫くすれば去っていく。それでもないよりはあった方がいいのかもしれない。そしてみんな、私にむって口々にこう言うんだ「大変だね。でも頑張ってね。」と、優しい顔をそこに添えて。

 なんて優しい人達だろう。

 そんな事を言われて、それで私はどうすればいいの? 何をどう頑張ればいい? 知ったような顔をして。わかったようなふりをして。

 無責任な優しさだ。

 もちろん彼らに悪意はなく、本当に天使のような心の持ち主なんだろう。私とてこの人たちに悪態をつくつもりはないし、親切心には感謝しかない。

 ただ、あまりにもそれが虚しく感じられ。

 やるせなかった。

 この病室に音がない時間、いったいどれだけ長いと思う? 

 でも、だからと言ってあまり外を散歩したりはしたくない。

 お見舞いに来る家族や友人、そして恋人。

 もしかしたら、それは私に、私のお見舞いなんじゃないかと、つい期待して、そして傷つく。

 私に会いにくる人なんて誰もいない。

 病室にはただ、時々優しい風が吹き込んでくるだけだ。

 流す涙すらここにはなく、ひたすら自分が空であることを実感した。

 私には、心の中すら誰も待っていない。

 

 私は、今本当に生きているのだろうか。

 ふと疑問に思う。

 人は一人では生きていけない。それの本当の意味は、一人では生きているのも死んでいるのも変わらない、そういう事だと思う。

 誰からも見られず、ただ風のように。

 

 もうすぐ退院。

 一応施設は紹介されたが、そこに行ったところで何も誰も待ってはいない。

 頑張ってね。だなんて、そんな無意味な物に出せるやる気があったのなら人生誰も苦労なんてしないよ。


 そう。

 生きているのも死んでいるのも同じ。

 もしそうだとしたら。

 死んでみたら、何かが変わるのだろうか。


 ベッドを立ち上がり、なんとなく窓際に行って見る。

 ここは13階の病室。

 遠くの景色が良く見えた。

 吹き込む風が気持ちいい。

 その風と一緒になれたのならば、それはとても素敵だろう。


 私がぼんやりとそうしていると、後ろの方から知らない声が聞こえてきた。


 振り返ると、そこにいたのは一人の男だった。 

 黒いスーツにサングラスをかけており、それが病院の関係者ではない事は一目瞭然。そして、きっと親族でもないのだろう。

 別に本当に飛び降りるつもりだったわけではないけれど、そんな私を止めに来た?


「志賀夏子だな。」

 低い声で男が言った。

 私は軽く、それに頷いて返す。

「君には一人兄がいる。今から会せよう。」


 それからの男の話によると、どうやらその兄という人物が、私にとっての唯一の親族であるらしい。

 そして、その兄とやらが見舞いに来ない理由。

 兄は私と同じ事故に巻き込まれて重傷を負い、そして奇跡的に一命をとりとめた、とのことだ。

 なぜそのことを早く教えてくれなかったのかと私は案内をする男に聞いたが、精神状態が不安定な私に、親族の危篤を知らせるのは良くなかったとのことらしい。

 ちなみに兄は同じ病院の別病棟にいるようだ。

 こんなにも身近に大切な人がいたのに、それに気づかず沈んでいた自分が馬鹿らしい。

 

 案内されるがまま、隣の病棟に移る。

 そこに一歩足を踏み入れた瞬間、何か空気が変るのを感じた。

 一般病棟ではないにしろ、妙に無機質で人を威圧するような感覚を覚える。


「ちなみに……。」

 私の前を歩く男は思い出したように言った。

「君の兄も、恐らくだが記憶を持たない。」


「え……。」


 その言葉を聞いた瞬間、私はその場で足を止めた。

 一瞬、男が何を言っているのかわからなかったが。頭の中は真っ白に近い。しかし、それが大変なことだということだけはよく理解できた。


 そして間もなく、気持ちも心も頭の整理も何一つとしてちゃんとできない内に、その病室へと到着した。

 

「この部屋だ。入りなさい。」


 ここに来て、急に足が重たくなった。

 がっちりと誰かに足首を掴まれているような感覚。

 前に進むのがつらい。

 いきなり、そんな人に会って、どうしろと言うのだ。

 私が期待していた、求めていたものは、そこには100%存在しない。

 無事でよかったと、私の名前を呼んで温かく包んでくれるような人はそこにいない。

 その病室にいるのは、ただの初対面の男に過ぎないのだ。

 大きな落胆と同時に、緊張と重圧が襲った。

 その人と顔を合わせて、まず最初になにを言えばいい? 自己紹介でもするの?


 お互いが初対面の家族。

 そんな人、聞いた事が無い。


「さあ。」


 だがしかし、そのサングラスの男の言葉は、首を横に振れないような、ピリピリとした圧迫感があり、私はそれに逆らう事ができずに言う通りに従った。

 病室に入る。

 機械というか装置だらけの少し怖い部屋だ。

 そして、その真ん中のベッドにいるのは、その兄という人。

 だが。

 それを一目見た瞬間に、私は今まで不安に思っていたことが全て吹き飛んだ。

 別の意味で。だが。


 ベッドに横たわる男は、体中包帯だらけ。

 顔面にも包帯を巻いており、意識は戻ってない。

 この人と喋る必要はないようだ。


 そんな事に胸を安心させてしまった。

 さっきまで煩く鳴っていた心臓は、これで少しは落ち着いてくれたよう。

 しかし、その心の平穏はほんの一瞬に終わった。

 

 この兄という人物が横になるベッドのところまで行くと、その姿のおかしなことに気が付いた。


 どうしようもなく痛い、やすりのような感情が私を削る。

 彼が失っていたものは記憶どころの騒ぎではない。

 その兄たる人物は体の大部分を。そう、両腕両足をごっそりと失っていたのだ。


 私はただ、その隣に立ち尽くすばかり。

 何を。

 何をどうしていいかもわからない。

 これに、どんな感情を向ければいいのかさえも。

 ただ胸が痛い。その気持ちだけが漠然として、もやもやと心に蔓延っていた。


 

 それからと言うもの、私はここに毎日通った。

 何故そうしているのかはわからない。

 家族だから、と言えば当然なのかもしれないが。はっきり言ってこれは他人だ。

 お互い知らないのだから他人。なにか間違っているだろうか。

 それでも私がこうする理由。

 きっと何かに奇跡に近いようなものを期待しているのかもしれない。

 こうしていれば思い出すかもしれない。相手の方は、もしかしたら記憶が残っているかもしれないと。

 ただ私は、私の名前を呼ぶ声を求めていただけだろう。

 退院後は、とりあえず近くのビジネスホテルに泊まり込んで見舞いを続けた。

 というよりは、ここしか来るところがないというのが正確なところ。

 施設の申請は出してない。

 お金が無くなったら、その後の事は何も決めていなかった。

 何か見えないものにすがり付くように、私はこの破綻した生活を繰り返していた。



 ある日の事。

 よくわからないが、兄の顔からは包帯が外され、代わりに妙なカメラが頭の横に取り付けられていた。

 カメラの事はどうでもいい。

 初めて見る、私の兄という男の顔。

 似ている?

 いいや、全然似ていない。並んだって誰も兄妹だとは思わないだろう。顔すら似ていなければ本当にもう他人なのだ。

 そんな兄の顔は、細かい切り傷や擦り傷が多く肌がきれいだとはお世辞にも言えないが、しかしそれでもどこか中性的で整っており、凛々しくも穏やかな、上手く表現ができないが、なんでも我儘を聞いてくれそうな感じだった。

 こんな人が兄だったら、妹はどんな感じなんだろう。

 ……。

 いやいや、妹は私だ。

 一瞬本気で忘れていた。

 

 カメラの赤いランプが定期的に光っている。

 なんだろう。

 まぁ何でもいいか。


 今日もここで。

 兄のベッドに胸から上を突っ伏せて、お休みさせて貰おうと。

 こんな昼寝が日課になってしまった。




 頭を撫でる。

 暖かい感触。

 長い髪に、そっと優しく手で触れて。


 懐かしい。


 そんな感情に私は目を覚ました。


「やぁ。」


 ぼんやりと目の前に浮かんだ誰かの顔。

 知らない、若い男だ。


 いや。


 兄だ。


 これも初めて見る、彼の開かれた両目。まるでお母さんみたいだ。


 そして私は、この突然にやってきた初対面の瞬間に際して。

 気持ちも言葉も何一つ、用意はしていないのだった。


「あ、あの、えっと。」


 慌てて飛び起きる私。

 勢いで丸椅子を突き飛ばし、更に慌ててこれを元に戻す。

 彼とは少し距離をとってその場に立った。

 右手で必死に髪を直している自分。もう何が何だか全然わからなくなってしまった。


 そんな私を、少し笑って見ている彼がいた。

 つられて私も少し笑う。

 

 なんだかもう、目が合わせられない。


「じゃーん。」


「え?」


「右腕、つけて貰っちゃった。ははは。」


「えっと、あの。」


 急に何を言い出すかと思えば。

 ほかほかとした笑顔で、どうしていいかと更に困らせる。


「あの、よかったですね。その、……腕。」



「毎日ありがと。最近いつもここで寝ているでしょ? なんとかお礼の気持ちを伝えれないかと思ってたけど、丁度いいタイミングで腕がついた。ほら。」


 嬉しそうに義腕を見せてくる彼。

 それはとても無邪気で、子供のような感じがした。


「まだ仮のものらしいけど。それでも十分だね。とてもいい。」


「あの、私がいつもここにきているって……。」


「うん。意識だけはあった。だから知ってたよ、いつも来てくれてるってね。」


 そう言われ、急に恥ずかしさで顔が熱くなる。

 そんな私を彼はじっと見続けた。

 こっちはそれどころではないと言うのに……。


「僕は、ええっと、……潤史朗だ。志賀潤史朗。」


「あの、……夏子、です。」


「ねえ、知ってる?」


「はい、えっと、何が?」


「僕たち、兄と妹らしいよ。」


「そう、らしいですね。」


「はははは。何もわからん。ははははっ。ああ、ごめんごめん。で、妹にも記憶ないんだってね。どんな偶然だよって話さ。」


 私が、一番不安であったことは、こうもあっさりと砕け散った。

 兄が目を覚ましたら、一体何をどう話をすればいいのか、それがずっとお腹の中にのしかかり、むしろずっと目を覚まさなければいいのにとさえ思っていた時期があった。

 しかしそれはこんなにも簡単で、とても自然なことだった。

 それが分かった瞬間に、私の中では何かが暖かく溶けだして、じわりと心に滲みていった。


「でも、ほとんど他人ですよね。お互い全く知りませんし。」

「そうだねぇ。」

「はい。」

「例えばの話、今生まれたばかりの赤ん坊だとしようか。」

「はい?」

「誰が兄で誰が妹かも知らないし、事前の情報は何もない。果たしてそれは兄妹と呼べるだろうか。」

「……。」

「紛れもなく兄妹さ。違う?」

「それは、そうですけど……。」

「今日からでいいじゃん。僕が兄で君が妹。まさか年上じゃないよね?」

「たぶん。あなたの方が上です。」

「じゃあ決まりだ。さあ、言ってみて!」

「はい? 何を?」

「お・に・い・ちゃ・ん。でしょ?」

「ええ……。」

「せ~のっ。」

「……。」

「いやちょっと、露骨に嫌そうな顔しない。」

「いやだって、無理です。」

「じゃ、お兄さん。」

「……。」

「お兄様。」

「……。」

「アニキ、兄上、あにじゃ、あにさま。」

「全部無理です。っていうかおかしいです。」

「んじゃ、何だったらいいわけ。」

「えっとそれは……。」

「まさか志賀さんとか言わないよね?」

「じゃあ……、潤史朗。とか。」

「ん~~、それは、うむ。……微妙だ。ずばり敬いが足りない!」

「いやいや、敬いって。なくないですか。」

「ぬぐぐぐ。……こほん。まぁよろしい。」

「まぁ確かに潤史朗じゃ、その、恋人かよって感じで変、ですけど……。」

「おーっとぉ、今なんとぉ? なにびとだって?」

「なんでもありません!」

「ははははは、良かろう、いや是非、潤史朗と呼びんさい。妹よ!」

「聞こえてるし。」


「ジュン。」


「は?」

「これでいいでしょ? 兄っぽい呼び方。」

「微妙だ。」

「もう決めたから。」

「そか。まぁ致し方ない。」


「ちなみに僕は夏子って呼ぶぞ!?」


「えっ。」


 これが、私にできた兄であった。

 

 それからというもの、いやそれからも私は兄の見舞いを続けた。

 しかしそれは今までとは違う。私は彼に憑りつく亡霊のような存在ではなく、ちゃんと言葉を交え、表情を変え、勝手な事を言いあい、気持ちを伝えあう。生きた毎日が動き出した。

 彼とのやり取りは、新鮮でありながらも懐かしく、胸がぽかぽかと温かい。

 記憶を失くしてからというもの、私は今初めて、ここにある命を実感した。


 

 

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