第3話 廃工場ー2
やられた。
と、思う事は大して無いのだが、少々面倒なのは間違いない。
男は振り返ると、転倒したバイクをゆっくり引き起こした。
「やれやれ、これだから大きなお子さんは……。」
「ぎゃははははははははははっ。お子さんって、おい、俺にはジュンシロ―のがずっと年下に見えるぜぇ。ぎゃははははははっ。」
どこからともなく聞こえる奇妙な笑い声。
その声は肉声というよりは電子音的な感じが強く、人の生の声とは異なった。
「いつから起きてたの?クガマルさんや。」
その声に答える男。
すると、バイクの影から飛び出したのは、ネコくらいの大きさをした巨大な昆虫、クワガタムシであった。
否、正確にはクワガタムシでなくクワガタムシ型ロボットであったが、どうやら電子音声の発生源はこのロボであるようだ。
「ちょいと前から起きてたぜ?」
「なら早く連絡頼むよ、公安隊の指令本部にさ。場所のデータも添付して、一般人3名侵入って。」
「ああ?面倒くせぇ~な。チッ、しゃーねー。」
クワガタムシ型ロボットは、そう言うと目の部分辺りを赤くチカチカ発光させながら、男の周りをぶんぶん飛び回った。
「なあおいジュンシロ―。」
「何だよ。早く通信してくれよ。」
男は倒れたバイクの点検をしながら面倒くさそうに言った。
「まあ待てよ、急いだって仕方ねーだろ、そう簡単には繋がんねーんだよ。」
「んで何さ。」
「お前に、少し良い報告がある。」
クワガタロボットはぶ~んと飛び、男の目の前で滞空した。
「何? 気になる。」
「あのキツネだがよ。」
「キツネって何だよ。どのキツネだし。」
「だからキツネみてーな顔してただろ、さっきの野郎。」
「ならそう言ってよ。」
「んで、そのひょろひょろギツネだが、なんと動画を配信中だった。」
「へぇ~。で、それが何? って言うかそう言ってたじゃん本人。」
「いやいや、お前が忘れてそうだったから言ってやってるんだろ? それが何? じゃねえよ!」
「ふむ。」
「おいっ、ふむ、じゃねえって。動画の配信中だぞ!? そんな最中にあれに出会ったらどうするつもりだよ。」
「うん?」
「うん? じゃなくて。」
「……、ああ成程。あれな、あのデカくてキモいやつ。それはちょっと、うん、やばいな。」
「だろ? いい報告だろ?」
「全然良くないだろ。下手したらバレるんじゃないのか? あの人らが探してる地下の秘密ってやつが。」
「そういう事だ。終わったぜ通信。感謝しな~。」
「あいよ。それじゃあ、ちょいと急ぎますかね。面倒くさい事になる前に。」
男はそう言うと、バイクの後部座席左右に積載された黄色いボンベを取り外し、一旦それを地面に置くと専用のハーネスにボンベを固定した。
黄色のボンベに太く書かれる黒い文字。
そこに綴られた文字は“MEGA―KILLER”。
それがどんな意味なのか定かではないが、とにかく黄色のボンベにその文字がやたらと存在感を主張していた。
「どっこいしょ~とさ。」
そうして男はハーネスを両肩に掛け、黄色いボンベを背中に担ぐ。
「準備よぉうし。」
「防護マスクは装着しねぇのか?」
「まだいいでしょ~。あれがいると決まった訳じゃぁないし、ね。」
「まぁ、俺は知らねーけどな。」
と、ちょうどその時だ。
そこで鳴るのは警報音。音の在りかはバックの中。
渋い表情をみせる男。
ごそごそバックを漁ってみると、マッチ箱サイズの音源が赤くぴかぴか光りながら、堂々姿を現した。
№5と油性ペンで書かれた小型警報装置。
しばらく止まって男はそれを見つめていた。
「あのさ、5番のセンサーってさ、どこに設置したっけかな?」
「多分お前の思ってる通りの場所だぜ。」
クワガタロボットが答える。
「つまり?」
「いや、つまりも何もここだろ。この工場の中。さっきの3人が走ってった奥だよ。」
「……防護マスク、装着しようか。」
男はそう言い、腰にぶら下げていたその物を、顔全体が覆われるよう取り付けて、空気の漏れのないように、かっちりバンドを締め付けた。
「ぎゃははははははははっ。やばいよー、こりゃぁやばいねぇ~きっと。ぎゃはははははははははっ。まぁ、あいつら自身が掛かっただけかもしれねーけど。」
クワガタロボットは、その大あごをガチガチ動かしながら、奇妙な笑い声ではしゃいでいる。
「行こう。二手に分かれて、クガマルは右から、僕は左から検索する。いいね?」
「ああ、いいともさ。こりゃあいいよなぁ。ぎゃははははっ。」
かくして、一人と一基はバイクを置いて工場内部の暗闇へと突撃して行った。
さて、一体この中、この廃工場の闇の中で何が起こっているというのだろうか。
その答えはもう間もなく、もうすぐそこに転がっている。
「チカコちゃ~ん、ど、どこ~?」
まさかこんなにも暗いとは。
これは完全に予想外であった。
マイチューバーことヒカリンは暗闇の中現在地を見失い、アイドルの片方と、はぐれてしまったようだ。
自分の前方を照らす明かりは、バッテリーぎりぎりのスマートフォンの画面のみ。
先ほどいた地下道は暗いながらも照明があったが、地中深度5000メートルの場所は、人工の光源さえ無ければ真の闇が実現するのだ。
そしてこの金髪の男は、無謀にもライトーつ持たずに飛び出した。
恐らく自撮り用ビデオカメラには何も映ってはいない。
「ね、ねえヒカリンさん。帰ろ? なんかやばいよ、凄い暗いもん。」
「いや、でもチカコちゃんいないじゃん。」
「チカコならもう戻ってるって! あの子そういう子だし。」
この暗闇の中、一人はぐれたアイドルのチカコ。
ユウカの方は幸いにもヒカリンと合流を果たしたが、彼女はヒカリンの背中にしがみつくように引っ付き、またヒカリン自身も身を縮こませる。
「もう帰ろっヒカリンさんっ。」
ユウカは少し声を荒げて言った。
「いやでも……。」
「チカコは大丈夫だからっ。」
「そ、そうだよね。うんきっとそうだ。ははは。」
暗い暗い闇の中。
帰る、戻る。
一体どこへ?
既に方向感覚は失われた。
もう右も左もわかるまい。
唯一わかるのは、お互いに服を掴んでる、その感覚のみだ。
足をぶつける、錆びれた鉄の階段だ。
ぶつけて初めて認識できた目の前の階段。
昇るか、昇らないか。
だが、来たときは階段など降りてはこなかった。
ここはどこ? 今入り口から何メートルくらい?
もう何もかもが狂ってきた。
「もうやだぁあああ。ウチもう、ムリ。」
ついにアイドルユウカは小さく泣き出した。
しかしマイチューバーヒカリンにも、恐怖で泣き出す女性に男らしく声を掛ける余裕など欠片も残っていない。
寧ろ自分が泣き出したい。
このまま本当に帰り道がわからなくなれば、もう動画配信どころじゃない。
ふと冷静になると気が付くことがある。
ここは地中の5000メートル。そして一般人立ち入り禁止。
ここで迷子になったらどうなるか。
それは、どこかの山で遭難した程度の問題ではない。
歩き続ければいつかわかる場所に辿り着くなんてことはあり得ない。
そう、ここは地下5000メートル。それはつまりそういうことだ。
「大丈夫おれは大丈夫、絶対大丈夫、おれは大丈夫。」
ヒカリンは、まるで自分に暗示を掛ける様にそう呟いた。
ゆっくり前に進む二人。
ちょうどその時、音がした。
それは前方から、ゆっくりと。
カタン、カタンとゆっくりと。
「音がする。ねえ何か、音するよ?」
ユウカは先ほどよりもさらに強くヒカリンにしがみ付いた。
「だ、大丈夫。あ、そうだ。きっとチカコだよ。絶対そうだ。」
「え? そ、そうなの?」
「絶対そうだし。だってあの子って、そういう子じゃん。」
「そう、なの? そう、かな。」
「ほら、チカコちゃ~ん。おれじゃんおれ。こっち来てよ。」
そう言ってお互い接近する、音とヒカリン。
カタン、コトン。
鉄板の地面が小さく響く。
「ほら、こっち。」
ヒカリンのかざすスマートフォンが、暗く前方を照らした。
やがて姿を現す音の正体。
足。
それは足だ。
下から順に、黒いブーツと二―ソックス。
そしてその上には、赤いチェックのスカートが照らされた。
「チ、チカコちゃん。も~まじビビるから返事してよ。」
そして近づくにつれて、スマートフォンの明かりは更に女の上を照らす。
そこにあるのは、何だろう。
赤い……。赤い何かがぶらぶらと。
やわらかそうで細長い、とても湿っており、ボタボタと垂れる。
次の瞬間、バチンと何かが音を鳴らした。
そして地面に落下する、チカコの下半分。
訳がわからない。
スマートフォンが照らす小さな明かり。
目の前にいるのはチカコではない。
そこに現れた異形の生命体。
それは……、巨大なゴキブリに見えた。
そのゴキブリがどれほどの大きさだったかはわからない。少なくとも人間よりかはずっと大きいが、その全貌はよく見えない。
ただ、その口から、誰かの小さな白い腕が生え、ズルズルと中に引き込まれていくのだけはよく見えた。
「え……。」
一瞬の沈黙。
ゴキブリがこちらに顔を向けた。
声にもならない叫びが上がる。
走る。
とにかく走った。
上着の裾を、女か何かに掴まれたような気もしたが、そんな奴に構っている余裕などない。
ゴキブリが、でかいゴキブリがチカコを食べていた。
ただそれだけ。
ただそれだけだが、このままでは死ぬ。
どこでもいい、どこでもいいから出口に向かって走らねば死ぬ。
「やばいやばいやばいやばいやばい。」
「いたぞ。」
クワガタロボットはぶんと飛翔すると、工場内を検索する男の腕に飛びついた。
「何がいた?」
「役者が全部。」
丁度次の瞬間、どこかで聞こえる誰かの叫び声。
声にもならないその悲鳴は、まるで喉を捩り倒すような、そんなあり得ない奇声にも聞こえた。
一旦顔を見合わせると、男とクワガタロボは声の元へと直ちに向かった。
暗闇を駆ける二つの光。
それは男のアクションカメラと、クワガタ装備のHIDライトだ。
途中、べキッっと何かが足の下、安全ブーツの裏に感触を得た。
下を照らすと、血の塊と固いもの。
恐らくどこか、離断した人体の一部だろう。
「ぎゃははははっ、一人食われてやんの~。」
クワガタロボットが言った。
「先を急ごうか。」
何が何だかよくわからない。
でも走る、ただひたすら前を走った。
今全身が、命に対して警報をならしているのだ。
走る、走る、そして走る。
しかし、次に踏み出したその足は、接地する場所を見失う。
そして更に踏み込む次の足、しかしその足の裏にも地面の感覚は掴めない。
その感触に心臓が一瞬止まる。
目の前は階段、高さは全く分からない。
ヒカリンは叫ぶ間もなく、鉄の階段を転げ落ちた。
回転しながら下へ下へと落っこちる。
そうして何回転か後に、地面が体にガツンと当たり、その衝撃で転落は止まった。
「うひゃぁあぁぁああ。」
ヒカリンは、まず自分の後ろをスマホで照らした。
大丈夫だ。あの化け物はここまでは追っては来ていない。
どうやら逃げ切れたようだ。
しかし次に気になったのは後ろから来ていたはずの女の行方。
全力で走ったせいで、はぐれてしまったのか、いやそれとも……。
「ユ、ユウカ、ちゃん?」
彼女の姿はどこにも見えない。
階段の上には、まだいるだろうか。
ヒカリンは立ち上がり、階段に一歩足をかける。
その時感じる焼ける様な激痛は両足からじわじわ伝わった。
どちらの足も一歩も動かない。
再び腰を下ろすヒカリン。
よく見ると全身血だらけだ。
スマートフォンで体を照らす。
上着もズボンもビリビリだ。先ほど目にした地下衛生管理局を名乗る男の作業服もかなり汚れはひどかったが、今の自分はそれを上回る格好だ。血みどろのそれは、既に服と言うよりはボロ雑巾である。
そうして全身を見回してみると、上着の裾の方が不自然に引っ張れるのがわかった。
ちょうど自分の真後ろ当たり、何か違和感を覚える。
ヒカリンは後ろに手を回し、その異物らしきものを服から引き離してみた。
「なんだこれ。」
自分の手が、手を掴んでいた。
一瞬自分の手が、ぼやけて2つに見えたのだと思ったがそれは違った。
自分の右手が握っているのは誰かの白くて細い腕。それは、その肘辺りから上の部分が千切れていた。
断面から飛び出す骨は白く鋭く、その千切れた端から血液が滴り落ちている。
そしてその反対側の指先には、自分の服の破れた布が挟まっていた。
これが誰の腕なのか、もはや考えるまでもない。
「あ、あ、ぁ……。」
「はい~、叫ばない叫ばない。」
ヒカリンの口から大響音が噴き出す前に、その大きく開けられた口に、すっと誰かの手が当てられた。
現れたのはガスマスクを付けた男と、やたらデカいクワガタムシ。デカいと言っても大きさは小型犬ほどで、先ほどのゴキブリと比べれば可愛いものだ。
ヒカリンは突然出て来たその男に大変驚いてじたばた暴れる回るが、彼の側頭部にくっついたアクションカメラが目に入り、それが先ほどの地下衛生管理局員だとわかると少し落ち着いた。
「落ち着いて、静かに。地底の昆虫は、光以外には敏感なんだ。」
男がゆっくりとした口調でヒカリンに囁く。
ヒカリンは震えながらも、その言葉に頷いた。
「もう大丈夫だね。怪我は?」
男は、その手をヒカリンの口からゆっくり離した。
「お願い、助けて。お願いだから、まじ死ぬ。死ぬよ。頼む。助けて。」
ヒカリンは、男の作業服にしがみ付いてそう言った。
「それは駄目だぁ。ぎゃはははは。」
「ひっ。」
突然喋るクワガタに、ヒカリンは腰を抜かした。
「クガマル、人前で喋るのは……。」
「構わねぇさ。コイツはもう死ぬ運命だ。どうしてそうなるか、わかるだろぉ? なあ? ジュンシローよぉ。」
「そうかな?」
「そうさ。そうなる。」
「な、なあ、お願い、助けて。」
カタリ、カタリ。
どこかで鳴り響く小さな金属音。
男とクワガタはピタリとその声を止めた。
「来た。」
男の耳元でそっと呟くクワガタロボ。
男は小さく頷いた。
「え? え? 来たって? え?」
「上だ。」
クワガタがそう言う瞬間に、男は素早くヒカリンの襟首を掴んで投げる。
男自身もその場から退くと、それと同時に上から巨体が降下してきた。




