第26話 第二覚醒ー3
その女の前、数十メートル手前に車両を停車した。
ゴキゲーターの死骸が散る中にぼんやりと立ち尽くす長身の女。
どこからどう見ても普通の人間には違いない。しかし、この周囲の状況とその中に平然と立つ女を、どのように解釈していいのかが分からなかった。
女が纏っているのは布きれ一枚。同業者ではないにしろ、遭難者にしてもどこか不自然。それが何者なのか理解に苦しむ。
何かがおかしい。
いや、おかしい点を上げ始めれば幾らでも出てくるが、駆逐トラックを前にしても何の感情をも語ろうとしないその虚ろな瞳が最もおかしく思えた。むしろおかしいを通り越し、奇妙、いいや、不気味と言える。
「あ、姉御。ありゃなんだ?」
「人、でしょ?」
「ですよな?」
人、でいいのだろうか。
アクセルペダルの上に添えた右足が、それを踏むのに躊躇した。
「なにやってんのよ。取り敢えずもっと接近しなきゃ状況がわからないじゃない。」
「お、おす。」
沙紀に言われて、重吾は右足首の緊張を解く。
微速前進。
駆逐トラックは、その謎の女との距離を徐々に詰めて行った。
それにより女の姿形は更に詳しく見えてくる。
肩に、誰か他の人間を担いでいるのがわかった。
両者の間合は20メートルほど。
再びトラックは停止した。
女は依然、なんら反応を示さない。
「ど、どうします? 姐御。」
「どうもこうも、話を聞かなきゃ始まらないでしょうが。」
沙紀はそう言いつつ、助手席の扉を開いて後ろ向きに昇降ステップを降りて行く。
その様子を心配そうに見つめる重吾は取り敢えず車両の中から彼女を見守ることに決めた。
何とも言えない胸騒ぎ。
相手はただの人間だ。一体なぜ? 何を恐れる必要がある? しかし、どうもこの嫌な気を拭えない。
そう感じるのは沙紀も同じであった。だが、だからと言って何もしないわけにはいかないだろう。
大丈夫、虫じゃないんだ。
「初めまして、地衛局の人間よ。あなたは?」
駆逐トラックを背景に、沙紀は女に接触を試みた。
「……ルニア。」
一言、女はそう答えた。
「そう、あなたはルニアって言うのね。ここで一体何をしているの?」
「……。」
無言の女は、その黄金の瞳で沙紀をぎろりと睨む。
「答える気はないようね。」
反抗的な視線。考えられるとしたら、過激派の一味か。その線が濃いと思ってよさそうだ。通常こんな場所に迷い込んでしまったら、すぐさま助けてと泣きついて来るはずである。
警戒を怠らず、また決して逆上をさせないように会話の糸口を見つけなければならない。実は爆弾を持っていて、突撃してくるなんてことも大いにあり得るのだから。
「それじゃあ質問を変えるわ。あなたが背負っているその人は誰? 怪我をしているなら治療が要るわ。」
「……貴様、やはり敵と同じにおい……。」
「何を言ってるの? 公安隊ではないわ。安心して。何もしない。」
そのやり取りを車内から伺う重吾と輝人。
輝人は重吾の横くらいまで身を乗り出し、そして女の担ぐそれが誰なのかと隅々まで観察する。
小柄な……男性か。
ボロボロの作業着に、そして腰のベルトには道具入れのポーチやその他様々な装備をぶら下げる。一体どこの建築業者かと。
が、そうして見ていると、それが誰なのかを明らかにする決定的な部分が目に飛び込む。
破れた上着の袖部分、そこから覗かせる金属物は今クガマルとコードで繋がっている物と全く同じ。
義腕。
「ジュンさん! ジュンさんです!!」
「え!?」
輝人は勢いで車両を飛び出した。
「ジュンさん? ‥…潤史朗のこと? ってことは、先輩?」
沙紀の隣に走ってくる輝人。
女は、やって来た輝人の方には見向きもせず、視線を沙紀に合わせたまま離さない。
「確かに言われてみれば……。あなた、その人をよこしなさい。こちらで保護するわ。」
かつての先輩、その姿を見るのは何年ぶりか。言われてみれば間違いない。何となくそんな気が、という曖昧さはもはや完全に消え去り、それが先輩であることに確信を得た。
ずっと探していた人。
消息を絶ち死んだと思われた彼は、いつの間にか正式に死亡の判断が下されていた。
当然そんな事に納得がいくはずがなく、ずっと彼の帰りを待っていたのだ。もちろん、何度も探しもした。
だが、あれからもう数年。やはり死んだのだと気持ちに折り合いをつけつつあったが矢先。遠く離れた尾張中京都、そこにいるとの情報を得たのだ。
そして今、その男はもう目の前に。
気持ちがはやる。
考えるよりも先に動く足、沙紀は彼女の前にもう一歩進み出た。
「お、おい姐御、そんなに近づいちゃ……。」
「さあ、その人をこっちに……。」
次の瞬間、両眼を鋭く細める女。
「近づくな。」
一歩退き、低い声を短く発した。
続いて、かざすその手は沙紀の方へ。
「貴様ら、やはり敵だ。」
「死ね。」
それは出来事としてあまりにも唐突。
彼女の手の平から何が放たれると言うのだろうか。
しかし、それを知ったが最期。もう死んでいるということになるのだ。
空間が、歪みをきたし始める。
「姉御!! 危ねえ!!」
現象が起こるその直前、駆逐トラックから伸ばされた掘削ドリルが女を狙う。
その攻撃に気が付く女。
向かい来るドリルを目線に捉え、空中にてこれを受け止めた。
ドリルはその位置にて釘付けに。
「な、なによこれ……。」
「どうなってんだよ。」
そして次の瞬間、ドリルを支える作業アームは凄まじい力をもって回転する。鉄のアームは奇怪に捻じれ、ありえない変形を見せたのち車体上部からすっ飛んだ。
「ずらかるぞ!! 乗れ!!」
運転席から体を乗り出した重吾が叫んだ。
現状を考察する暇はない。
沙紀と輝人は、後ろから聞こえる重吾の声と、直感的にわかった命の危険に素直に従い、有無を言わさず車両まで急いで退避した。
目の前で作業アームが一瞬にしてねじ切られた。逃げる理由はそれだけで十分。
二人はキャビンに飛び乗った。
「ありゃ、俺や姉御と同類なんだ! この違和感も勘違いなんかじゃねえ! 波長の影響だ!!」
重吾は二人が乗車したのを確認すると、素早くギアをバックに入れ、蹴り下ろすようにアクセルを踏む。
激しく唸るエンジン音。
トラックは飛ぶように後退し、死骸の山を蹴散らした。
「どーいうことすか!? わけがわかんねぇっす!!」
「どうもこうも、そういうことだ! まずい相手が攻撃してきたんだってな!」
「止まって重吾! 先輩がまだ!!」
「んな場合か!! 殺されるぞ!!」
「いいから止まりなさいよ!!」
「できるか!! そこら中にあるゴキゲーターのバラバラ死体、多分だが、全部あいつの仕業だぞ! さっさと逃げなきゃ瞬殺される!!」
タイヤに踏みつけられるゴキゲーターの残骸。
確かに、よく観察してみれば雑巾のように絞られて、ちぎれちぎれになったとも見える。先ほどの作業アームを破壊した攻撃を見れば、その察しがつく。
そして、あっという間に女との距離を離していくトラック。
正面を見れば、彼女は特に走って追いかけてくることもない。
「簡単に説明すっとな。俺や姉御、とにかくSPETの隊員はみな医学的に地下体質なんだ!」
重吾はミラーで後方を確認しながら輝人に言った。
「例えばこれ、車両の真後ろは目視できてないが、後ろの様子は大体わかる。」
「すげーっす。」
「五感の他に、地下特有の感覚ってのがあってだな。それであの女、その力がずば抜けてるんだ。」
「じゃあSPETの関係者ってこと?」
「わからん。現状じゃなんとも。」
と、その時だ。
ある程度の距離を逃げたのち、助手席の沙紀は飛びつくように掴んだサイドブレーキを引き上げる。
そして急激にブレーキが掛かる駆逐トラックは、そのタイヤが悲鳴を上げた。
強力な勢いで、3人は座席に押し付けられる。
「なにするんすか!」
「止まれって!! 聞こえなかった!?」
声を荒げる沙紀。
「はぁ?」
重吾は半分あきれたような顔で彼女を見た。
「死にたいんすか。」
そして、落ち着いた口調で沙紀に言い返す。
大丈夫、あっちの女とはある程度の距離はとれた。
「冷静じゃないのはわかってる。でも、ここで引き下がるわけにいかない。」
「俺は死にたくねえです。」
「一人で行く。」
「え? いやいや龍蔵寺さん? それは無茶なんじゃ……。」
「それもわかってる!!」
沙紀は吐き出すように言葉を投げた。
「でも、先輩を見捨てて逃げるなんて! もう二度としたくない!」
蘇る強烈な記憶。
それはまるで悪夢のように、ふとした瞬間に傷口を抉りたてた。
あれからもう何年経つか、何年経とうが決して忘れない、忘れることなんてできない。
ここではない地底。地上より遥か深くに存在した本物の地獄だ。
あの時、まだ何も知らなかった私たちは丁度そのど真ん中に進み入る。
闇に蠢くその影は、我々のよく知っている、悪魔のような生物だ。
しかしそれは、地底のそれは非常に強大。またそのスケールは想像を絶した。
ただのゴキブリだったらどれほど良かったことだろう。
人類初めての、ゴキゲーターとの壮絶な戦い、いや生存戦が始まったのだ。
撤退は困難を極める。
その暗黒の環境に、多くの隊員が感覚も心も破壊されて、まさに状況は絶望的となった。
犠牲は大量。
そもそも、何でもないただの調査活動の随伴であるはずだった。装備も貧弱、予備の武器弾薬や非常食なんてもってない。
そして手持ちのライトが電池を切らすと、そこに死の世界は完成したのだ。
小さな音で高速に接近する巨大ゴキブリ。それはどこからともなく湧いて現れ、闇に紛れて牙を剥いた。
完全に道を見失った我々は、一人、また一人と犠牲者を出していった。
残された人数はもう数名になった頃か、この時には戦闘要員にあってはもはや私と先輩のみ。
銃が効かない敵に対して、よく健闘できたと思う。それもやはり先輩の策略あってのことだ。
しかしそこで、最悪の事態が発生したのだ。
あの虫が現れた。いまだかつて、それを超える害虫は発見されていないだろう。
それに続くように地下空間の崩落が始まる。
私と先輩を隔てたのは巨大なコンクリートの塊、彼が最後にどんな顔をしていたのかさえ分からない。
結局、無事に脱出を果たすことができたのは極一握り。先輩はそれに含まれなかった。
事件から間もなくして、新たに創設された地下衛生管理局の実動部隊、特別殺虫チームSPET。それは手術によって成り得た、人類初の地下体質の人間のみでそのメンバーを構成させる革命的な試みであった。
世界初の技術である体質改良手術は、極めて医学的。ただし成功率は50パーセントに満たない。
しかし、私はそれを受けるのに何の躊躇もなかった。
地底に起こるあの惨劇を目にして、のうのうと地上で生きていくことなどとてもできなかったのだ。すでに魂は、この地下深くに捕らわれて、そこに置いてきてしまったのだろう。
そして私は手術を乗り越えて、SPETに入った。
地下に取り残してきたあらゆる思いを拾って集めるため。
今もここで戦っているのだ。
「こんなとこまで付き合わせて悪かったわね。でも、ここで行かなきゃ死んでるのと変わんないのよ。」
そう言いながら、手にした散弾銃に弾丸を込める沙紀。
予備の武装として車載してあったものだが、用意してあった弾は何発でも置いてあった。
「それじゃ、生きていたら迎えにきて。」
そうして、扉に手を掛ける沙紀。
だが、そのときだ。
がちゃり、という音ともに、扉には開閉のロックがかけられた。
重吾が運転席側のスイッチでこれを操作した。
「なんのつもり。」
「行かせられないっすね、そんな。」
「は?」
すると、重吾は突然にトラックを発進。
前方遠くに位置するあの女へと、再度接近を試みた。
「やめなさい!」
沙紀は、加速する車両の取っ手につかまりながら言った。
「んな、一人で行かせられるわけないでしょうに。」
「みんなで生きて帰りましょうや!」
そう言ってハンドルを握る重吾は沙紀の方を横目でみる。
その眼には、人らしからぬ赤い光を灯していた。
「馬鹿じゃん、あんた。」
そう言い返す沙紀。
また彼女も両目に赤光を輝かせ、暗い車内には合計四つの光が灯った。
「あはっはっはっははははっははは。何だ、貴様らの方から死にに来たのか。はっははっはっははっははは。愉快だぞ。はははっはは。」