第1話 地下道
暗闇。
ただその一言に尽きる。
前も後ろも全く見えないその道は、人に捨てられ光を失った地下世界。
目を閉じているのか、いないのか、それすらも錯覚する常闇は果てなく続くように思われた。
そしてここは静かだ。
耳をすませば聞こえてくる水滴の音は、規則的に水溜りを軽く叩いた。
またそれとは別に、不意に吹き抜ける風の音、それは低く、まるで死者が呻いているが如く、闇の中に木霊する。
ここは人が生きてはいけない世界だとはっきりとわかった。
命の鼓動を感じない。
光が風に吸い込まれ、風は暗闇に飲み込まれる。その連鎖に命は流されて、この地下道を迷いに彷徨い、そして押しつぶされるように消えるのだろう。
死後の世界があるのなら、きっとそこはこんな場所なのだ。
右も左も何も見えない。肌で感じる空気の流れは、湿っぽく、不気味に滞留する不快な流れだ。
数十年前、この地下道は人に捨てられた。
電気はもちろん通ってないし、水と言っても滴り落ちる地下水があるだけだ。
足元のコンクリートは所々に亀裂が入り、場所によっては苔で表面が覆われている。
今や人が立ち入る事は滅多にない場所であったが、それでも時間は静かに流れ、ゆっくりと崩壊へと歩みを進めていた。
ところが今日と言うこの日は、珍しく地下道に誰かがやってきているようだった。
前方にぼんやりと光るライトの明かり。
暗闇にぼうっと浮かぶその光は、唯一の道しるべとして周囲の情景を露わにし、そこに人の気配を教えてくれる。
地下道の隅に置かれてあるのは、不整地用の大型バイクが一台と、非常に小さな一人用テントが一つだった。
ライトの明かりは決して強い光ではなかった。
単に発光物がそれしかないため、妙に明るく感じただけであり、実際のものは100円ショップのお手軽ランタンがバイクのガードパイプに吊り下げられているだけだった。
さて、テントの中にいるのはと言うと、睡眠のため横になる一人の若い男であった。
もちろんテントの中も、外と変わらず真っ暗闇だが長大な地下道にそのままシュラフを引くよりか、テントの中に籠っていた方がよっぽど落ち着いた。
テントの中は、外のランタンに照らされることで真っ暗と言えども多少は中の様子が伺えた。
テントの中は正に成人男性がギリギリ横になれる程度の大きさで、実にテント状棺桶と言っても納得できる。
そして、そこでぐっすりと眠りにつく男性は、シュラフの先からひょこりと頭だけを外にのぞかせ、その頭の周囲はスマートフォンや無線機に、スマホと別の携帯電話、その他よくわからない装置を含め、あらゆる機材に囲まれている。中には銃器のように見えるものも確認できるが詳細は不明だ。
また、眠る男の横付近には、食べ終わったカップラーメンの容器や、それに突っ込まれる割り箸、ビニール袋や空のペットボトルなどなど、生活により発生したゴミが散乱している。よく見ると、その下の方にパンツや靴下も発見できるが、畳んでないあたり、すでに使用された後と思われる。
男は、ホームレスか何かと思われかねない有様だが、ゴミの量もその臭いもまだまだ探検家で済まされる程度だと言っておきたい。そもそもここは、ホームレスが定住できるような環境ではないし、そのバイクも無職不定住者では維持管理は不可能だろう。
では彼は何者かと言われれば、決して怪しい者ではない。
こう見えてもれっきとした公機関の職員であるのだ。
すやすやと、浅い寝息をたてて眠る男。その周囲の電子機器も至って静かだ。
枕元に置かれたスマートフォンも、無駄に通知を知らせることなくスリープモードを厳に守った。
ただ一つ、定期的に赤いランプをチカッと灯すのは、男の右側頭部に取り付けられたアクションカメラだ。
アクションカメラは手のひらに収まるくらいのサイズであり、縦長でスリムなタイプのものだった。どんな動画を撮影していたのかはわからないが、こんな物を付けたまま眠るとは、余程疲れていたのだと伺える。
だが、そんなカメラが発する光りとて、特段煩わしさは感じなかった。
静かな地下道に静かなテント。
それはいつまでも続くように思われた。
だがしかし、そんな静寂も数分にして数秒後、突如として破られることとなる。
男の枕の横に置かれた小型の装置が前触れもなく唐突に警報音を響かせた。
テントの中はその警告灯で真っ赤に染まる。
小型警報装置は大変けたたましく鳴り響き、更に赤色の発光を加えて、緊急事態に警鐘を鳴らす。
その音と光に飛び起きる男。
男はシュラフを跳ね上げて、マッチ箱程度の大きさである警報装置を取り上げた。
まず始めに、裏側のスイッチを触り、警報音を停止した。
起きてしまった以上、これ以上鳴らし続けても喧しいだけだ。
そして次にとる行動は、頭に付けたアクションカメラのスイッチをオン。
男が自分の右側頭部にくっついたそれに素早く触ると、青白いフラッシュライトが周囲に激光を照射した。
これは流石に眩しすぎる光量であるが、緊急事態に目を光りに慣らす時間は無かった。
男は停止させた警報装置の裏側に光を当てる。
そこに油性ペンで大きく書かれた文字は№4。幾つか用意した警報装置の中で反応を示したのはこの一基だ。
男はそれだけ確認すると、枕周囲の荷物だけ素早くバックに詰め込んで、飛び出すようにテントを這い出る。
差しっ放しのバイクのキーを捻ってエンジンスタート。
並列2気筒大排気量エンジンが、低い唸りを地下道に刻んだ。
そうして右足を勢いよく振り上げて、バイクに乗車。
ぶら下がっていた100円ランタンをテントの中に投げ入れる。
スロットル開放、クラッチミート。
オートバイは爆音を上げるとともに、ヘッドライトが地下道の闇を鋭く抉った。
続いて男の左手はライトのスイッチを更に操作。
すると今までは暗さで気が付かなかったが、バイクの各部に取り付けられていた赤色回転等が眩しく点灯した。
その様子はまるで白バイをイメージさせるような風貌だったが、残念ながらバイクの種類もその色も白バイとは程遠い。
テントを置いて急発進するオートバイ。
それは闇の中で光の塊と化し、彗星の如く地下道を駆け抜けた。
去り際に、赤色回転灯が一瞬照らした車体の文字。
そこにラベリングされるのは、連なる漢字が計7文字
“地下衛生管理局”
とのことであった。