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シャロンと危険

 

 これまで嗅いだことのない刺激的な臭いが鼻腔を突き刺した。頭がぼんやりとして身体は思うように動かない。知らず知らずのうちに眉間にシワを寄せていると「あ、目覚められましたか?」と柔らかい声が耳に届いた。

 その声をきっかけに、霞んでいた意識が急速に浮かび上がってくる。


「……?」


 瞼を開けると最初に映ったのは天井だった。木材の節や剥がれかけた塗装が、その場所が長く放置されていることを示していた。

 そして次に視界に飛び込んできたのは、自分の両手を拘束する冷たい手錠とそれに繋がる錆びた鎖だった。


「な、に……」


 状況を理解できず困惑した声が漏れる。するとすぐ近くから再び声がした。


「気分はいかがですか?」


 その声に反射的に息を呑む。

 この場に似つかわしくない、しかし聞き慣れたどこか楽しげで明るいその声。


「アデーレ……?」


 恐る恐る声をかけると微笑みを浮かべた彼女がこちらを見ていた。その笑顔を見た瞬間、寒気が背筋を駆け上がる。


「……ここはどこ?」

「楽園です。シャロン様と、わたしの」


『楽園』という言葉が意味するところは分からなかったが、この状況を作り出したのが彼女だということだけは直感的に理解できた。

 その理由は簡単だった。彼女の瞳の奥に見え隠れする暗い輝きが何もかも物語っていたからだ。


「……何が目的なの?申し訳ないけれど、貴女がこんなことをするなんて、全く心当たりがなくて」


 私は自分の言葉が震えているのを自覚しながら、それでも彼女に問いかけた。

 アデーレとはうまくやれていると思っていた。だからこそ、彼女がこのような行動に出る理由が分からない。

 だがその問いに彼女は表情を歪めた。


「シャロン様が悪いんですよ」


 その声は低く冷たいもので、先ほどまでの明るい声色とは別人のようだった。


「あの男を選ぼうとなんてするから」


 あの男──ルイス様のことを指しているのはすぐに分かった。けれど、なぜアデーレがルイス様を憎むのかその理由は分からない。

 戸惑う私を見て、アデーレはふいに無邪気な笑顔を浮かべた。それはまるで恋する乙女のような表情だった。


「わたし、本当に嬉しかったんです」


 かつて神殿に女官として勤めていたアデーレは、私の成人の儀で失態を犯したことがある。私は彼女を庇い、神殿からの罰を回避させた。

 その時の私の言動が彼女の心に深く刻まれることになるとは夢にも思わず。


「これまで生きてきた中でわたしにあんなにも優しく声をかけてくださる人なんていなかった」


 アデーレは孤独だった。家族から蔑ろにされ、誰からも愛されることなく育った彼女にとって、私の存在は救いとなったらしい。


「わたし、シャロン様のことが大好きなんです。愛しています。心から」


 その突然の告白に、私は何も言い返すことができなかった。先ほどの『恋する乙女のような表情』というのは間違いではなかったのだ。


「シャロン様にはわたしだけを見て欲しくてここに連れてきました」

「……どうやってここに連れて来たの?女性一人でしたとは思えないわ」

「簡単ですよ。わたしは魔法士ですから」

「魔法士……?」


 呆然と呟く私にアデーレはにこりと笑った。


「実はわたし魔法が使えるんです」


 初めて聞いた事実に呆気に取られていると、アデーレは続けて口を開いた。


「──反バレンスエラ勢力『サバト』」


 アデーレが唐突に漏らした言葉に私は目を見開く。


『『サバト』に黒の魔道士の存在を確認しました』


 かつてフレドリック様が言っていた言葉を思い出したからだ。

 まさか、そんな。


「さすがシャロン様。この言葉だけで理解されたんですね」


 彼女は満足げに微笑みながら続けた。


「そうです。わたしがサバトに入った黒の魔道士です」

「……どうして」

「サバトに入った理由ですか?」


 アデーレがわざとらしく肩をすくめながら言う。


「別にバレンスエラ家自体に興味はないんです。ただ、サバトに身を置いたほうが都合のいい情報を手に入れやすいから」

「……都合のいい情報?」

「ええ、もちろんシャロン様の情報ですよ。近くにいるより、外から見ていたほうが分かることも多いんですよ。……ああ、安心してください。シャロン様のご家族に手を出すつもりはありません」


 その声には穏やかさすらあったが、次の一言に全身の血が凍った。


「ただ、邪魔をする人間は消すつもりです」

「そんな……貴女は、私に何を望んでいるの……?」


 恐怖に震える声で問いかけると、アデーレは手を胸に当てて愛おしそうに微笑んだ。


「大したことは望みません。ただ、わたしはシャロン様とずっと一緒にいたいだけです」


 彼女は私の頬に手を添え、まるで永遠を誓うかのように囁いた。


「……だから、シャロン様。これからはわたしと二人きりで生きましょうね」


 その瞳の奥に正気がないことを悟り、私は喉の奥から悲鳴が漏れそうになるのを必死で堪えた。


「ちなみに、誰かが来てくれるなんて考えないほうがいいですよ。ここは人の訪れがない場所にあるので。でもわたしがお世話させていただくので心配しないでくださいね!」


 アデーレが言葉を続ける中、私は手首に繋がれた手錠の冷たさと痛みを感じていた。手首が擦れそこから血が滲んでいるような感触がある。

 絶望感に押しつぶされそうになりながらも、私は思わず心の中でルイス様の名前を呼んだ。


「ルイス様……」


 しかしあまりの恐怖に無意識のうちに口から漏れ出てしまったその名前に、アデーレの顔が一瞬で歪んだ。


「まだその名前を呼ぶんですね」


 彼女の瞳には明確な怒りと嫉妬が宿っていた。

 自分の失態を悟り顔が青くなったその時、不意に私の目の前に小さな光が舞った。


「え……?」


 それは、まるで意思を持つかのように揺れ動いている。目を凝らして見つめると、その光の正体に思い当たった。


「精霊……と、妖精?」


 私がそう呟くと、その光は正解だとでも言うようにさらに輝きを増した。頭の中に浮かんだのは、私の愛しい弟妹たちの顔だった。

 彼らが私を想い何かを伝えようとしているのだと感じた瞬間、目頭が熱くなった。


「私は……一人じゃない……」


 その言葉が自分の心を支える。

 私はこれまでずっと誰かに見守られて生きてきた。特別な力がなくても、無力だと感じても、そんな私を支えてくれる人がいた。そして今も彼らは私を助けようとしている。


 涙に濡れた私の顔を見たアデーレが、冷たい表情を浮かべた。


「邪魔者が来てしまったようですね」

「ッ!」


 彼女は鋭い舌打ちをしながら魔力をその身に纏い始めた。室内が歪むような感覚に襲われ、私は恐怖で震える。


「でもまあ逆に好都合です。いつかはやることになっていたでしょうし」


 その瞳には純粋な殺意が浮かんでいる。

 私は理解した。彼女は本気でここに来た人を殺す気なのだ。


「お願い、やめて!」


 必死に叫ぶ私に、アデーレは優しく笑いかけながら言う。


「だって邪魔者は殺さないと、シャロン様の心は私に向いてくれないでしょう?」


 私はただもう震えることしかできなかった。


 私たちがいる部屋に向かって誰かが走ってくる音がする。

 その音だけで誰が来たのか分かってしまう。


 来てほしくない。

 その気持ちに偽りはないのに、


「シャロン!」


 私の名前を呼ぶ声を聞いた途端に安堵する気持ちにもまた、偽りはないのだ。

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