シャロンと疎通
その姿をとらえた私の目は極限まで見開かれていく。
ドクンドクンと忙しなく動き始める心臓とは対照的に、時が止まったように私の全身は動かなかった。
「……ルイス様……」
無意識に彼の名前を呼んだ。
その私の声にルイス様は艶やかに微笑む。
「──シャロン」
しかし私の名前を呼ぶ声に感情は一切混じっていなかった。
恐怖が、名付けようもない恐怖が私を襲う。
「おいで」
ルイス様の手が差し伸べられる。
あの手をとったらどうなるのか、私には分からなかった。否、分かりたくなかった。
ルイス様はこちらへ来ようとはしない。
けれど確実に私を仕留めようと、狩猟を行うときになるような眼をしていた。
ドクンドクンと全身が心臓になったようだった。
一歩足を前にだしてしまえば、手を取ってしまえば、──すべての事実を受け入れなければならない。
脳裏に可憐な亜麻色の髪をした少女が浮かぶ。
あの果実のような唇が私に向かって絶望的な言葉を紡ぐのだ。
完全に固まってしまった私と一歩も動かないルイス様との間には何の風も吹いていなかった。
「……シャロン?」
「──!」
レヴェルトの訝しげこちらを伺う声が合図となり、私の足は動き出す。
逃げなきゃ。
ただそれだけが頭の中を支配した。
ルイス様に背を向け、校舎へと走っていく。
私の名前が呼ばれたような気がしたけれど、興奮状態の私には届くことはなかった。
逃げろ、ただその声だけに従って走る私の足音とそれを追う誰かの足音だけが校舎に響く。
今日が休日で良かったと頭の隅で誰かが呟いた。
こんなみっともなく顔をゆがませて走る姿なんて見られれば、バレンスエラ公爵家の名が落ちてしまう。
ただでさえ何もできない役立たずなのにとこれ以上迷惑をかけてはダメだという自制心が芽生える。
「ここに……!」
開いていた図書室のドアに手をかけ、一気に引き閉めようとした時だった。
「待って!!」
勢いよくドアが開いたかと思うと焦った姿のルイス様が現れた。
しかしそれに驚く間もなく、ドアとルイス様の勢いに私はバランスを崩し、体が倒れていく。
「──シャロン!!」
ルイス様の悲鳴にも似た叫びが図書室に響き渡った。
反射的に目をつぶり、来る衝撃と痛みを覚悟したといのになかなかそれはやってこなかった。
床の冷たさとは対照的に、私を包む何かからじんわりと温もりが伝わってきて冷や汗が垂れ始める。
おそるおそる目開けると、至近距離には女神も驚くほどの美貌があった。
もっともその美貌は私を凝視していて私から離れようとはしない。
「ルイス、様……その、ありがとうございました。なので離していただいても……ルイス様?……キャッ!」
ルイス様は私を強く抱き込んだかと思うと、次の瞬間には私を床に押し倒した。
「……ねえ」
したこともないような体勢と、ルイス様に押し倒されているという事実に気づいた瞬間、羞恥が襲う。真っ赤になった顔を隠したかったのに、腕をつかまれて床に縫いつけられていおり、それは叶わない。
ルイス様の顔は丁度逆光になっており、今どんな表情をしているのか分からなかった。
「どうしたら、シャロンは僕のものになる?」
信じられない言葉が聞こえた気がした。
「……もう、いいよな」
ボソリと呟かれた言葉の意味は理解できないまま、ルイス様は私に向かって、笑った、気がした。
「好きだよ、シャンローゼ。僕は君がいないと生きていけないんだ」
光が、動いた。
その光は彼の顔を照らした。
笑顔なのに、泣いている顔を。
一筋の涙がルイス様の頬を伝い、ポタリと私の頰に落ちた。
その涙も、私の涙と共に床へと吸い込まれていった。
疑いようもない、真っ直ぐな言葉が私の胸を包んだ。
ルイス様が私の名前を呼んだ。その事実でだけで充分だった。
「私もずっとお慕いしておりました、ルディウス様」
ずっとずっと、ずっと、抱き続けてきた想いが今ようやく解き放たれた。
それは想像していた以上に、苦しくて、幸せだった。
ルイス様は私の腕から手を離すと、ゆっくりと私を起こした。
そしてそのまま今度も先ほどと同じように力強く、けれど優しく抱きしめた。
何かが満たされたようだった。
それはいとも簡単に私の陰を取り払い、心を軽くした。
私たちは何も喋らなかった。ただお互いがお互い、心臓の音を聞いて、相手が生きていることを実感した。
そして目を合わせて、笑った。
何物にも代えがたいこの空気に涙が乾くまで身を任せてしばらく時が経った時だった。
「そろそろいいですか?」
男性の声が割って入って来た。
それは勿論、私の弟の声で。
「いきなり二人ともいなくなるんだから焦りましたよ」
「すまない、レヴェルト。人払いをしてくれたようだな」
「……気づいていたんですか」
「これでも王族だからね」
僅かに驚いた様子を見せるレヴェルトを前に、ルイス様は立ち上がると私も立ち上がらせた。
「まあとりあえずそれはケリがついたようで良かったです」
私の腰に回ったルイス様の手を見て、レヴェルトは目を細めながらそう言った。
「さて、場所はどうします?」
「サロンに移動しようか」
いつの間にかレヴェルトとルイス様は親密な関係になっていた。
私が休んでいた間か、それともレヴェルトが王宮に宮廷魔道士として通うようになってからか。
「ねえシャロン」
考えに意識を飛ばしていると、ルイス様は少し不機嫌そうに私を引き寄せた。隙間は一つも作らないとでも言いたげに。
「僕たちは話し合うことがたくさんありそうだね」
「……ですね」
そう言って再びルイス様は私を見て微笑んだ。
顔が美しいって罪だな、なんて場違いなことを考えたのは失神するのを防ぐためである。