シャロンと動揺
想定外のことに、ただ私は固まったままでいた。
そんな私にお構いなしに、ルイス様は悠然と歩み寄ってくる。
周囲の異様な浮かれ方は、レーナの登場によるものだけではないことを今になって理解した。
「あらお兄様、今来られたんですの?(遅い)」
「少し話し込んでしまってね(お前が逃げるから、倍の時間がかかった)」
「ふふ、どんなお話をしたのかまた聞かせて頂きたいですわ(ご苦労様でーす)」
レーナとルイス様が会話をしている様子を呆然と眺める。ルイス様はレーナの言葉に一瞬顔を顰めた後、一度瞬きした後には、優しい笑みを携えこちらを見ていた。
ふわりと心臓が浮く。何だか急に心が軽くなったようだ。
「バレンスエラ嬢、この度は成人誠におめでとうございます」
高鳴る胸の中、彼が紡ぐ言葉に違和感を感じ、つい辺り触りの無い挨拶を返す。
今まではただのシャロンとルイスであって、王太子と公爵令嬢として会うのはこれが初めてであったのだ。
ブロンドの髪と深い青の瞳は変わることはないけれど、王族の正装を着こなした彼はどこか別人のようで。
──触れたいと、思った。
その唐突な衝動に戸惑うまでもなく、手を少し浮かした。
「あ、シャロン!こちらが私の兄よ」
レーナの声と共に理性が戻ってくると、ハッとしてすぐさま手を元の状態に戻す。
会うのは初めてだろうと間を取り持ってくれるレーナに、令嬢の仮面を貼り付けて微笑んだ。
ルイス様は笑いたいような情けないような一種妙な顔つきをしたかと思えば、すぐに外向きの顔になり、メシュヴィツ様へ身体を向けた。
「君がメシュヴィツ候の、フレドリック・メシュヴィツだね。君が優秀だという評判をよく耳にするよ」
「光栄にございます、殿下。ご挨拶が遅れたこと、お許しください。私はメシュヴィツ侯爵が子息、フレドリック……」
「ああ、いやいいよ、そんな堅苦しいのは。フレドリック、君も高等部に進学するだろう?私も行くからぜひ仲良くしてもらいたいと思ってるんだ」
メシュヴィツ様と話すルイス様を見て、彼は私のために来たのではなく、人脈を広げるために来たのだということに気付く。
自惚れなくて良かったという安心感とともに少し残念なような、そんな複雑な思いに駆られた。
ねえシャロン、とレーナに話しかけられる。油断していた私は肩を揺らした。
そろそろファーストダンス、始まるんじゃないの?と耳打ちされ、ハッと顔を横に向ければ、柔和な美貌がそこある。
「お待たせしてごめんなさい、お兄様」
「大丈夫だよ。両殿下、フレドリック殿、妹を少しお借りします」
風になびいたようなお辞儀をした後、スウィフトお兄様は私を連れ、お父様と同じようにホールの中心へエスコートした。
音楽が鳴り始めると、私の体を気遣うようにゆっくり動き出す。
「お兄様はお二人と面識があったんですね」
「ああ、両殿下の成人パーティでね。それより、シャロンはお二人と随分懇意にしてるようだね」
レーナはともかく、ルイス様のことはなぜ分かるのかと目を丸くする。
シャロンのことならすぐ分かるよ、と音楽にのりながら事も何気に言うので、そんなに分かりやすいのかと気を落とす。
「違うよ、僕がシャロンを愛しているからさ」
兄の愛情が湯のように自分を囲むのを感じた。
綺麗な美貌がさらに輝いて見える。直球の言葉に照れた私はほんのりと自分の頰が染まるのが分かった。
「……兄にまで嫉妬するのは違うと思うんだよね」
「え?」
ぼそりと呟かれたそれは音楽に掻き消され、聞き返したがへらりと何でもないとかわされる。その代わりとでも言う風にお兄様はダンスの流れに合わせて私にグッと密着し、耳元で囁いた。
「君の王子様は酷くご執心なようだ」
その言葉の意味は理解できなかったが、唯一王子という単語を耳に拾えたことで、視線は自然と彼のいる方へ移された。
そこには、こちらを見るルイス様がいて、その目は冷たく、こちらを睨んでいるように見える。
出会ってから初めてみる表情に、身に、目に見えない強張りの波が走った。
そんな私の変化を感じ取ったお兄様は優しく笑う。
「大丈夫だよ、あれは僕に向けられたものだ」
「……では尚更、」
「可愛い嫉妬さ。許してやってくれ」
許すも何も、と困惑した瞳を向けるが、楽しげに目を細めるだけでこれ以上この話を続ける気は無いようだ。
いまだに感じる強い視線に緊張感が増すとはいえ、スウィフトお兄様のリードが上手いおかけでヘマをすることはなかった。
踊り終え歓声を浴びた後、ゆっくりとホール中心から離れる。その途端に大勢の方に囲まれ、周囲からの圧迫感に息を詰めた。
肩が強張っているのに気づいたお兄様が、周囲に断りを入れ、ホールの外へ行こうと促す。
グルリと周りを見渡すと、レーナやメシュヴィツ様も大勢の人に囲まれていた。そこにルイス様の姿がなく、気になった。
バルコニーへ行こうとすると、お兄様は飲み物を持ってくると傍を離れた。
会場からこの場所は視界に入るので大丈夫だと判断したのだろう。
ルイス様のことを頭の中で整理しようと一人でバルコニーに出ると、足元から悪寒が駆け上ってきた。
なんとも知れない恐怖を感じた私は、何かに引っ張られるままに下を見た。
あ、と漏れ出た言葉とともに時が、止まった。
バルコニー下の中庭で仲睦まじく微笑み合う美しい女性と―—ルイス様。
女性の口紅の一点の赤が鮮やかに暗闇に浮かび上がる。深い青が、優しく細められた。
瞬間、絶望で身体が冷たくなっていくのを感じた。
ここから逃げなければと思うのに、自分自身の重みが枷のように歩みに抗う。
現実を目の当たりにした私に強烈な孤独と恐怖がのしかかる。
息苦しいほど膝に胸を押し当てた。
「……何も、こんな時に」
返ってきたお兄様が顔を真っ青にするも、素早く近寄って私を抱き締める。
切羽詰まったもう上がろうとの声と共に優しく背中をさする温かな手が、ようやく私に息をすることを思い出させた。
私は失念していた。
悪夢はまだ始まったばかりであることを。
高等部において、予知通り私は何度もあの二人が共にいる光景を目にすることになる。