9.音楽室で出会った
昨日と同じように、涼、千尋、葛西は三人で昼食を取った。千尋が一人で食べようとしているところに、当たり前のように涼と葛西は集まった。千尋は意外そうに目を丸くしたが、癖になっている口元だけの笑みを浮かべ、二人を受け入れた。
ほとんど会話はなかったが、気まずい雰囲気ではなかった。いつも明る過ぎるくらいに振舞っている葛西も、特にはしゃぐこともなく静かに会話をしている。どちらが本当の葛西なのか千尋にはわからなかったが、涼は平然としていることより気に留めなかった。流れる空気は不快なものではない。三人はそう感じていた。
「黒瀬が入っても、変わらないな」
葛西の漏らした言葉に、涼は格好良いと言われる顔ににっこりと笑みを浮かべ、千尋は動きを止めた。しかしすぐに箸を持ち直し、口に運んだ。葛西は何事もなかったようにパンに齧り付き、涼は野菜ジュースを飲んだ。
このとき、千尋が微かに目を細めたことに、二人は気付かなかった。
放課後、涼はいつものように早く帰る葛西に別れを告げ、帰る準備を始めた。机の中には重い辞書だけを残し、その他の教科書類を鞄に詰める。辞書は家にもあるため、持ち帰る必要はなかった。涼は本が詰まって重さが増した鞄を肩に掛け、教室を見回した。
教室にはまだほどんどの生徒が残っており、いなくなった生徒の方が少ないほどだった。そのいなくなった生徒の中に千尋が入っていることに、涼は気付いた。千尋の席に鞄はなく、隙間から見える机の中には何もなかった。
涼は千尋が先に帰ってしまったことを少し残念に思ったが、帰ろうと靴箱に向かって歩き出した。教室を出たところで、朝に見た葛西の絵を思い出し、涼は美術室に寄ってから帰ろうと思い直した。葛西が今、美術の時間に書いている絵が気になる。涼は美術室、書道室、音楽室がある棟へと歩いて行った。
一階には書道室があり、目的の美術室は二階にある。書道部が活動しているはずだったが、物音はなく、しんと静まった一階の廊下を過ぎ、階段を昇って行った。段数が多いわけではないため、すぐに二階に着いた。踊り場で一息吐いた涼は、美術室へと向かおうとした。その時、涼の耳にピアノの音が入った。微かな旋律だが、涼にははっきりと捉えられる。音楽室を使う部活が休みの日だったと思い出した涼は、そのピアノを弾いている人物に興味を持った。足は自然と階段を昇り、あっという間に三階へと着いていた。
より一層明瞭になった音は優しく、そして上手かった。曲に技術がついていっている。かなり高度な技術を必要とする曲が終わり、少し間を空けて、また演奏は始まった。涼は音を立てないように、教室の後ろのドアを開けた。
ピアノを弾いている人物はそれに気付かず、音が途切れることはなかった。ピアノの前に座る人物を見たとき、涼は驚いたが、何故か納得した。
そこにいたのは千尋だった。
譜面はなく、全部覚えている様子の千尋は視線を指先に向けていた。そのため、涼には気付かず、切ない表情を浮かべて弾き続けていた。
涼は大きく深呼吸をし、口を開けた。
突然の声に、一瞬音は切れたが、何事もなかったかのように続いた。千尋は指を動かしながら顔を上げて、涼の姿を認めた。涼は左手を胸に当て、口を大きく開けて歌っていた。その口から出る歌声は透明なソプラノで、地声からは想像できないものだった。地声も耳に良く通るが、歌声は比較できないほど耳を抜ける。教室の一番後ろで歌っているのにも係わらず、かなりの声量で響いた。千尋は涼が曲の初めから歌っていることに気付き、その通りに弾いていった。
千尋が奏でるピアノと涼の紡ぎ出す歌声は、互いに主張しながらも溶け合っていた。聴衆がいないことより変な力が入らず、二人は伸び伸びと自分の力を出した。
千尋の指が最後の音をなぞったとき、涼は胸に置いていた左手を下ろした。
「…黒瀬って、ピアノ上手いんだな」
「泉水くんこそ、歌声が透明だよね。アヴェ・マリアをここまで歌いこなす人、それも男の人なんて知らないよ。歌が上手いのに、なんで音楽を選ばなかったの」
「歌は趣味だから、歌いたいときに歌う。中学まではテストのときに歌っていたけど」
二人は互いに褒め、技量を認めていた。千尋は意識的に言わなかったが、事前に涼の歌声を知っていた。だからこそ、千尋は涼が選択科目で音楽を選ばない理由がわからなかった。趣味、と言い切った涼はさっぱりとしていて、千尋はそんな涼に何も言うことはなかった。千尋も音楽を選択しているが、ピアノは弾かない。人前では簡単に見せないのは同じだった。
涼はゆっくりとピアノへと向かい、千尋の横に立った。千尋は涼から視線を逸らすことなく動作を見ていた。無駄な動きがない涼は見ていて気持ち良いものだった。千尋は嗜みで歩き方などの所作は身に付けていたが、それに劣ることはない。
涼は千尋に嬉しそうに笑った。
「この棟に来て良かった。黒瀬のピアノが聴けたし。今日はたまたま?」
「この教室が空いている水曜日にいつも来てるけど」
「また来ても良いか?」
涼の許可を求める問いに、千尋は考えることなく頷いた。断る理由はなかった。涼との演奏を楽しんでいたのは確かだった。涼も同じ思いだったことがわかり、千尋は目を細めて笑った。その千尋の笑顔と承諾に、涼は表情を緩めた。
涼は本来の目的である葛西の絵のことはすっかり忘れてしまい、千尋の演奏を聴いていた。その中で一曲だけ歌い、千尋がピアノの蓋を閉めて終了した。
また昨日を同じように、涼と千尋は駅まで並んで歩いて帰った。