3.昼食に誘って
「変わってるよね、泉水くんも」
千尋は軽く溜息を吐いた。その呆れた様子に、涼は意地悪そうに笑った。向かい合うように座った千尋と涼。その間には弁当とパンがあった。千尋は弁当を突付きながら、前に座る涼と、横に座る葛西を見た。葛西は二人の様子を見ながら、自分のパンを取って開けた。
千尋がいつものように一人で弁当を食べようとしていたところに、涼は現れた。そして、椅子を引き寄せて座った。いつも涼と食べていた葛西は仕方ないというように涼に付き合い、椅子を引き寄せて二人の間に座った。
「いつの間に仲良くなったんだ?」
葛西の尤もな疑問に千尋は口を閉ざし、涼は奇妙な笑みを浮かべた。二人のその反応に、葛西は口を動かしながら眉を寄せた。
涼は机の上のパンを取り、それを弄りながら言った。
「仲良くなったというより、俺が黒瀬に興味を持っただけ。結構面白い人物だってわかってきたところ」
涼の言葉に葛西は生返事を返し、千尋は顔を顰めた。面白い、と評されたことに対して千尋が何か言いたいことが涼にはわかった。しかし、口にものが残っていたために言えなかった。それを嚥下してから、千尋は固い声で言った。
「…面白いって何」
「そのままの意味。意外性があるからな」
「泉水くんも同じじゃないか」
千尋は不満そうに涼を睨んだ。その鋭い視線を涼は飄々とかわし、葛西に同意を求めるように視線を送った。葛西は二人の空気についていけず、なんの反応も返すことなく食べ続けた。
千尋はそれに対して何も言わず、黙々とご飯を口に運んだ。正しい持ち方で動く箸の動きは綺麗なもので、涼は感心して見ていた。涼は和食の作法は知識としては持っており、それを実践するとなるとかなり大変だということを知っていた。実際、まだ完璧には出来ない。そのため、人前で何かを食べるときはなるべく箸を使わないものを食べる。人の目を気にしているといえばそうだが、それよりも涼は自分が不快に思うことはやりたくなかった。発音にしても、箸の動きにしても、中途半端にはしたくない。
涼の視線に気付いた千尋は、それが箸に向けられていることを疑問に思った。見ていて楽しいものではない。
「泉水くん? 箸が気になる?」
「ああ、ごめん。綺麗に持つんだな、と思って。動かし方も手本のようだし」
素直に褒めた涼はまだ千尋の箸を見ており、千尋は言葉に詰まった。そんなことを言われたことはなかった。所作一つ一つは幼い頃に教えられたもので、自然になっていた。そしてそれを気に留める者もおらず、千尋は当たり前のように振舞っていた。
しかし、涼は違っていた。一つ一つの動きに目を留め、良いところがあれば賞賛する。そんな涼の言葉が千尋には新鮮だった。
「…ありがと」
照れたように言った千尋に、涼は苦笑して答えた。嫌みなのはそう見えるだけであり、千尋自身は捻くれているわけではない。それが涼には律儀に挨拶を返すことから何となくわかっていた。
暫くの間傍観者だった葛西は、いつもと違う千尋と涼に何気なく聞いた。
「結構気が合ってる?」
「どうかな。共通点は見つかってきたけど」
涼は数時間前のことを思い出して言った。英語に関しては共通点が二つある。発音とマザーグース。短時間で二つもあったのだから、もっとあるかもしれない、と涼は心が弾んだ。葛西とはどちらかといえば共通点はあまりない方で、だからこそ一緒にいて楽しいことがあった。違う考えを持っているから、話が進むこともある。普通はある意見の衝突も、涼が葛西に対して持論を言わないことから少なかった。涼がこれだけは譲らない、というものだけは葛西が折れ、それ以外は涼が容認していた。
涼は容姿が良く性格も問題はないため、クラスでは人気がある方だったが、一緒にいるのは葛西が多かった。付き合う人数が多い程、面倒なことになる機会が増える。煩わしいことは避けたかった。千尋のように徹底して人付き合いをなくす、というのも一理あったが、そこまで非情にはなれなかった。一人が嫌というわけではないが、一人でいて楽しいこともない。
「そういえば、黒瀬が一人でいる理由って何?」
涼の素朴な疑問に、千尋の動きが止まった。葛西は咽て苦しそうに息をした。葛西の背中を擦ってやりながら、涼は千尋にわからない、と顔に表した。特に意味はなく、純粋な疑問だということがわかる表情だった。
千尋は、涼に向かって眉を寄せて笑った。
「誰も寄ってこないだけだよ。こんな嫌みな優等生に近付きたくないからね」
自分で優等生、と言った千尋は自嘲気味に苦笑した。自覚して嫌みのように振舞っている。そう感じた涼は、何か意図があることを察したが、納得したように頷いただけだった。無理に踏み込もうとはしない。そこに踏み込んでいいところまで、自分は達していないことはわかっていた。
葛西は涼の爆弾発言に動揺したが、千尋の気にしていない様子にほっと息を吐いた。悪気がない涼の言葉は、時に核心を突く。それを知っている者は対処のしようがあるが、知らない者は勝手に傷付く。葛西はそんな涼が心配だった。
「泉水…お前、それはやめろって言っただろ…」
「それ?」
葛西の言葉に、千尋が聞き返した。葛西は初めて千尋に声を掛けられ、一瞬動きを止めたが、何もなかったかのように困った顔で笑った。
「爆弾発言。妙に核心突くからさ、一拍置けって言ってんだよ。黒瀬は問題なかったみたいだけど、勝手に傷付いて責められることもあるんだ。正しいのは泉水なんだけど」
「…泉水くんらしいのかな」
妙に納得して苦笑した千尋に、葛西はそうだろ、と頷き返した。涼は葛西の背から手を退け、無言でパンを口に運んだ。貶されてはいないが、褒められてはいない。何度忠告されても、口に出てしまうものは仕方なかった。
千尋は含み笑いをしながらも食べ続け、空になった容器を薄い布で包んだ。箸を仕舞おうとしたところを涼はじっと見ていた。箸先は三センチも汚れてはおらず、それだけで千尋の技量が知れた。和食が好きだからこそ、涼は正しい食べ方で食べたかった。それは決して無理なことではない。葛西は涼が何か考えこんでいるのを横目に、パンの袋を近くにあったゴミ箱に捨てて立ち上がった。涼は椅子を引く音に気付き、少し残っていた欠片を口に入れた。そして空の袋を細く折って結んだ。小さくなったゴミは放物線を描いてゴミ箱に入り、葛西と顔を合わせて笑った。
その二人の様子を横で見ていた千尋は、微妙な笑みを口に浮かべた。
「黒瀬?」
「なんでもないよ。次は選択科目だけど、教室移動は間に合うの?」
千尋の笑みに首を傾げた涼に、千尋は首を横に振って否定した。そして、机から教科書を取り出して移動の準備を始めた。涼と葛西は自分の席に戻り、各々必要なものを手に取って、決まっていたかのように千尋の元へと戻った。
千尋はそれに少し違和感を覚えたが、気にしていない涼と葛西を見て考えるのをやめた。
「葛西くんは美術で、泉水くんは…書道?」
授業で使う道具は教室にあり、持っていくものは教科書と筆記用具くらいだった。そして、教科書で受けている科目がわかる。千尋の手には音楽の教科書があり、葛西には美術、涼には書道のものがあった。三種類の授業は見事に重なってはいなかった。
「そう。美術って才能の問題だから。書道は得意なんでね」
教科書をペラペラと捲る涼に、葛西はそうそう、と可笑しそうに笑った。
葛西の反応が気にかかった千尋は教科書を脇に抱え、顔を顰めて二人の様子を見ていた。葛西は壁に掛けられた時計をちらりと見て時刻を確認し、足をドアに向けて歩き出した。
「美術がきっかけだったしな。無いものねだりってヤツ?」
「…そうだよ。才能って本当にある」
諦めたように溜息を吐いた涼は、葛西の後について歩いた。千尋も少し遅れて歩き出し、音楽室へと向かった。
「…なんで音楽じゃないの」
千尋の呟きは、廊下に響く生徒の声に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。