2.教室で声をかけた
涼にとって、英語の授業は退屈だった。生徒が話す明らかな日本語発音の英語は不協和音のように耳に響き、涼はいらいらしながらペンを回して気を紛らわしていた。教師は、机の間を縫うようにして歩いている。教師の発音はまだマシな方で、読むなら教師が読めばいいのに、といつも思う。音に敏感な涼は、自分自身が不快な音を発しないように、英語の発音もネイティブに近いものを習得していた。そういった努力は惜しまない。
生徒の発表が終わり、教師は教壇に立った。
「二人組みで三十二ページの会話をすること。誰と組んでもいい」
それを合図に、生徒は席を立ち、親しい友人の元へと移動していった。ある程度組み合わせは決まっていた。数人のグループで漏れた者は他の余った人と組み、自然と組は出来上がっていた。その中で、千尋はいつも一人だった。クラスの人数は奇数で、自然と教師と組むことが多かった。欠席者がいれば、余った者と成り行きで組むことになる。
いつものように一人残っていた千尋は席から立つことなく、教師が来るのを待っていた。
「黒瀬、一緒に組まないか?」
涼が掛けた声に千尋は振り返り、怪訝な顔をした。そんな顔をされる理由がわかり、涼は思わず苦笑いを返した。
「何で僕なの? いつも組んでいる葛西くんは?」
「別にいつも組んでいるからって、今日もそうする必要なんてないだろう? で、どうする?」
涼の誘いに、千尋は口の端を上げて頷いた。嫌みな感じがする仕種だが、反対に少し打ち解けた感じもする。それを確かめて、涼は千尋の隣の席に座った。
余った葛西は教師に誘われ、違う親しくしているグループへと逃げていった。まだ誰が余るかわからない。
涼はそれを見届ける前に、千尋へと向き直った。千尋はじっと涼を見ていた。
「何?」
「いや、始めるよ。僕からでいいよね」
疑問形ではない言葉に、涼は頷いた。それを確認してから、千尋は教科書を読み始めた。流れるような英語は涼の嫌いなものではなく、むしろ好きなものだった。少し高く感じる声は耳に馴染む。千尋も涼も本読みで当てられたことはなく、互いに発音は知らなかった。
涼は千尋の声に聞き惚れていた。
「泉水くん?」
「ああ、ごめん。えっと…」
涼は自分が読む場所を確かめ、千尋に遅れないように読んだ。千尋が意外そうに顔を見ているのを涼は気付いていたが、気にせずに読んでいった。千尋は遅れることなく続きを読み、会話は進んだ。自然に流れる教科書の会話は数分で終わり、二人はすることがなくなった。他の生徒はまだ半分もいっていないところで、どれだけ早く終わったかがわかる。周りを見回していた涼は、ふと千尋が何か口ずさんでいるのに気が付いた。リズミカルに口から漏れている声。
「マザーグース?」
「…そう。よくわかったね」
驚いたように言った千尋に、涼は苦笑いを返した。『マザーグース』という名前は聞いたことがある人は多いが、実際に内容を知っている者は少ない。千尋が口ずさんでいたものは有名なものではなく、どちらかと言えばあまり知られていないものだった。
「好きなんだ。意味は無茶苦茶だけど、リズムがいいから。黒瀬は何で知っているんだ?」
「…僕も好きだから。ハンプティ・ダンプティがきっかけで。へえ、泉水くんも好きなんだ…」
小さく呟いた千尋の声は涼に届いていたが、涼がそれに反応する前に教師の声が聞こえた。涼は立ち上がり、自分の席へと戻っていった。途中で葛西とすれ違い、文句を言われたが、涼は不思議な笑みを返しただけだった。その笑みの意味がわからず、葛西は首を傾げながらも自分の席へと向かった。
涼は、知らない内にマザーグースを口ずさんでいた。ふとそれに気付いた時、涼は口元を緩めた。