10.黒瀬千尋と姉と
「お帰り、姉さん。早速で悪いんだけど、またお願いできるかな」
千尋はリビングで寛ぐ姉、唯に笑顔で言った。唯は鞄から使われた白衣を取り出しながら、苦く笑った。研究室から帰って来て早々に言われたお願いだったが、弟の笑顔には弱い。唯は白衣を洗濯機に入れ、自分の部屋に向かった。その後に、千尋は続いた。
「今度はどうしたいの?」
パソコンの電源を入れた唯は椅子に座り、前に立つ千尋に聞いた。千尋は一枚の紙を差し出し、それを唯は受け取った。そこに書かれた言葉を理解したとき、唯の表情は曇った。
「…本当にコレでいいの? コレだと…」
「コレでお願い」
千尋は唯の言葉を遮った。有無を言わせない千尋の様子に唯は溜息を吐き、キーボードを叩いて編集し始めた。
千尋は画面を唯の肩越しに見て、満足した笑みを浮かべた。
「本気なのね? 恋愛としての好きなのね?」
「…今は。前は純粋にただ一つを望んでいたのに、それが満たされると次が欲しくなる。今はもう、単純な好きでは済まなくなってる」
千尋の真剣な声は、唯に届いた。弟だからこそ、望んでいることをしてあげたいという気持ちがある。しかし、今やっていることは、相手を傷つける結果になることはわかりきっていた。
唯は作業完了を知らせる画面に顔を顰め、顔を元に戻してから千尋を振り返った。
「この手段が悪いことだとわかっていても選ぶのね…。私だけはあなたを責めないから。私も関わっているからというのもあるけど、相手についても何も言わない」
「…ありがとう。姉さん、好きだよ。この人の次に」
この人、と紙を指した千尋に、唯は困ったように笑った。この結果はわかっていた。相手だけではなく、千尋も傷付く。それは千尋にもわかっていた。それでも、それしか方法はなかった。止められるなら、最初から選ばなかった。
唯が差し出したモノを、千尋は迷うことなく受け取った。