五話
鼻先を慣れない匂いが刺激して、私は覚醒した。
重い瞼を開けると見慣れない景色と明るい日差しに目が眩んだ。ここは何処だろうと考えていると横から声が聞こえた。
「おはよう、佐藤さん」
「……山田くん?」
お風呂上がりと見られる山田くんは、上半身をタオルで拭いていた。何でここに山田くんが、そもそもここは何処と考えだが答えはすぐに出た。
昨日、家に帰れなかった私は山田くんと一緒にホテルに止まったのだった。そして、私の家の事情などを話したりして……まあ、うん。そういうことをした。
「……おはようございます」
「飲み物でも飲む?」
「……あの、ジュースを飲みたいです」
「言うと思った。用意してるよ」
「……どうも」
甘い冷たいジュースに口を付けた。やはり、こんな甘いものを飲むと馬鹿になりそうだ。
ふぅっと息をついてから山田くんは声を発した。
「何か心配なことがあるの?顔色悪い」
「……学校休んでしまいました。私だけで良かったのに山田くんまで巻き込んでしまって申し訳ないです」
「ふふっ。そんなこと気にしないよ。側に佐藤さんがいてくれるだけで嬉しいから」
「……」
「だからそんな顔しないでよ」
ちゅっと音をたてて山田くんは私の頬に口づけをした。柔らかくて少し暖かい山田くんの唇は、穏やかな笑みを含んでいる。
「ねえ、今日は学校とか家の事とか全て忘れて俺と一緒に遊ぼうか!」
「……お願いします」
キラキラとした目を柔らかく細めて山田くんは笑った。山田くんってそんな優しい表情出来るんだ、と少し驚いてしまった。
☆☆
「わぁ……」
「初めて来た……よね?」
大きな目を更に大きくして驚いている佐藤さん。
俺が佐藤さんは来たことないだろうと思って連れてきたのはゲームセンターだった。そして佐藤さんは予想通り驚いてくれる。
それが凄く嬉しかった。まるで悪戯が成功した子供の気分だ。
「……ここは、どこですか?」
「ゲームセンターっていう娯楽センターみたいな所だよ」
「……げぇむせんたー」
佐藤さんはキョロキョロと辺りを見回すが、どこか怯えてる様子で両手を胸の前でぎゅっと固めていた。しかし不意に恐る恐る手を伸ばした。
それは小さなUFOキャッチャーだった。色とりどりのプラスチックで作られた宝石の様なものだった。
佐藤さんはそれを見て、いつもはきつく閉じられた唇を薄く開けている。きっと欲しいんだろうと思って聞いてみた。
「やってみる?」
「……は、はい」
俺が話しかけるとびくっと指を震わせてから、嬉しそうな目で俺を見た。けど、触ったら逃げ出されそうなそんな雰囲気に少し悲しくなった。
「……お金、入れるんですか?」
「入れないと動かないからね」
「……初めて知りました」
話すのが多くなって分かってきたが佐藤さんは会話をするのを躊躇っているみたいだ。俺の言葉の後暫し黙りこんでから自分の言葉を出す。
それとも自分の言葉が相手にどんな影響を与えるのか分からなくて怖いのだろうか。しかし、その気持ち理解出来なくもない。
「……あっ」
「ん?ありり」
ぼんやりと考え事をしていたホンの一瞬で俺はいくつかの宝石を取っていたみたいで、佐藤さんが声をあげた事で気がついた。
取り出し口に転がって落ちてきた宝石を取り出すと、佐藤さんは怯えた目でそれを見た。
佐藤さんにとっては全てが初めてだから全てが怖いのだろう。小さい頃から全てを知ってしまった俺とは違うところだ。
「はい、あげる」
「……でも、山田くんのお金です」
「男がそんな小さいこと気にしないって。それに、佐藤さんのために取ったんだから貰ってくれないと困る」
「……それなら、嬉しいです」
笑うことはしないけど、手に乗った小さな宝石を透かしたり転がしたりと喜んでいるのが分かった。小さな子供の様なその姿は、とても愛らしかった。
「次の場所行こっか」
「……はい」
佐藤さんの空いている方の手を掴んで歩き始めた。佐藤さんはまだ俺が取った宝石を透かしては嬉しそうな声をあげた。
「……ふわふわ」
「ふわふわか。佐藤さんの表現は面白いね。これ、何か知ってる」
「……?」
佐藤さんは首を横に振った。
手に握りしめているのは皆も知っている、ハンバーガーだった。佐藤さんはハンバーガーを一口食べてふわふわと言っていたのだ。
「ハンバーガーだよ。で、この飲み物がチョコシェイク」
「……しぇいく。冷たくて甘くて美味しくて病みつきになりそうです。きっと、これを作った人は悪魔ですね」
「悪魔?」
「……こんな甘い飲み物飲んでいたら馬鹿になりますよね。そこを考えて悪魔が作ったのだと思います」
「馬鹿にならないよ。それは嘘だ」
「……でも、お父様がぃ」
「しー。家族の事は話さないって言ったよね。今日位は解放されようよ」
言いかけた佐藤さんの唇を人差し指で制止。すると、佐藤さんは自分の発言に気がついて目を伏せた。
「……そうでした。すいません」
「謝らなくって良いよ。ね、俺の飲み物も美味しいから飲んでみない?」
「……甘い、ですか?」
「んー、ちょっとだけね。飲んだら分かると思うよ」
「……では、失礼します」
俺の飲み物を取ると少し会釈をしてから(飲み物に対して本気でするのだから可愛いと思う)口を付けた。
あー、間接きっすだ。とかガキくさい事を考えて喜んでいたが、佐藤さんにはそんな概念はないんだろう。
「……こぉひぃですね。苦いです」
「大正解。コーヒーは苦手だった?」
「……特に嫌いなものはないので飲めと言われれば飲めます」
「正直に言うと?」
「……好きではないです」
「遠回しだね。佐藤さんが苦いものが好きじゃないってこと、覚えたよ。次からは甘いものを用意する」
「……こぉひぃはお父様が頭が良くなる飲み物だって言ってよく飲んでいたのです。そして私にも飲むことを強要したのですが……それ以来好きではないです」
「そんなことがあったんだ」
「……すいません。私、家族のことは考えないって思っていたはずなのに」
「良いよ。やっぱり俺達は家族の事から離れられないのかもしれない。それに、佐藤さんのことは知りたいから」
「……そうですね。もう、逃れられないと思います」
佐藤さんは小さな声で呟いた。
店内は五月蝿くて騒がしいのにここだけ雰囲気は重く、苦しいものに変わっていた。
「よし!景気づけに走るか!」
「……えっと、食事したばかりですよね……えっ」
佐藤さんの話を聞こうともしないで佐藤さんの腕をとって走った。あまり運動が得意ではないと思われる佐藤さんのためにゆっくり走ったのだが序盤の方でぜぇぜぇと息を荒くさせた。
更にゆっくり走って(ほぼ速歩き状態……だが佐藤さんはまだ疲れている様子を見せた)、目的地についた。
「……こ、で……か」
恐らくどこですか?と聞きたいんだと思うけど、息が切れ切れで不思議な日本語だった。可愛いな、佐藤さん。
「ここはね。俺のお気に入りの場所」
「……凄いですね。街が見渡せます」
「そう。ここはちょっとした土手になってるからね。この街が一望出来るんだ」
「……学校があんなに小さく」
「ここから見たらいつも大きかったものが小さく見える。父の玩具となった日はここを見て自分を奮い立たせてきた、大事な場所だ」
「……ここにはそんな思い入れが」
ちらっと佐藤さんを見ると、佐藤さんは苦しそうに眉をしかめていた。俺のことなのに自分のことの様に痛みを感じてくれている。
堪らなく嬉しくて佐藤さんに手を伸ばそうとした時──
「子供のお遊びはそこまでだ」
響き渡る低い男性の声。まさか、と隣を見ると佐藤さんは白い肌を真っ青にさせて唇を震わせて言った。
「……お父様」
「お遊びじゃない。佐藤さんは返さない」
ぎゅっと佐藤さんの手を握ると佐藤さんは悲しそうな目で首を振った。口がぱくぱくと動いて『怖い』と告げた。
「見ろ。娘は私の元に戻るのを望んでいる。離しなさい」
「嫌だ。離さない。だって佐藤さんは、俺の光だから……!佐藤さんなら俺のことを理解してくれる!怖がらないでくれるんだ!」
俺の秘密を話せたのも、話したいと思ったのも佐藤さんだけだった。もう二度と佐藤さんみたいな人は現れない。
もう、手放せない運命共同体。お互い裏がある同士で巡り逢った運命の相手なのだ。
きっと佐藤さんだって俺と同じことを思ってくれている。佐藤さんの全てを受け入れることが出来るのは俺くらいだってことも分かってるはずだ。
しかし、佐藤さんの父はにやりと口角を上げた。
「それはお前の自己満足だ。娘はそんなことを思っていない、な?」
そして佐藤さんに目配せをすると、佐藤さんは俺の手の中からするりと抜け出した。
「さ、佐藤さ……!」
「……ごめんなさい。私はやはりお父様の娘でした」
悲しそうな目が俺の目と合った。光が灯っていない瞳は俺が話しかける前よりも暗かった。
嘘だ。あり得ない。佐藤さんが、俺から離れようとするなんて。父が目の前にいたからって俺だって金はあるから二人で逃げれたのに。
どうして、父を選んだの?
「行くぞ。車入れ」
「……」
「佐藤さん……」
佐藤さんに拒絶された哀しみで足は動かなかった。ただ、小さくなっていく佐藤さんの乗る車を見続けることしか出来なかった。