恋して、愛して、
私は恋をした。
桜が散り、歩道には初々しさが際立つ若者の姿が多く見受けられる。
新しい制服に、新しい靴。新しい想いに、新しい夢。
何もかもが新品で、何もかもが慣れていない時間帯。
いつもと同じ朝、今まで十五年間生きて何度も見上げた空が、今日はいつもと違って清々しい青空に見えた。何度も見ているのに、それは何処か初めて出会う運命みたい。
和気藹々と楽しそうに会話しながら歩く者もいれば、緊張に顔を強張らせて歩みを進める者もいた。私は後者の方だ。同じ中学からの友人はいなく、これから三年間やっていけるだろうかと誰もが抱く不安を胸に歩いていた。そんな、期待も混じる感情。私は出会った。
彼女は教室の一番前、窓側の席に座っていた。
その姿を捉えた時、私は生まれて初めて『恋』を知る。
窓から流れる風、揺られる髪。
教室で一人佇む横顔、愁いを帯びた表情。
全身が痺れる、なんてことはない。ただただ眺める。ただただ見つめる。自分のことなんて何も感知することはできず、彼女の存在だけが世界のようだった。
目が離せない。視線が外せない。
いつまでそうしていただろう。気が付けば周囲には沢山の新入生がおり、私は慌てて自分の席を探し座る。それでも視線は、視界にはあの子がいる。
自分から話しかける子がいた。話しかけられる子がいた。一人不安そうにする子がいた。不安そうな子に話しかける子がいた。沢山の人間がいて、でも、その中で彼女だけしか意識できない。私のすべてを持っていく彼女。
「ねぇ」
声をかければ顔をあげる。正面から彼女を見て、私は不覚にも言葉を詰まらせる。別段綺麗というわけじゃない。特段可愛いというわけじゃない。でも、そんなの関係なかった。
「名前、なんていうの?」
この日、私は彼女の友人になった。
袖が短くなる頃には、クラスの人間関係は大分落ち着いて来ていた。グループを作る者、わりかし一人でいる者。どの子がどんなタイプか判断し、それぞれ落ち着ける居場所を見つける。私は彼女と一緒にお昼を食べながら雑談している。
「羨ましいよ」
容姿の話になった時、彼女がそんなことを言った。
「私が?」
「うん。だって、みんな綺麗だって言うし、長い髪も羨ましい。私って癖っ気だからさ」
「やめてよ、そんな」
頬が熱くなるのが解る。同時に、少し寂しくなる。悲しいだろうか。
彼女は私を綺麗というけれど、その前にみんなが付いた。私は彼女だけに見てもらえればいい、みんなの評価なんていらない。そんなことは口が裂けても言えず、彼女が髪をかきあげる仕草にドキリとする。胸が熱くなり、想いに熱がこもる。
明るく元気な彼女。
ずけずけと物を言ってしまう私とは違う、可愛いが似合う彼女。
お互いにまだ遠慮があり、私はそんな気遣いが出来ないので踏み込んでしまうのだけど、彼女はいつも言葉を選んで接してくる。もっと仲良くなりたい。私はただ、それだけを望んでいた。
久しぶりに彼女に会うと肌は焼け、外に出る彼女らしいなと思った。私はこの長い休みでもあまり外には出ず、けれどたまに出た時に浴びる紫外線のせいで髪の手入れに頭を悩ませている。
久しぶりと言っても、ずっと会っていなかったわけじゃない。長い休みはそれだけ自由に行動でき、私は彼女を誘って色んなところに行った。ちょっとしたショッピングに、私が行きたかった図書館にも行った。お祭りにも行った。
とても楽しく、とても切ない。
想いは募り、重なり積まれるばかり。
ひた隠しに押しこめるこの気持ちを、私は懸命に抑え付ける。
失いたくない。ただそれだけの気持ちで、私は彼女と接する。
一緒にしたテスト勉強。共に受けた体育の授業。並んで歩いた帰り道。
たくさんの思い出が圧し掛かり心を潰そうとする。
楽しいのに辛い。辛いけど楽しい。
一緒に居たい。一緒に過ごしたい。
私の望みはそれだけで、私の願いはそれだけだ。
この変わらぬ関係がいつまでも続けばいいと、私の願望は何もしないことで維持していた。
灰色の空。
吐く息が白く、マフラーに顔を埋める。
気分は空よりも暗い。もうすぐ冬休みというこの時期、一つの噂を耳にする。普段なら噂なんて気にも留めない。どうせ誰かの悪口か色恋沙汰と相場は決まっているからだ。
でも、この時は違った。
彼女の噂だった。
告白、されたらしい。隣のクラスの男子生徒。サッカーかバスケに所属している、女子に人気のあるかっこいい人だった。私は全然そう思わないけど。
問題なのはそこではなく、彼女が告白されたこと、でもない。
その告白を、私が知らなかったこと。それが、問題だった。
何も聞いてない。何も知らない。そんな素振りさえ見えなかった。友達だと思っていた。友人だと考えていた。でも、私には何の相談もなかった。別に、絶対に言わなければいけないことじゃない。ただそれでも、言って欲しかった。聞いてほしかった。
いつまで続くと願っていた関係は望み通り変わらず、ただ彼女の環境が変化した。
その変化は、私を置いて起きて。
解っていた。解りきっていた。だって、私は彼女の友達。ただの友人でしかない。そこから一歩進むことなんて不可能で、無理で、出来なくて。だってそれは、だってしょうがない事なのだ。
私が恋をしても、それは同性の彼女。
彼女が恋をしても、それは異性の誰か。
解っている。解っている。解っている。
吐く息が白い。鼻をすすり、目尻が熱くなる。胸が痛い。心が痛い。辛い、なんて言葉じゃ表現できないほど、私は全身で、全霊で痛みを覚える。
きっとまともじゃない。その時の、この時の私は、思春期なんて厄介な病に感染してしまった私は、正常な判断が出来ていないんだ。だからこれは一時の気の迷い。あと何年かすれば笑い話に出来るお伽噺。
でも私は『今』ここにいる。
未来なんて関係ない、先のことなんて知らない。
だからこの日、誰もいない図書室でストーブに温まりながら本を読んでいた時、彼女が発した言葉に耐えられなかった。
「あたし、告白されたの」
鼓動が大きくなる。耳の後ろ側でうるさいくらいに鳴り響く。
ドキドキ、なんて彼女を見る時に感じる音じゃなく、
ドクンドクン、恐怖を感じる時に覚える音だった。
「そう」
平静を装い、私は本から目線をずらさない。視野に捉える彼女の顔が私に向けられているが、私は瞳を動かすことを拒否していた。
それはプライドか、それとも逃避か。
「どう思う?」
「どうって、いいんじゃない?」
思ってもいないことを口にする。想いを言葉にする事が出来れば、こんな苦しみを味わうことなんてなかった。
「彼、女子から人気だしやっかみはあるだろうけど、性格も良いから悪くないでしょ」
「知ってたんだね」
しまった、と気づく。彼女はまだ告白されたことしか言っていない。なのに私は、その相手が誰かまで言い当てている。動揺を押し殺しながら、私は勤めて平素と変わらぬ態度を取り続ける。それが今の私に出来る、精一杯の抵抗だ。何に対しての抵抗かなんて、もう解らないけれど。
「まぁね。相手が相手だし、嫌でも耳に入ってくるわよ」
「そうだね。それに、やっぱり自分を好きでいてくれる人ってわかるから」
カッとなった。本を持つ手に力が入る。
好意に気付き、理解していた。彼が彼女を見ていたのを、彼女も解っていた。それはそれだけの事実じゃない。彼女が彼を意識していたという事実も付随する。
「そうね、そういう感情って、隠せるわけじゃないでしょうし」
ページを捲る。前のページに何が書いてあったかなんて覚えていない。それどころかこれが何の本かさえ解らない。何も頭に入らない。けれど、私は意地でも彼女に顔を向けない。絶対に、絶対に嫌だ。
「うん……」
それだけ言うと、沈黙が流れた。
ストーブの熱気を吐き出す音と、廊下を歩くきゅっとした足音だけが聞こえる。
素っ気なく言い過ぎただろうか。でも、私には言葉を選ぶ余裕はなかった。気遣うこともできない。ただ早く彼女から離れたかった。いつも一緒に居たいと考えているのに、こんな事を思ったのは初めてだ。それだけ、私は苦痛を味わっている。この空間に、この状態に。
「私も恋したい」
唐突に、彼女が言った。
宣言、宣告。
たまらず私は吐き捨てる。
「勝手にすれば」
「怒った?」
「なんで?」
「彼のこと……好き?」
思わず体が反応する。ガタリ、と椅子が軋み机が揺れる。
違う、それは違う。そんなことは違う。私がこうなったのは、全部貴女のせい。貴女が私の気持ちを無視して、そんなことを言うから……っ!
飲み込む。荒れ狂う心を殺して、殺して殺して殺して、私は私を殺す。
「……別に。私は彼、好きじゃないもの」
それだけを言う。それ以上は言わない。言っちゃいけない。解っている。解ってる。
私には無理なことを、私には出来ないことを。
だからせめて、この友情関係だけでも繋げておきたかった。
そんな私の態度を見て、不安に思ったのか彼女は尋ねる。顔はいつも通り、表情は変わらずに。
「私達、友達だよね?」
「当たり前でしょ」
「私のこと…………好き?」
唇を噛みしめる。心を噛みしめる。噛み締める。
友情の確認。その行為は、私の好意を殺す。
大丈夫、私は殺される覚悟は持っている。この気持ちが、心が最初から長く生きられるなんて思っていない。
でも、
「好きよ。でも、貴女が彼に抱いている好きとは違うけど」
そんな、恨みがましいことを付け加える。
これくらい許してほしい。
これくらい見逃してほしい。
だって、もうやめて。嫌だ、イヤ。
泣きたい。大声を出してみっともなく、誰にも構わず泣きはらしたい。
我慢するしか選択肢のない私は、懸命に耐え続ける。
「そっか、良かった」
微笑む彼女。嬉しそうに、安心したように。
心の、底から……。
惨めな気分とはこのことを言うのだろうか。
報われない恋を知った。
届かない恋を知った。
渡せない愛を知った。
もう疲れてしまった。どうでもいい。
今の私には、彼女が幸せになってくれることだけが唯一の救いだ。
「そうね……」
精一杯の返事。
懸命に出した、私の声。
それらを押しつぶそうとする、彼女の声。
「私も貴女のこと好きだよ」
嬉しくない。
今そんなことを言われても、全然嬉しくない。
「ありがとう」
「うん」
彼女の笑顔が痛い。
彼女の笑顔が苦しい。
「私も、貴女が私を好きって言う気持ちと一緒だよ」
「…………え?」
顔を上げる。
彼女の顔が見える。
私を見つめる。
視線が合う。
言葉が届く。
想いが伝わる。
気持ちを知る。
「好きって気持ちって、解るんだよ?」
そう言って笑う彼女。
何が起こったのか解らない。よく、解らないけど。
「……え? あ、あ……え?」
「あ、顔真っ赤だよ」
「なっ!?」
慌てて頬に手を当てる。熱がある。熱い、とても熱い。本は落ちた。
ストーブの熱気なんか及ばないほど、私の顔は熱かった。きっと彼女の言う通り、私の顔は夕焼けのように真っ赤に染まっているのだろう。
「良かった」
彼女の手が私の手に被さる。
一緒に私の頬を包む。
暖かく、温かい。
「これで、恋できるね」
私は恋をした。
それは伝わらず、
それは届かない。
そう思っていた。想っていた。
でもそれは、言葉にすれば簡単に相手に受け止めてもらえるモノだった。
「……いじわる」
「可愛い」
恋して愛して、私は恋愛する。
彼女と二人、二人っきりで。