旅の始まり
四角の煉瓦で舗装された町の大通り。道行く人は、無駄な装飾の無い服を着た市民ばかりである。女は足元が見えないスカートドレス、男はシャツに長いズボン、というのが殆どだ。服の事はよく分からないが、デザインは悪くないだろう。
市民の衣服を観察することで現実逃避していた彼は、肩からかかっていた鞄が手に当たった事で現実に引き戻された。その中に在る物を思い出したせいで、すっと体温が下がったような気がする。
――怖い。
しかし、恐怖に負けていてはこの仕事は務まらない。
頬を両手でバチンと叩き、やりすぎたせいで少しひりひりするそこを摩りながら、アツキは先輩であるドーガンの後を歩いていた。
「今更言わんでも大丈夫だろうが、ちゃんと奴の顔と声、頭に叩き込むんだぞ」
アツキの心情を知ってか知らずか、熊のような体格をした彼はそう言って笑った。正直何が可笑しいのか分からないが、取り敢えず乾いた笑い声を絞り出す。
「そんなに緊張するこたねぇ。ただのナマガキだ」
ただのナマガキなら、とうに成人しているアツキは怖がらない。本当に、ただ生意気なだけの子供だったらどんなに良かったか……。彼は、大きなため息を一つ吐いた。ついでに深呼吸をする。多少は落ち着いたような気がした。
「さて、一体どこに居やがんだろうな。この辺だと思うんだが」
経験と勘、ほんのわずかに与えられた情報だけを頼りに、伝令部隊は活動する。広い世界の中から、たった一柱の死霊神を探すのだから面倒極まりない仕事だ。入ったばかりの時には不安もあったが、慣れれば結構楽しい。しかし、化物部隊と異名を取るような所に在籍する者に伝令をするのは話が別だ。初めて仕事を与えられた時以上に、心臓が暴れているような気がした。
化物部隊、もとい必了部隊の死霊神は、首を切られる程の事をしておきながら、能力が化物並に高いが為に何とか冥界に送られずに済んでいるという。もちろん、次に問題を起こせば即クビ。たちまち冥界という、産神一柱と魂だけの世界へと送られてしまうのだが。
なんにせよ、前科者の部隊と言う訳だ。
きっと顔には傷があって、物凄く大きくて、ムキムキで……。いや、もしかしたら、長身だがほっそりしていて、とてつもなく美しい笑みを浮かべた、腹黒い奴かもしれない。アツキにとっては、こっちの方が怖い。
アツキが死霊神でなければ、この町の大通りを歩く人々の注目の的になっていただろう。しかし彼は死霊神だった。霊体だった。なので、町行く人々は彼にも、彼の前を歩くドーガンにもまるで気づいていない。それをいい事に、アツキは考えを目が回りそうなほどに巡らせる。比喩ではなく、本当にぐるぐると首を回しながら。
彼の視界の端に、こぢんまりとした洋服店から一人の娘が出て来るのが見えた。何やら上機嫌で、足取り軽く歩いている。たまに知り合いらしき人物を見つけてはひらひらと手を振っていた。彼女はアツキをすり抜けて、どこかへ去ってゆく――と、思ったら、これまた小さなレストランへと入って行った。
「おい、お前、見られてるぞ」
笑いを含んだドーガンの声で、アツキはハッとなり前を向いた。
「ほら、あそこだ」
顎で指された方を見上げると、砂埃や血に汚れた鎧に身を包む男が屋根の上からこちらを見下ろしていた。ただの男ではない。あれは、霊だ。死んでいるにも関わらず、未だ生まれた世界に留まっている哀しい霊……。
「霊界に連れて戻りましょう」
「だーめだ。ありゃあ俺等じゃ歯がたたん。なんせ、十柱以上がアイツに返り討ちにされてんだぞ。伝令班の俺等が説得なり狩るなり、できるわけねぇだろ」
その図体に似合わない弱腰なドーガンの言葉だが、それは正しい。そもそも、今は仕事中なのだから寄り道はしていられないのだ。それでも、少し彼の方が気になった。
「アンタ、何のための必了部隊だと思ってんだ」
不意に、大人の男にしては高い声が聞こえてきた。少年にしては低い、微妙な高さの声だ。
「おっ、居たな」
声がした方を見たドーガンの言葉で、アツキの背筋が凍った。
『居たな』という事は、探していた者がそこに居るのだ。化物部隊に所属する『ナマガキ』が。
「今回は遅かったですね」
「テメッ、見てやがったのか!」
「えぇ。たまたま見かけたので、少しつけてみました」
苦笑半分、怒り半分と言ったドーガンの声音を、その声は受け流す。
「面白かったですよー」
「ぜんっぜん気付かねぇんだもんなぁ」
「ねぇ~」
高揚した、三つの高い声がさらに聞こえた。
……おかしい。化物部隊の面々は、集団行動をしない筈だ。精々二人組か三人組。それなのに、なぜ四人も?
「ったく。探し回って損したな……。アツキ、こんな奴等だ。心は広く持てよ」
ポンと肩を叩かれるが、彼等の姿はまだ見ていない。
「教育熱心なのは結構ですが、ちゃんと仕事をしてください」
声が、すぐそばで聞こえた。いつの間に来ていたのだろう。全身の気が逆立った。機嫌を損ねられては困ると、アツキは慌てて鞄から封筒を取り出し、彼に渡す。
渡すためには、振り返らなければならない。聞いた話によると、死霊神として仕事をしている期間は向こうの方が少し長いのだ。そうでなくても、後ろ手に渡すだなんて不自然極まりない。
「ドーガンさん、アツキさんは、俺が取って食おうとしているとでも思ってんですか?」
封筒を受け取った彼は、それを唇の下に当てながらドーガンへと尋ねる。
ムキムキの大男でも、腹黒いオーラをまとった長身でもなく、彼は背の低い、華奢な青年だった。あまり高くないアツキの目のあたりに頭がある。ドーガンと並べてみると、頭一つ分程の差が出来ていた。
「えっ、あ、そういう訳じゃないですっ。ただ、あ、いや、何でもありません……」
青年はアツキの言葉を気にかけることなく、少し黄色っぽい色の肌をした手で封を切る。何故か、このよく晴れた日に黒いパーカーの大きめに作られたフードをすっぽりとかぶっているせいで、上からは顔の下半分しか見えない。
彼に限らず、一緒に居た三人の少年少女も同じようにパーカーを着て、そのフードをかぶっている。何か訳があるのかと首を傾げるが、いまいちピンとこない。彼がぐるぐる考えているうちに、青年は青のペンで指令書にサインをし、千切り取ったその部分をアツキに渡して来た。
サインの確認をすると、アツキはもう一つの封筒にそれを入れる。あとはこれを持ち帰り、提出すればいい。
「これからよろしく、アツキさん」
そう言って彼は少しだけ顔を上げ、ギリギリ見えるようになった淡褐色の瞳を細める。
生意気と言うのは口調だけで、初対面の相手には意外といい子なのかと目を丸くすると、彼は口元を歪めて笑った。
「くれぐれもドジだけは踏まないように」
――やはり彼は、相手が誰であろうと生意気らしい。