静かな牙
いつもより少し賑やかな夜だった。
ヨシトさんはカウンターの端でノンアルコールのモヒートを飲んでいる。彼との会話は心地よくて、仕事をしながらも自然と笑顔になってしまう。
「美月ちゃん、俺のグラス空いてるよ」
カウンターの真ん中あたりから、田中の声が聞こえた。
田中は週に二回ほど来る常連だけど、正直苦手だ。いつも酒に酔うと下心丸出しで、しつこく連絡先を聞いてきたり、プライベートなことを聞いてきたりする。
「はい、すぐお持ちします」
私は笑顔を作って、ウイスキーのグラスを用意した。
「ありがとう。やっぱり美月ちゃんが作ると美味いわ」
田中はニヤニヤしながらグラスを受け取る。その視線が不快で、私は早々に離れた。
「美月さん」
ヨシトさんが静かに呼んだ。
「はい?」
「あの人、いつもあんな感じなんですか?」
「まあ、常連さんなので」
私は曖昧に笑った。ヨシトさんの表情が少しだけ曇る。
「嫌だったら、はっきり断っていいと思いますよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
それから一時間ほどして、田中の酔いが回ってきた。
「美月ちゃん、今日も綺麗だね」
「ありがとうございます」
「ねえ、今度二人で飲みに行かない?」
「すみません、お客様とプライベートでお会いすることはできないんです」
何度も同じやり取りをしている。いつもならここで引き下がるのに、今日は違った。
「まあまあ、そう言わずにさ」
田中が立ち上がって、カウンターに手をついた。明らかに酔っている。
「あれ? そっちの兄ちゃんとは連絡先交換してたよね?」
田中の視線がヨシトさんに向いた。
「それは」
「俺とは交換してくれないのに、あの人とは交換するんだ。ずるいじゃん」
田中の声が大きくなる。店内の空気が変わった。
「お客様、少し声が」
「美月ちゃん、ちょっと贔屓が過ぎるんじゃない?」
「田中さん」
ヨシトさんが静かに立ち上がった。
「少し落ち着いた方がいいですよ。美月さんも困ってます」
「あんた誰だよ。関係ないだろ」
「関係ないことはないです。あなたが迷惑をかけてる」
ヨシトさんの声は穏やかだったけど、どこか芯が通っていた。
「はあ? 何様のつもりだよ」
田中がヨシトさんに詰め寄ろうとした時、私は間に入ろうとした。
「お二人とも、やめて」
でも田中の手が、私の腕を掴んだ。
「美月ちゃん、こっち来いよ」
「離してください」
その瞬間、空気が凍りついた。
ヨシトさんの目が、変わった。
穏やかだった表情が消えて、そこには何か別のものがあった。底知れない、冷たい何か。
「手、離せ」
声が低い。今までとは全く違う声だった。
「なんだよ」
「もう一度言う。手を離せ」
ヨシトさんから放たれる気配に、田中の顔が強張った。私も思わず息を呑んだ。
これが、ヨシトさんの本当の姿なのか。
「表、出ろ」
ヨシトさんが静かに言った。
田中は私の腕を離して、ふらふらと店を出ていく。ヨシトさんもその後に続いた。
「ヨシトさん」
私が声をかけたけど、彼は振り返らなかった。
店に残った他の客たちも、何が起きたのか分からないという顔をしている。
私は慌てて店の外に出た。
路地裏で、ヨシトさんが田中を壁に押し付けていた。
「二度と、美月さんに手を出すな」
そう言って、ヨシトさんの拳が田中の顔に入った。
鈍い音がした。
田中が倒れ込む。
「わかったら、失せろ」
ヨシトさんの声は氷のように冷たかった。
田中は這うようにして逃げていった。
ヨシトさんはゆっくりと振り返って、私を見た。
「美月さん」
普段の穏やかな声に戻っている。でも表情には、まだ少しだけ鋭さが残っていた。
「大丈夫ですか」
「はい」
私は頷いた。怖かった。でも同時に、守られたという安心感もあった。
店に戻ると、ヨシトさんは深く頭を下げた。
「すみません。店で騒ぎを起こしてしまって」
「いえ、こちらこそすみません。変なお客さんで」
「美月さんが無事なら、それでいいです」
ヨシトさんは小さく笑った。いつもの優しい笑顔だった。
でも私は知ってしまった。
この人には、別の顔がある。
それは怖くて、でも同時に、とても頼もしいものだった。




