カウンターの向こう側
ヨシトさんが店を出ていくのを見送って、私は小さく息を吐いた。
何やってるんだろう、私。
カウンターを拭きながら、さっきのことを思い返す。お客さんに自分から連絡先を渡すなんて、バーテンダーとしてあり得ない。プロとしての一線を越えてしまった気がして、少しだけ後悔する。
でも、どうしても気になってしまったんだ。
ノンアルコールばかり注文する不思議なお客さん。失恋したから大人の雰囲気を味わいたいって、そんな理由でバーに来る人。三十八歳なのに、どこか少年みたいな純粋さを持ってる人。
「美月ちゃん、さっきの人と連絡先交換してた?」
常連の佐藤さんが、ニヤニヤしながら声をかけてきた。見られてたか。
「はい、まあ」
「珍しいね。美月ちゃんから連絡先渡すなんて」
「そうですか?」
「そうだよ。俺がここに通い始めて三年になるけど、初めて見たぞ」
佐藤さんは笑いながらグラスを傾ける。私は曖昧に笑って、話題を変えた。
他の常連さんたちの対応をしながら、私の頭の片隅にはヨシトさんのことがあった。
バーテンダーを始めて五年。それまでは普通のOLをしていたけど、ふとしたきっかけでこの世界に入った。いろんな人の話を聞くのが好きだった。人生の悩み、仕事の愚痴、恋愛の相談。カウンター越しに聞く物語は、どれも興味深かった。
二十八歳になって、実年齢より中身が大人になった気がする。でも恋愛に関しては、ずっと臆病だった。
バーテンダーという仕事柄、男性から声をかけられることは多い。でも誰とも深い関係にはならなかった。仕事とプライベートは分けたかったし、本気になれる人に出会えなかった。
なのに、どうして今日は自分から連絡先を渡したんだろう。
閉店時間が近づき、最後のお客さんを見送る。
一人になった店内で、私はカウンターに座った。スマホを取り出して、連絡先を確認する。
「義人」
画面に表示された名前を、小さく呟いた。
失恋したばかりの人に連絡先を渡すなんて、タイミングが悪かったかもしれない。でもヨシトさんは嫌そうな顔をしなかった。むしろ少し驚いた顔をしていた。
また来てくれるだろうか。
それとも、あれっきりだろうか。
私は立ち上がって、グラスを片付け始めた。明日も仕事だ。余計なことは考えないようにしよう。
でも、胸の奥に小さな期待が芽生えているのを、否定できなかった。
ノンアルコールのモヒートを注文する、ちょっと変わったお客さん。
また会えたらいいな。
店の照明を落として、私は静かに店を後にした。
夜の冷たい空気が頬を撫でる。
ポケットの中のスマホが、いつもより少しだけ温かく感じた。




