美月という名前
「お代わりいかがですか?」
彼女がグラスが空になったのに気づいて声をかけてくれた。
「じゃあ、また同じので」
「ノンアルコールのモヒートですね。かしこまりました」
彼女は手慣れた様子でシェイカーを手に取る。その動きは無駄がなくて、見ていて飽きない。バーテンダーとしての経験が滲み出ている。
二杯目のモヒートが目の前に置かれた。
「ありがとうございます」
「お客様、失礼ですが」
彼女が少し首を傾げて言った。
「ノンアルコールばかりご注文されてますけど、何か理由が?」
「あぁ」俺は苦笑した。
「体質的に酒が飲めないんです」
「そうなんですね」
「でも、大人の失恋って酒を飲むイメージがあるじゃないですか。だから雰囲気だけでも味わいたくて」
言ってから、余計なことを口にしたかもと思った。初対面のバーテンダーに失恋の話なんて。
でも彼女は驚いた様子もなく、優しく微笑んだ。
「失恋、されたんですか」
「ええ。まあ、そんなところです」
「お辛いですね」
「三十八にもなって、情けない話ですけどね」
彼女は少し考えるように視線を落として、それから言った。
「年齢は関係ないと思いますよ。恋をして、傷ついて。それは何歳になっても同じじゃないですか」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「ありがとうございます」
「それに」
彼女は少しだけいたずらっぽく笑った。
「お酒飲めないのにバーに来るなんて、ちょっと面白いですね」
「面白い?」
「はい。でもそういうの、嫌いじゃないです」
俺は思わず笑ってしまった。失恋した日に、こんな風に笑えるとは思わなかった。
それから彼女は他の客の対応に戻り、俺は静かにモヒートを飲んだ。店内のジャズが心地よく流れている。
時計を見ると、もういい時間だ。そろそろ帰らないと。
「お会計お願いします」
彼女が伝票を持ってきて、俺は財布から金を出した。
「ありがとうございました。またお越しください」
立ち上がろうとした時、彼女が少し躊躇うように言った。
「あの、もしよろしければ」
「はい?」
「連絡先、交換しませんか?」
予想外の言葉に、俺は少し驚いた。
「いいんですか?」
「はい。なんだか気になってしまって。また来ていただけたら嬉しいなと思って」
彼女は少し頬を赤くしながら、スマホを取り出した。
俺たちは連絡先を交換した。画面には「美月」という名前が表示されている。
「ミツキさん、っていうんですね」
「はい。お客様のお名前は?」
「ヨシト。漢字で書くと義人です」
「ヨシトさん」彼女は柔らかく微笑んだ。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。また来ます」
店を出て、夜の冷たい空気を吸い込んだ。
失恋の痛みはまだ消えていない。でも不思議と、胸の奥に小さな温かさが残っていた。
ポケットの中のスマホが、いつもより少しだけ重く感じた。
美月さん、か。
俺は煙草に火をつけて、ゆっくりと夜道を歩き始めた。




