紫煙の夜
「ごめん、ヨシト。私、やっぱり彼のことが忘れられないの」
携帯の画面越しに聞こえた彼女の声は、申し訳なさそうで、でもどこか晴れやかだった。一年かけて積み上げてきたものが、たった一言で崩れ落ちる。そんなもんなんだろうな、恋愛なんて。
「そっか。分かった」
俺はそれだけ言って電話を切った。他に何を言えばいい? 引き止める権利なんて、最初からなかったんだ。
彼女とは友達の紹介で知り合った。夜の店で働く彼女に、俺は一目惚れした。三十八歳にもなって、まるで青臭いガキみたいに。月に何度か店に通って、少しずつ距離を縮めて、ようやく個人的に連絡を取れるようになって。でも結局、彼女の心には元カレがいた。
トラックの運転席で一人、俺は煙草に火をつけた。紫煙が車内に広がる。窓を開ければよかったのに、そんな気力も湧かない。
失恋した大人はどうするんだっけ? 酒を飲むんだよな。映画やドラマでよく見る。バーのカウンターで一人、グラスを傾けて。そういうのが大人の失恋ってやつなんだろう。
問題は、俺が酒を飲めないってことだけど。
体質的に受け付けないんだ。若い頃、無理して飲んでみたこともあったけど、顔が真っ赤になって気持ち悪くなるだけだった。元ヤンでタバコは吸うのに酒が飲めないなんて、よくツッコまれたもんだ。
でも今夜は、酒が飲めなくたってバーに行きたかった。雰囲気だけでも味わいたかった。一人で部屋にいるのが耐えられなかった。
適当に歩いていると、路地裏に小さな看板を見つけた。
「Bar Twilight」
いかにも隠れ家って感じの、目立たない入口だ。
階段を下りて、重い扉を開ける。
店内は薄暗く、ジャズが静かに流れていた。カウンターには数人の客。全員俺と同年代か、もう少し上くらいのおじさんたちだ。誰も俺のことなんて気にしちゃいない。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、女性の声が聞こえた。
顔を上げると、そこに彼女がいた。黒いベストに白いシャツ、落ち着いた雰囲気の女性。年は二十代後半から三十くらいか? プロのバーテンダーって感じの、洗練された佇まいだった。
「お一人ですか?」
「ああ」
俺はカウンターの端に座った。彼女がメニューを差し出してくる。
ざっと目を通すけど、当然のように並ぶ酒の名前。カクテルやウイスキー、ワイン。どれも俺には縁のないものばかりだ。
「あの、ノンアルコールのカクテルとかありますか?」
「はい、ございますよ」
彼女は微笑んで、いくつか提案してくれた。結局、ノンアルコールのモヒートを頼んだ。
グラスが目の前に置かれる。ミントの爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
彼女はそう言って、他の客の対応に戻っていった。
俺は一口飲んで、カウンターに肘をついた。店内のジャズが心地よく耳に入ってくる。ここに来て正解だったかもしれない。一人で部屋にいるよりは、ずっとマシだ。
ノンアルコールのモヒートを少しずつ飲みながら、俺はぼんやりと店内を眺めていた。
失恋の痛みは、まだ胸の奥にあった。でも少しだけ、呼吸が楽になった気がした。




