時の神
女性飛行士ルイは宇宙船クロノス号の前部コクピットの観測窓から、進行方向に拡がるガス状星雲の色彩を見つめていた。その色彩は赤から紫へとグラデーションで見事に輝いていた。
「ルイ、あの光は恒星の光の反射ではない。自ら発光しているのだ」
シートに座ったグレゴリー船長が話した。
「近くの高温の星から放出される紫外線によって水素ガスの原子から電子が弾きとばされ、星雲のガスはプラズマ化される。飛び出した電子は水素イオンの陽子と再結合し、エネルギーを放出し、光をだす。その輝線のもっとも強い光線の波長が赤色なんだよ」
制御卓の機器の発光は船の自動操縦を示していた。深い皺がきざまれた船長の顔は、長期にわたり数々の宇宙船を飛翔させてきた歳月の長さを物語っていた。老船長は咳をし、顔をゆがめて目をつぶった。
「船長、苦しいですか?」
孫娘ほど歳のひらいた女性飛行士ルイは船長を気づかって背中をさすった。腫瘍は船長の身体をむしばんでいた。これが最後の搭乗になることは船長はわかっていた。
「ルイ」
と船長は呼びかけ、
「わたしは、あのガス状星雲にはいつでも船に乗ればいけると思っていた。歳をとってからでも遅くはないと、先延ばしにしていた。今となっては後悔している……」
船長はまた咳き込んだ。
「つくづく思う。若いうちにしか出来んことがあるのだ」
制御卓の点滅する装置類は、船の鼓動を感じさせた。それは、船長の鼓動でもあった。
やがて前方にステーションのリングが見えてきた。減速したクロノス号はステーションの開口部から延びた係留アームにとらえられた。クロノス号のハッチに伸縮する連結通路が装着される。二人は通路からステーション内部へ移動した。看護士が船長とルイを出迎え、船長は車椅子に身体をあずけ、そのまま病室へ向かった。
「ルイ」
病室のベッドに横になったグレゴリー船長は脇の椅子に掛けたルイに四角い棒状のものを手渡した。
「クロノス号の始動キーだ。これからは君のものだ。船を頼んだぞ」
それだけ言うと、船長は目をつぶった。
「わかりました」
ルイが言うと、すでに船長は寝息をたてていた。
二日後、グレゴリー船長は亡くなった。
女性飛行士ルイは、船長に教えてもらった航海術を思い起こしながら、長い進路に船をだす決心をした。船長から託されたキーをコンソールに差し込んでまわすと、ロックが解除され、イルミネーションのように、コンソールの計器の灯がともる。
すると、船長の声がコクピットに響いた。
「ルイ、このわたしの声を聞くとき、君はひとりだ。一人前の飛行士として間違いのない技量でクロノス号を安全に飛行させるのが君の任務だ。さあ、船を始動させるんだ」
「船長、わかりました」
ルイはコンソールの中央にある赤いレバーを手前に倒した。コクピット全体に微振動がつたわる。
船長が果たせなかった外宇宙の旅に船は向かう。赤紫のガス状星雲めざしてルイは船の推力をあげた。クロノス号は推力を最大にふりしぼり、時間をかけて、やがて亜光速の域に達した。と、船の推進は空間に干渉し、予想外の時間軸のずれを生み出した。クロノス号は宇宙船というよりもいまや稲妻のような閃光のかたまりと化していた。
画家は素描を描く手を休めて、窓から見えるフィレンツェの夕刻の空を観察した。そこへ弟子がやってきた。
「先生、どうかなさったのですか?」
「サライ、流れ星だ」
弟子は師が仰ぎ見ていた夕空に目をやったが、そのときには、小さな光の筋が認められた。
その画家、ダヴィンチは、手元の手帳を開くと、いましがた目にした光の筋を描写して記録にとどめた。空に現れた光の筋は、画家にインスピレーションを与えたのかもしれなかった。




