ユロイ族の少女ロムリス
地平線しか見えない荒野の中を、ロムリスは歩いていた。すでに日は落ちて、レッセムとイリアナが地上を照らしている。レッセムはほぼ満月だが、イリアナはわずかにまだ欠けている。次のレッセムの満月ではイリアナも満月となり、この日はゴーガシャのみならずほぼすべての国が休日となる。ロムリスはそれまでに目的地に着きたいと考えている。
ロムリスはセディーラから降りて、携帯していた水を一口飲んだ。ロムリスのセディーラは微動だにせずロムリスを見ている。乾燥地帯の運び屋として古くから重宝されてきたセディーラは、数十日は食料も水も必要ない。この荒野はセディーラの原産地であるはるか遠方の砂漠よりかなり雨が多いから、もっと頻繁に補給を必要とする動物に乗ることもできるのだが、餌をやるという行為ですら面倒に感じるロムリスは、急ぐ必要がないことをよいことに最近専らセディーラを使い続けている。
ロムリスはここをこの日の寝床とすることにして、簡単な寝袋をセディーラの背から降ろした。ついでに紙も取り出して、近くにあった平たい石を台にしてこの日の記録をつけることにする。『第五レッセム第三十四日、終日晴天、ゴーガシャ王国東部ヴィデン地方を約十七セム東進。途中バゼンダ族の男に会う。次の集落まであと十二セムほどと聞く。現地点から五セムとなったその集落デラトリスには約三百人のバゼンダ族が住んでいるようである。主要産業は農耕、このあたりでは主食であるベームを栽培しているが、三年前に通りかかったゼンロク族の旅人がタテイス共和国から持ち込んだロミハを育てる者も増えている。明日にはついにロミハの詳細について記述することができるだろう』
ロムリスははるか西方のジニシク王国から出発した旅人であるが、ロムリスはもはや自分が「西方から来た人」であるのかどうかわからなくなってきている。はるか昔——ロムリスの記録によれば十三年前——ロムリスは王の命を受けて東へ旅立った。当時ジニシク王国の学者たちが言うには、この世界は球体であると考えられ、ただ一方向へ一方向へと旅を続けるといつかは元の場所に帰ってくるらしい。とはいえそれまでのジニシクにおいての世界は、どこまでも無限に広がる平坦なものであるという認識であり、学者たちがさまざまな証拠を挙げて世界が球体であることの説明をしたものの、王をはじめそれを信じる人は多くなかった。
ロムリスは首から糸で吊り下げられている横笛を口に当てた。ロムリスは一般的なユロイ族の例に漏れず笛吹きを生業としていた。ところがたまたまジニシクの首都を通りかかったとき王の側近だという謎の男に捕まり、世界一周に挑戦しないかという話を受けたのである。ロムリスは当時その話を話半分に聞いていた。ユロイ族は放浪の民ではあったが、それでも誰もどうしても越えられないあまりに高い山やあまりに広い海があるというのは常識であり、ロムリスは正直なところ興味がなかった。
ところが、ロムリスが大陸の最東端から少し東側の海を船で進んでいたとき、突然伝染病が流行してロムリス以外の乗員が全員死んでしまったのである。その伝染病はなぜかユロイ族には効果がないことで有名なものだった。そのときロムリスは初めて世界一周の話を思い出したのである。幸い食料はたっぷり残っているから、針路を東に取って、行けるところまで行ってみようとロムリスは考えたのである。一部の保守的な学者もしくは宗教家たちが主張している、大陸の最東端から海をどんどん東に進めば不可避の破滅が待っているという仮説をロムリスは少し心配したが、それでもロムリスはやってみることにした。確かに嵐に襲われたり謎の巨大な生物に遭遇したりしたが、なんとか生き延びた。そしてついに新たな陸地を発見したのである。長年毎日日記をつけているロムリスはこのあたりのこともしっかり記録してあり、それらもまたセディーラの背に乗せられている。ただ最近は日記のノートも十冊を超え、ロムリスはそろそろ重すぎるのではないかと感じている。本来なら定期的に故郷に帰って荷物を降ろすところなのだが、故郷の村にいつ帰れるのかはもうわからない。そもそも帰れるのだろうか。
底の知れない不安に身を任せても仕方がないので、ロムリスは石に肘をついていつものように横笛を吹き始めた。この横笛はユロイ族ではサンミと呼ばれている。語源ははるか昔のユロイ族の大作曲家に由来するらしいが、それを知る者は特にこの異国ではまったくいない。そもそもこの場所にはロムリス以外誰もいないのだが、ロムリスは何があっても毎日サンミを吹くことに決めている。ロムリスは音楽の職人である、鍛錬を怠れば腕が鈍るというものだ。特にこの異国では、普段からユロイ族の音楽に触れていない者ばかりである。生半可な演奏では石を投げられてしまう。今のロムリスの生活を支えるのはサンミの演奏によるわずかな謝礼と、もしくは一夜の宿と食事である。明日もロムリスは例の集落デラトリスでサンミの腕を村人たちに問うことになるだろう。
ユロイ族は長命である。ロムリスは今年で五十二歳になるが、まだ背が伸び続けている。親なしで旅を始めた時期が早めのロムリスだが、まだまだユロイ族の中では若者である。とはいえロムリスは未知の大陸に渡ってから十三年間、他のユロイ族には会っていない。ロムリスの年ならユロイ族では結婚していてもおかしくないのだが、もはやロムリスは自分がユロイ族が多く住むジニシク王国に戻れるとは想像すらできなくなっている。もちろんユロイ族と似た特徴を持つ種族に旅の途中でロムリスは会ったことがあるし、そのような種族なら原理的には子を設けることができるのだろうが、一般的な種族間混血児は遺伝的な不安定さから病弱であることが多く、また見慣れない見た目から迫害されるため、ロムリスはできればそのようなことはしたくない。ロムリスは昔仲良くしていたユロイ族の少年(今はもう青年といえる歳になっているだろうが)をよく思い出すのだが、もう彼の外見すらロムリスはうまく思い出すことができない。思わず見とれてしまうような美しい顔であったことは覚えているが、彼を最後に見たときの日記は故郷の村に置いて来てしまったから、今のロムリスは彼に関する詳しい記述を見ることができない。
西から弱い風が吹いて、ロムリスの淡い紫色の前髪を揺らした。ロムリスの笛の音も風に乗って東へ流れていく。運がよければデラトリスにもかすかに音が届いているだろう。事前に村人たちに刷り込まれて明日の反応が良くなればいいとロムリスは考えて、そううまくいくわけがないとすぐに首を横に振った。とはいえ何が起こるかわからない旅人人生は非現実的な妄想をしなければやっていけないし、それに非現実的だと思われることがしばしば現実になることはロムリスもよく知っている。だからロムリスが後方から「こんばんは」と声をかけられたとき、ロムリスは全く慌てずゆっくりと後ろを振り向いた。
「良い音色ですね。何という楽器ですか?」
このあたりでは主要な家畜であるレナンタから降りつつロムリスに話しかけてきたのは、やや緑がかった肌が特徴であるバゼンダ族の若い男であった。バゼンダ族はユロイ族よりも一回り小さく、また寿命はせいぜい百年程度の短命種である。このあたりにはバゼンダ族が多いわけだが、ユロイ族として身体能力で上回っているロムリスはバゼンダ族をあまり警戒していない。先に組み付かれても相手がよほどの手練れでなければ勝てる自信があるし、それにそもそもロムリスのような旅する演奏者を襲うことはあまり良いこととされていない。地域によって多少差はあるのだが、旅人を襲うと罰が当たると宗教的に信じられている場合が多いのだ。
「これはサンミですね。私はユロイ族の笛吹きで、ロムリスといいます。あなたはバゼンダ族であるようにお見受けしますが……」
ロムリスは無難な会話をしながら、おそらくバゼンダ族であるとみられる男を観察する。彼は農村に住むバゼンダ族らしく質素な服装であるが、左耳につけられた耳飾りは彼が既婚者であることを示している。
「ええ、私はバゼンダ族で、デラトリス村のシュフェーナです。ベタリカの町にベームを売りに行って、その帰りですよ。ユロイ族……聞いたことがない種族名ですな。ゴーガシャ語にも訛りがあるようだし、ずいぶん遠くから来なさったので?」
「そうですね。私の故郷はジニシク王国……といってもわからないはずです。なにしろこの大陸からずっと西にある大陸ですからね。私のような物好きでなければ、こんなところに来ることはないでしょう。ところで、デラトリス村の方なのですか? 私は今日の昼ごろ、バゼンダ族の男性に会ったのですよ。彼からデラトリス村の話を聞きましてね」
「ふむ……彼の右腕には傷がありませんでしたか?」
「確かにありましたが……彼をご存じで?」
「彼はデラトリス村のヨッカでしょう。彼は若いころに喧嘩したときの傷が右腕にあるのですよ。彼もベタリカにベームを売りに行ったのだと思います」
ロムリスは昼に会ったヨッカだという男がレナンタに大きな荷物を積んでいたことを思い出す。おそらくあの中にベームが入っていたのだろう。
「デラトリス村でベームが作られていることはヨッカさんから伺ったところです。それから、最近はロミハも育てられているとも聞きましたが……」
「ああ、ロミハは本当に最近ですね。三年前に旅の詩人だという人が、東方の作物だというロミハの種をいくつか渡してくれたのですよ。それがよく育ちましてね。私の畑でも来年はロミハを植えようと思っているのですよ。ロミハは甘いですからね……笛吹きさんはまだ食べたことがないのですか?」
「実は、まだないのですよ。ベタリカの町ではロミハは売っていませんでね。確か時期が悪いとかなんとか」
「まあそうなのですよ。ロミハはベームの裏作で育てているわけで、ちょうど今から植えるところですわ。ま、蓄えがいくらかありますから、笛吹きさんにもお出しできますよ。あんな名演奏を聞かされちゃあ、何もしないわけにはいきませんからな」
「いえいえそんな」
「いやいや、我々は田舎者ですから、旅人さんは珍しいのですよ。ぜひ明日あたり、村人たちの前で一曲やっていただきたいのですが」
「それならお邪魔させていただきます。私もロミハと、そしてそれを紹介したという詩人に興味があるのですよ」
「それは話が早い。では村までご一緒させてください。……とはいえ、今日はもう遅いですな。笛吹きさんもここで寝るつもりだったでしょう。私も一緒によろしいですかな」
「もちろんです」
シュフェーナは自分の分の寝袋を取り出し、さっさと横になってしまった。ロムリスも寝袋にくるまる。夏が近いので、ロムリスもシュフェーナも両腕を寝袋の外に出して暑さをしのいでいる。特徴が大きく違う種族どうしの二人であるから、どちらかが寝込みを襲っていかがわしいことに及ぶことはない。夜空はよく晴れている。ロムリスの故郷ではこの時期にあるはずがない明るい星が天上にまたたいている。イリアナがレッセムを追いかけていく。セディーラとレナンタはそれぞれ脚を折り曲げて休んでいる。ロムリスはサンミを胸の前で両手で握って、静かに目を閉じる。