Mizu : ~振り返ってはいけない~
「美豆…?」
どう見ても、普通の一軒家にしか見えない…
でも、門扉の隣りに小さく喫茶店らしき看板がある。
表札ではなく、看板?
流行りの『隠れ家』なのだろうか…
何でもいい…外まで香ってくるこの美しい香りが全てを物語っている。普段、インスタントコーヒーしか飲まない私でさえ、一瞬でこの香りの虜になってしまったのだから。
「いらっしゃいませ。」
看板に気を取られていたとはいえ、全く気がつかなかった…
「あ、あの…」
門扉が開く音、聞こえなかったような…
「驚かせてしまって、ごめんなさいね。よろしかったら、中で珈琲でもいかがですか?」
「はい…」
どうかしてる…
いつもなら、事前にレビューなどを確認してからじゃないと、初見の店に入ることをしなかった私が、行き当たりばったりに立ち寄るだなんて…でも、それだけにこの魅惑的な香りが、本能を擽ってしょうがない。
「あ〜涼しい…」
蒸し暑かった外気とは別世界のような心地よい冷気に、疲れた体が癒されていく…
「今日も暑かったですね。さっ、こちらで先ずお水をどうぞ。」
「ありがとうございます。」
目測で12畳くらいだろうか…リビングを喫茶店として改装したように見える。それにしても、2人用のテーブル席が2セットと少ないし、しかも客が私1人って…
「メニューをどうぞ。」
隠れ家的な店だから、認知度が低くても仕方がないのだろう。検索しても出てこないし、知る人ぞ知るといった、コア層向けな感じなのかな…
「あれ?」
思わずメニュー表を2度見してしまった。
・珈琲 (ホットのみ) ¥450
・気まぐれデザート ¥350
メニューって…これだけ?
気まぐれデザート?? おもしろいかも…
「ご注文はいかがなさいますか?」
「えっと…この気まぐれデザートが気になります!」
「本日の気まぐれは、チェリーパイです。珈琲と一緒にいかがですか?」
「わぁ…お願いします。」
「かしこまりました。」
店主は一見、70代くらいに見えるけど、シワが少なく肌がとても綺麗な人…白髪を黒く染めていたら10歳は若く見えそうなのに、敢えてそうしないのか… 服装は濃紺無地のワンピースにグレーのエプロンと、至ってシンプル。
店内には、レトロなタイプの壁時計があるだけで装飾が全く無い。そしてメニュー表が、超シンプルすぎること。
全ての無駄を省いて生活をしているような…
「お待たせ致しました。どうぞ、お召し上がり下さい。」
「いただきます!」
これは、食べる前から絶対に美味しいと分かるやつ。
旬のさくらんぼを余すところなく敷き詰めたパイからは、さくらんぼの甘酸っぱい香りがほのかに漂って食欲をそそるし、その隣には、一瞬で香りの虜になった珈琲がある。
この『わくわく』した感じ…幼少の時、母親に初めてバースデーケーキを焼いてもらった時に感じた、あの興奮に似ている。見た目は全然違うけど、懐かしい手作りの温もり…味はどうだろう。
「美味しい…」
甘さ控えめなカスタードクリームがさくらんぼの甘みを引き立てていて、香ばしくサクサクのパイ生地とのバランスも絶妙ときてる。これなら、あと2、3個食べても胃もたれしなさそうな軽さがやばい。
「お仕事の帰りですか?」
「あ…ふぁい……はい。」
急に話しかけられて、変な返事になってしまった…
「今日は残業がなかったので…こんなに明るい時間に帰れることが珍しくて、ちょっといつもとは違う方向から帰ってみたんです。そしたら、珈琲の香りがしてきて、こちらの看板を見つけたものですから。」
「そうでしたか…ありがとうございます。この店は、不定期で営業しておりまして、ご縁がないと辿り着けないのですよ。」
「不定期で営業…?」
「ええ、私の気まぐれで始めた喫茶店なので、気の向くままに、気まぐれに営業して楽しんでいるんです。今日はチェリーパイのできが良かったので。」
老後の道楽というものか…利益云々ではなく、ただ単純に美味しくできた物を提供したいという趣味の一環。
「それで、気まぐれデザートなんですね…」
老後を悠々自適に過ごせる人の余裕は、羨ましすぎる。私なんか、後どれくらい社畜として過ごせば、この領域に達することができるのか…独身を貫いた場合は、一生無理だろう。
「気まぐれなのには、理由があるんです。」
「え?」
「気まぐれにケーキなどを焼いていると、それを求めて癒されたいと願っている人に出会えるから。」
「あ……」
仕事に追われて、残業しても大して報われず…休日は一日中寝て過ごす。恋人はいないし、数少ない友人達は皆、結婚して相手にされなくなった。元々趣味はなく、楽しそうだなと思って始めた事も結局続かず無駄にしてしまい、全てにストレスを感じる日々に、いつも癒されたいと願っていた。
癒されたいと願っていた。
「珈琲もどうぞ、冷めないうちに。」
「…はい。」
不思議…珈琲なのに、フルーツのようなほんのり甘い香りがする。いつもなら、砂糖とミルクを入れてしまうところだけど、この珈琲には必要なさそう。寧ろ、素の味を試したい。
「ん?……珈琲ですよね?何て言うか…果物のような味がしますが…」
「ええ、よくお気づきになりましたね。珈琲の実のエキスを少量ですが、入れております。」
「珈琲の実ですか…?」
「ご存知の方も少ないと思いますが、珈琲の実はチェリーのように赤い実を成すので、コーヒーチェリーと言われているの。果肉が少ないため出回ってはいないけど、健康に良いとされる成分が多く含まれているんですよ。」
「そうなんですね…初めて知りました。チェリーパイと相性が良いと感じるのも頷けます。」
「お気に召したようで、何よりです。」
屈託の無い笑顔と丁寧な言葉遣い、シンプルな服装で所作に無駄がなく、とても上品な佇まいの人。でも、何か違和感を感じるのは何故だろう。
「そういえば…店名の美豆って…何か由来とかあるんでしょうか?」
「由来といいますか…読んで字のごとく、良質な珈琲豆で美味しく召し上がっていただきたいという思いでございます。」
「そうでしたか…ですよね。でも、本当に美味しい珈琲に感動しました。普段、インスタントしか飲まない私でも、珈琲の奥深さに触れられて、新たな発見ができたように思います。」
「お褒めの言葉、痛み入ります。」
ボーン…ボーン…ボーン…
「……え?!……20時?…もうそんな時間?」
不意に鳴り始めた壁時計にも驚いたが、入店してから2時間近く経過していたことに…全く気がつかなかった。
「お客様…大変申し訳ありませんが、閉店のお時間になりました。」
「あ…長居してすみません。あの、不定期で営業されてるって仰ってましたが、またこちらに伺いたい時に、来店予約って…できますか?」
「申し訳ございません。生憎、ご予約はお受けしておりません。ご縁があれば、こちらの看板が目印になると思いますので…」
「そうですか…それでは、ご縁があるまで諦めずに足繁く通ってみます。」
「ありがとうございます。…ご無理なさらずに、お身体を休めて下さいませ。それとお帰りの際ですが…………………お願い致します。」
「え?…今、なんて?」
最後の方の言葉が聞き取れなかったけど…何か重要なことだったのか…気になる。聞き返しても、笑顔ではぐらかされてしまった。
「ご馳走様でした。」
──パタンッ
入店してから1時間も経っていないと思っていたのに、外はすっかり日が暮れている。まるで、軽くタイムスリップでもしたかのような錯覚に似た感覚…でも、ほんの数分前まで味わっていた至高の時間を思い出して納得した。
「楽しい時間というのは、あっという間に過ぎて行くんだわ。」
寂しい時間と楽しい時間…時間の長さは一緒でも、感じ方が全く違う。この時間が逆転したらいいのに…
「あっ連絡先…確かレシートに記載があったはず…」
またここに来よう。嫌なこと、寂しいことを忘れられるから…来店予約ができなくても、営業しているか確認できるかもしれない。
「あれ?ない…レシート貰ってなかった?」
…振り返ると、閉めたはずのドアが開いていて…
「あ、すみません。レシートを貰ってなかったようで………?」
……ずっと、そこにいたの?
「お客様…先程言いましたよね?」
「何を…」
あれ?何か変な感じ…
「お帰りの際には…決して、振り返らないように…と。」
それは、最後の方が…聞き取れなかった言葉…?
「でも、聞き返しても教えてくれなかったじゃないですか?」
何?この違和感…
「それでは…長らくの間、お身体をご自愛下さいますように…」
スローモーションのようにドアが閉じていく様子を呆然と見送る間に…私は気がついてしまった。
全ての無駄を省いたような、完璧に整った癒しの空間と、どこか懐かしい愛情のこもった手作りケーキ、魅惑的な珈琲の香り…そして、所作に無駄がなく、上品な佇まいの老婦人。
「……そんなはず…」
この空間に感じていた違和感に、気がついてしまった…
「影が…ない……!」
ドアが閉じていく最後の一時に、微笑む彼女の口元から、覗く何か……
「…い、嫌!」
何が…起きたの?
何が………
確かめなきゃ…
まだ、間に合うでしょ?
間に合うよね?
……………………
─ドンドンドンッ…
「開けて!」
─ドンドンドンドンドンッ…ガチャガチャ…
「開けてください!」
─ガチャガチャガチャガチャ…
「開けて…ください…」
待って…何これ…何で?
「どうして?……痛っ」
頭が痛い…何で急に…こんなことに…
「うそ…看板…無くなってる。」
いつの間に外したの?
──ピンポーン…
「…はい?」
「あ、あの…先程、珈琲をいただいた者ですが、レシートを貰ってなくて…」
「は?…何のことでしょうか?」
声が明らかに違う…まだ30代くらいの若い女性の声、店主の娘…?
「ですから、先程そちらで珈琲を…」
確認しなきゃ…
「何のことか分かりませんが、これ以上は不審者として通報しますよ!」
「あ…も、申し訳ございません。最後に一つだけ…こちらに喫茶店を経営されている…70代くらいの、ご婦人がいらっしゃいませんか?」
「いい加減にして下さい!そんな人はおりません。」
存在しない…?
あの時間は…何だったの?
「い…痛っ」
あれ?そもそも私……何でこんな所にいるんだっけ?確か、帰宅途中だったはず…
今日は珍しく残業が無くて、いつもとは違う帰り道を歩いていて…そしたら、珈琲の香りがして…それで………
◇ ◇ ◇ ◇
「み…ず」
「今井さん?今井優子さん?…聞こえますか?」
誰?私を呼ぶのは…誰?
ここは…何処なのかしら…
私…行かなきゃいけない所があるのよ。
「みず…」
「今井さん?お水、持ってきましたよ。ゆっくりと体を起こしますね。」
「違う…」
「今井さん?お水いらないですか?」
「ええ……私、行かなきゃいけないのよ。珈琲が飲みたいの。あとチェリーパイが食べたいわ。」
確か、さくらんぼを余すところなく敷き詰めたパイと、フルーツの香りがする魅惑的な珈琲…
「今井さん…ごめんなさい。あなたは目が覚めたばかりなので、まだ食べられないんですよ。」
この人、何を言ってるのかしら…
「ああ…そうだったわね。デザートは気まぐれだったわね。でも、珈琲が飲めるならいいわ。」
「珈琲も…まだ飲めないですね…体に負担のかかる飲食はできないんですよ。」
何なの?この人…変なことばっかり言って!
「もういいわ…それで、ここは何処なの?」
「ここは病院ですよ。今井さん…あなたは脳梗塞で倒れたんです。」
「脳梗塞?…そんなことある訳ないじゃない!あなたと話しても仕方ないわ!私は、行かなきゃいけない所があるのよ!」
そう…確認したいのよ。
「今井さん!何処に行こうとしているんですか?」
「美豆…そこに行きたいの!珈琲が飲めるのよ!行って確認したいの!」
「今井さん!それは何処にあるんですか?どうやって行くんですか?何を確認したいんですか?」
「うるさいわね!家の近くよ!帰宅途中にあったのよ!あなたに関係ないでしょっ!」
「今井さん…よく聞いて下さい。あなたは脳梗塞で倒れた後に、意識が戻らなくて…20年間昏睡していたんです。」
…何を言ってるの?
「分かりますか?ずっと眠っていたんです。その間に医療が進化して、あなたは一週間前に目覚めることができました。」
何を言ってるのよ…馬鹿にして…
「目覚めてからは、同じ言動を繰り返しています。つまり、認知症を患っているんです。」
「嘘よ!…そんなの嘘よ!私は、あの場所に行きたいだけ…」
あれ?
あの場所って…何処にあるんだっけ………
……………………………………………………
◇ ◇ ◇ ◇
「Mizu…?」
「そっ、『未だ辿り着かず』という病名。だから略して『ミズ』。」
「え?そんな病名聞いたことないですし、ちょっと無理ありません?」
「まぁ…半分は語呂合わせだから。ただ、『ミズ』という言葉がとても重要らしいのよ。」
「『ミズ』が重要とは、どういうことですか?」
「それはね…吉岡梨沙さん。このカルテをよく確認しておいて下さい。本日から担当なんですから。」
「あ、はい。」
事の発端は約20年前に起きた。
患者の今井優子さん(当時32歳)は、会社からの帰宅途中、道端に倒れていたのを発見されてそのまま入院。今月10日まで昏睡状態にあった。原因は過労による脳梗塞と当時の医師の診断。身寄りはなく、会社も解雇され、国からの援助で今に至る。目覚めてからは、同じ言動を繰り返すようになり、若年性の認知症としてこの精神病棟に移された。
「同じ言動とは?」
「探している場所があるんだそうよ。」
最初の担当医の記述によれば、『ミズ』という喫茶店を探しているようだ…頻りに珈琲が飲みたいと懇願されたと記されている。
胃に負担がかかる飲食はできないと説明するが、聞く耳を持たない。疲労するまで暴言を吐くを繰り返す。時折、幻覚や幻聴の兆候が見られる。
珈琲に含まれるカフェインには中毒性がある為、もしも過剰摂取していたなら、脳梗塞を発症した要因の可能性があると推測される。
「珈琲ね……」
確かに珈琲に含まれるカフェインには中毒性がある。私自身も珈琲が好きでよく飲むけど、1日に3~4杯が限度。10杯近く飲むと、体に何らかの影響が出ると言われるが、そうそう飲めるものではない。
「どう?本人に会ってみたら分かると思うけど、難しいわよ。」
「あの、何ていうか……例えば、単純に今井さんが目的地に辿り着けたら、何かを取り戻せるんでしょうか…」
「さぁ…そうだとしても、失った20年間という代償は大きいわね。それ程に価値のある事だったのかしら。」
「確かに…」
今井さんが脳梗塞を発症したのは32歳だった。失った20年があれば、その間に家族を持てたり…様々な経験ができたに違いない。
「先輩…ちょっと忘れ物をしたので、取りに行ってきます。今日は挨拶だけにしようと思いますので、後は私1人で大丈夫です。」
「そう?了解。」
もしも私だったら…
訳が分からないまま更に時が過ぎていく姿を他人に傍観されながら生きていく…考えただけでも切ない。
何かを取り戻せるなら、これはその手段の一つになり得るはず。
─コンコンコン…
「今井さん、こんにちは。本日から担当の吉岡と申します。宜しくお願い致します。」
「……その香り。」
「ああ…流石ですね。今井さんは、珈琲がお好きと聞きましたので、少量ですが用意しました。飲みながら、少しお話しませんか?」
「ありがとう。」
想像していた人物像と違っている。暴言を吐くという記述があったから、勝手にもっと尖ったイメージを持っていた。それとも、精神安定剤が効いているからか…
「美味しい。あなただけよ…珈琲を持って来てくれたの。」
「私も珈琲が好きなので、少量なら問題ないですし。後、当時の事を何か思い出せないかなと…」
「思い出すって…ただ、珈琲が飲みたかっただけよ。」
今井さんは、某出版社に務める有能な社員だったそうだ。ふと見せる表情から、その当時の彼女を彷彿とする強い眼差しを感じる。けれど、残業続きの日常が彼女の心身を蝕んでいたのだろう。
「ええと…それでは、『ミズ』について、お伺いしたいのですが…」
── バンッ
「あなた!『ミズ』のことを知ってるの?!」
この反応は何?穏やかだった表情が一瞬で別人みたいに…
「いえ…あの、以前の担当医から、今井さんが『ミズ』という喫茶店を探していると、聞いていたものですから…」
「喫茶店?…そうだったかしら…看板があったのよ。」
「看板ですか?」
何かを思い出している?
「そう…『ミズ』という看板があったのよ。こんな所に?って思っていたら、中に通されて…でもね、そこで食べたチェリーパイと珈琲が美味しくて…特に珈琲は格別だったわ。」
『ミズ』という喫茶店があった。
そこまでは記述にある通りだ…問題は何故、そこに固執するのか。その喫茶店で飲んだ珈琲に感動したから?ただ、それだけの理由で?
「その喫茶店の場所は覚えていますか?現在も存在するのか、調べてみましょうか?」
「どうかしら、そこの老婦人が言っていたの。気まぐれで営業するから、中々辿り着けないんですよって…それで、私………………」
「今井さん?どうかしましたか?」
どこを見るでもなく、脳裏に浮かぶ何かの映像でも観ているような…
「今井さん?大丈夫ですか?」
「あっ…何だったかしら?…私、行かなきゃいけないのよ。行って確認したいの!」
「『ミズ』に行って、何を確認したいんですか?」
── バンッ
「あなた!『ミズ』のことを知ってるの?!」
ループしている…
『ミズ』というワードに反応してループしてしまうのなら、先に進むのは難しい。
…珈琲を飲ませたことで、もっと核心に近づけると思ったのだが…
「今井さん、ごめんなさい。今日はここまでにしましょう。また明日、お話しましょうね。」
「あなた、今…何歳?」
え?
「あ…32です。」
「そう……いいわね。」
質問された。
…もう少し、掘り下げられるのか試してみるか…
「今井さん?どうして急に、年齢なんて…」
「…『ミズ』という看板があったのよ。こんな所に?って思っていたら、中に通されて…」
ループ…
こちら側が質問すると、ループに入ってしまうようだ…
『ミズ』とそれ以外の『ワード』によって、ループする分岐点が違うのかもしれない。
どちらにせよ、今日はここまでにしておこう。
「今井さん?…また明日、珈琲を持って来ますね。…では、失礼致します。」
「私も32歳だったの…」
「今井さん?」
──ゾクッ…
どうして…?
「当時は、とても忙しくて充実していたけど、同時に寂しくもあった…自分だけ、周りから置いていかれている疎外感があった。だから、わざと忙しくしていたのかもしれない。」
どうして……微笑っているの?
「何かを…思い出したんですか?」
何を思い出して、こんな風に微笑えるの?
「あなた…振り返ってはいけなかったのよ。」
振り返る?
今、振り返った……それのこと?
「今井さん!何が可笑しいのかは分かりませんが、私は真剣です。教えて下さい。『ミズ』で何があったんですか?」
ループしないで…お願い。もう少しで核心に近づける。
「…分からない。もう一度辿り着けたら、確認したいことがあった。」
「それは何ですか?」
そう…今井さんにとっての核心は、確認したいこと。それが分かれば……
「彼女の…目的。」
今井さんはその後、ストレスを受けたことによる顔面神経麻痺を起こし、暫くは誰とも話せない状態になった。私は無理をさせたとして担当を外され、謹慎処分として一週間の自宅謹慎を下された。
「先輩…ご迷惑お掛けして、本当に申し訳ございませんでした。」
「…吉岡さん、確かにあなたが無茶をしたことは否めないけど、でも…誰も意識してできなかったことを成し遂げたのは、評価されるべきだと思うわ。だから、戻って来てね。」
「はい。ありがとうございます。」
先輩は、私が責任を取って、このまま退職する意向であることを察知したんだ…
◇ ◇ ◇ ◇
「はぁ…」
当時の今井さんが、自分と同い年だったということもあり、他人事のように思えなかった。だとしても、勝手に自分本意に動いて…自己満足の為に、今井さんを傷つけてしまうなんて…有り得ない。探究心が強いことは、私の長所でもあり短所でもある。この反省点を踏まえたとしても、やはり退職するべきだろう…
「まだ…16時か…」
こんなに早い時間に帰宅できたこと…なかったな。折角だし…回り道して帰ろうか。
今の私には、少し気分転換が必要だ。
「…あれ?こんな所にパン屋があったなんて…」
引越して3年近く経つけど、会社との往復で、自宅周辺を今まで意識して歩いたこともなかった。閑静な住宅街だから、どうせ何も無いだろうと気にも止めていなかったし、もう何年も前から欲しい物、食べたい物は全て、ネット注文で事足りている。
でも…こんな風に、新たな発見があるのは、楽しいかもしれない。というか…もっと早くに探索していればよかった。こういう事態でも起きない限り、辿り着けない場所がある。
◇ ◇ ◇ ◇
「美豆 ……?」
喫茶店?…どう見ても、普通の一軒家にしか見えないが…門扉の隣りに小さく喫茶店と思われる看板がある。読み方は…何て読むんだろう。
びまめ?びず?
それにしても、素晴らしい香り。外まで香ってくるこの美しい香りが良質な珈琲だと物語っている。
「いらっしゃいませ。」
看板に気を取られていたとはいえ、全く気がつかなかった…
「あ、あの…」
門扉が開く音、聞こえなかったような…
「驚かせてしまって、ごめんなさいね。よろしかったら、中で珈琲でもいかがですか?」
「あ、はい…是非。」
いつもなら、行き当たりばったりに立ち寄るなんて決してしないことだけど、この美しい香りの珈琲は、飲んでみる価値がありそうだ。
「いい香りですね。」
玄関に通されると、更に珈琲の香りを強く感じたが、焙煎された豆が程よく寝かせられていたのだろう…何とも言えない心地良い香りに包まれた。
「珈琲がお好きそうですね…先ずはお水をどうぞ。」
「ありがとうございます。」
リビングを喫茶店として改装したように見えるが…客は、私1人か…
「メニューをどうぞ。」
「え?」
思わずメニュー表を2度見してしまった。
・珈琲 (ホットのみ) ¥450
・気まぐれデザート ¥350
「メニューって…これだけですか?」
「はい。ご注文はいかがなさいますか?」
正直、このメニューで経営は成り立つんだろうかと、余計な心配をしてしまう。
「えっと…この気まぐれデザートとは?」
「本日の気まぐれは、チェリーパイです。珈琲と一緒にいかがですか?」
チェリーパイか…ちょっと重たそうだな。
「…すみません。今日は珈琲だけでお願いします。」
「かしこまりました。」
この店主…何歳だろう。
40~50代くらいだろうか…小柄で痩身だから若く見えているのか…濃紺無地のワンピースにグレーのエプロン姿という地味な装いが、年齢不詳に見せているのか…
それにしても、何だろう…違和感を感じる。
店内には、レトロなタイプの壁時計があるだけで装飾が全く無く、シンプル過ぎるメニュー表に、シンプルな装いの店主。まるで、全ての無駄を省いて生活をしているような…
…何に違和感を感じているんだろう。
「お待たせ致しました。」
いい香り…
フルーツのようなほんのり甘い香りがする。
「美味しい…」
しっかり濃い色をしているのに、苦味が無く澄んでいて、フルーティーな味わいがとても飲みやすい。
「お仕事の帰りですか?」
「ええ…今日は少し早く帰れたので、いつもとは違う方向から帰ってみたんです。そしたら、珈琲の香りがしてきて、こちらの看板を見つけたものですから。」
「そうでしたか…ありがとうございます。この店は、不定期で営業しておりまして、ご縁がないと辿り着けないのですよ。」
「不定期で営業…?」
「ええ、私の気まぐれで始めた喫茶店なので、気の向くままに、気まぐれに営業して楽しんでいるんです。今日はチェリーパイのできが良かったので。」
「それで、気まぐれデザートなんですね……」
ちょっと待って…聞き覚えのある『ワード』が沢山あって、整理が追いつかない。まずは落ち着いて…考えてみよう。
『気まぐれ』、『珈琲』、『チェリーパイ』、『辿り着けない』、『喫茶店』、『看板』…
待って……『看板』?
これは全て20年前、今井さんが倒れる前に経験したことと同じ…今朝本人から聞いた、以前の記憶そのもの。それを現在、私が目の当たりにしている?
まさか……
…でも、確認しなきゃ…
「あ、あの…こちらの店名って、何とお読みするのが正しいんですか?門扉の隣にあった、看板の読み方が…わ、分からなくて。」
「…美豆と申します。」
──ゾクッ…
…繋がった。
『ミズ』=『美豆』
やはり…今井さんは、20年前にここに来ていたんだ。
「そう…ですか。」
何故、私がこの場所に辿り着けたのかは分からない。何かしらの接点があったのだろうか…
「気まぐれなのには、理由があるんです。」
…え?
「気まぐれにケーキなどを焼いていると、それを求めて…癒されたいと願っている人に出会えるから。」
癒されたいと願っている人に出会えるから…?
それが……『目的』?
今井さんが辿り着けなかった『目的』は、そんな安易に抽象的なはず……
癒されたい…?
それが、私が辿り着けた接点ということ?
ボーン…ボーン…ボーン…
「えっ?!……20時?……嘘でしょ??」
入店してから3時間以上も経つはずがない!
もしかして…ここだけ時間の流れが普通じゃない?!
そうだ…違和感。
この部屋に入って、直ぐに感じた違和感。
全てが、シンプルに纏められていて…
まるで、一切の無駄を省いたような空間……
無駄を省いたような……
この店主……
…影が……無いように…見えたような…
「お客様…大変申し訳ありませんが、閉店のお時間になりました。」
「…あ、はい。」
まさか…ね。
「…ご馳走様でした。」
足元、服のシワ、脇に……影は、ある。
気のせいだろうか…
分からない…でも、この違和感は間違いない。
自分の直感は信じられる方だ。
もう少し、時間があれば…
もっと、確かめたい。
「…あの、不定期で営業されてるって仰ってましたが…またこちらに伺いたい時は、事前に連絡しても宜しい…ですか?」
「申し訳ございません。生憎、ご予約はお受けしておりません。ご縁があれば、こちらの看板が目印になると思いますので…」
きっと…この店には、二度と来られないだろう。
「そうですか…残念です。次こそは、気まぐれデザートを食べたいと思ったのですが…」
店を出る前に、どうにかして…聞き出すことはできないだろうか。
「お客様…大変失礼なことをお尋ねしますが、睡眠はよく取れていますか?お顔色が優れないように見えましたので…」
……どうして急に、私の体調の心配を?
でも、話を引き延ばせるかもしれない。
「私…ショートスリーパーなんですよ。職業病という厄介な病気を患ってまして。でも…今日から暫くお休みを頂いたので、また此方に来られればと思ったのですが…」
「そうでしたか……お客様はとてもお若く見えますが、まだ20代くらいですか?」
「いえ…32歳です。」
何で?…急に年齢を聞いてきたの?
「その年齢が一番いい時ですよね。なのに…睡眠不足はお肌の大敵です。ご無理なさらずに、ゆっくりとお身体を…休めて下さいませ。」
心がザワつく…この空間に感じる違和感や、この店主の何気ない表情から感じる不気味さが…本能的に危険を感じているみたい。
「あ…ありがとうございます。」
何気ない表情………表情……?
「お客様、お帰りの際ですが…」
気がついて…しまった。
「これより先は…」
顔に……
「…決して」
……影が……………
「…振り返らないようにお願い致します。」
……………………………無い。
── パタンッ
「あああ……ああ…」
振り返ってはいけない。
今井さんに言われた言葉……
『あなた…振り返ってはいけなかったのよ。』
──ゾクッ…
一刻も早く帰ろう…
この場を早く離れないと…
私も今井さんのように…
「ねえ。此処の事…誰に聞いたの?」
── ビクッ…
ドア越しに聞こえてくる声…さっきまでと様子が違う。
振り返ってはいけない…
「な、何の事でしょう…か?」
「知りたい事、全部教えてあげる。」
知りたい事…全部…?
ダメよ!
この店主は、危険だわ。
早く逃げないと……
でも…知りたい…
「今井 優子さんという、私の患者です。以前ここに来て、20年間も眠り続けました。目覚めた彼女は知りたがっています。」
知りたい……
「あなたの目的を…教えて下さい。私は医者として、彼女を救いたい。」
知りたい……知りたい…
「ふふふ……綺麗事を並べて、自己満足?探究心が強く、好奇心旺盛なお医者様。他人の転落人生は面白いでしょ?」
「ち、違います!」
「疲れているんですよ…貴方も、彼女も。だから、他人の幸せを妬み、他人の不幸を笑い、弱者を蔑むんです。」
違う…違う…
「私の目的は、充たされていない人に癒しを与えたいだけ…美味しい珈琲と、チェリーパイで満たされたら、時間をかけて疲れを癒す。…その報酬を貰って、何が悪いの?」
「報酬?」
報酬って言った?
「あともう少しで、理想的になれそうなのよ。だから…邪魔をしないでよ。」
まさか……………
「時間…」
そういえば…今井さんは、店主のことを『老婦人』と言っていた。どう見ても40~50代の人をそう呼ぶことはない…
「若返り…のため?」
─カチャッ
「ご名答。私、勘の鋭い人は嫌いなの。」
後ろにいる…
「!…」
声が出ない…
「やっぱり、チェリーパイを食べないとダメね。忘れないのよね…」
離して!…何をするつもり?
「最期に、もっと詳しく教えてあげる。此処に辿り着ける人にはね…共通点があるの。」
体が動かない…離して
「寂しさを忙しさで埋めて、安寧に暮らしている人を妬み、自己肯定欲が強く、傲慢で他人を見下す。下品で卑しくて…」
………やめて!!
「…孤独な女。」
今井さんの、あの微笑みの意味…
微笑んでいたんじゃない……
笑ってなんかいなかった……
…あなたは、これをしたかったの?
口元から……覗く
……漆黒の蠢く……何か……
─── ああああああああぁぁぁ………………
……………………………………………………
◇ ◇ ◇ ◇
「美豆 ?」
喫茶店?…普通の一軒家にしか見えないけど…
門の隣りに小さい看板?読み方は…何て読むんだろう。
「びまめ?…」
確かに…珈琲の香りがするけど、こんな店…前からあったっけ?
「いらっしゃいませ。美豆へようこそ、お客様。」
いつの間に?看板に気を取られて、気がつかなかった…門が開く音、聞こえなかったよね?
「驚かせてしまって、ごめんなさいね。よろしかったら、中で珈琲でもいかがですか?」
珈琲か…まぁいっか。
「は〜い。」
へえ…外見は普通の家だけど、中は昭和レトロな喫茶店って、感じ…こういうの、また流行ってんの?SNSに投稿しても、微妙かもだけど…
でも…
「…いい香り。」
こんなにいい香りがするのに、私1人か…人気ないのかな?
「メニューをどうぞ。」
「え?」
思わずメニューを2度見してしまった。
・珈琲 (ホットのみ) ¥450
・気まぐれデザート ¥350
「メニューって…これだけ?」
「はい。ご注文はいかがなさいますか?」
ふ~ん。変な店…でも、これは気になる。
「気まぐれデザートって、何ですか?」
「本日の気まぐれは、チェリーパイです。珈琲と一緒にいかがですか?」
チェリーパイか…食べてみたいかも。
「…お願いしま〜す。」
「かしこまりました。」
このオバサン…30代かな?地味なワンピースにエプロン姿が、逆に年齢不詳に見えるんだけど。
「お待たせ致しました。」
「わぁ…チェリーがいっぱい乗ってて可愛い!」
これは、映えそう…SNSに上げちゃえ。
「お客様、大変申し訳ございません。撮影はご遠慮願います。」
「ええ?!ダメなんだぁ…」
つまんないの…帰ろっかな〜なんか萎えた。
「お客様…とても可愛らしいですね…まだ10代ですか?」
お?…どうした?急に…
「10代に見えます?…20歳で〜す!」
「いいですね。何でもやり直しができる歳じゃないですか?羨ましいわ。」
「いやいや、お姉さんこそまだ20代でしょ?」
「いいえ。もう32歳です。世間ではオバサンって、呼ばれる歳ですよ。」
分かってんじゃん…ババア。
まぁ…せっかくだから、食べて帰るか……
「あっ、美味しい!このチェリーパイ好きかも。」
「それは良かったです。珈琲もどうぞ、召し上がってみて下さい。」
珈琲にはいつも、砂糖とミルクを入れちゃうんだけど…
「これは…そのままでも美味しい!果物みたいな味がする!」
「お気に召したようで…何よりです。」
あれ?………眠くなってきた?
「眠いですよね?いつも遅くまで配信されてますものね?」
「な…なんで……知って…」
あれ?
「……るの…?!」
声が…出ない?
体も動かな…い?
何か……入れられ…た?
「貴方はとても運がいいですね。この店は、私が気まぐれに開けた時だけ入れる店なんですよ。それは、偶然なのか…必然なのか…」
や…やばい…何かされる…
逃げな…きゃ……
「本当に20歳って…いいですよね?何でもできますもんね?あああ……理想だわぁ…」
やばい…やばい…やばい…
「でもね…」
いや…
「若いって、それだけで……」
いや…来ないで…
「……傲慢なんですよ!」
やだ…ごめんなさい…
「大丈夫よ、死なないから。ただ、少し…」
ごめんなさい…ごめんなさい…
「…時間をもらうだけ。」
── いやああぁぁぁ…ぁああ…ぁぁ……………
「それでは…長らくの間、お身体をご自愛下さいますように…暫しのお別れです。」