10th.03『再会』
︵︵︵︵︵
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
男が一人、逃げている。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
足取りは重く、しかし遅くもなく。必死に、何かから逃げている。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
その想いは膨れ上がって、その他のものを押し潰す。
その、成れの果てこそが⸺
︶︶︶︶︶
トイレ。
トイレ男が絶対に譲る事のできない、命よりも大切なもの。
「入ってきて頂戴」
フィリアがそう言うと、ドアを開けて下僕が一人部屋に入ってきた。その手にはトイレがある。
「っ!!」
思わず机に手を突いて立ち上がる。その姿をしかと目に焼き付けられるのはいつぶりだろう。前回は前半は暗闇の中で、後半は感覚を封じられていたので触る事はできても見る事はできなかった。という事は前々回⸺フィリアに連れられて、館の残骸で出来た山を見せられた時だろう。
「……………………」
小黒男のあの憎しみに塗れた形相を思い出した。
「見ての通り、私達はまだあれに手を付けてはないわ。でも⸺私の誘いを受けなければ、どうなるかしらね?」
それは最早勧誘ではなく脅迫だった。
フィリアは立ち上がり、トイレに寄ったかと思うと、あろう事か爪でトイレを引っ掻いた。キィー、と耳に耐え難い音が響く。
「……………………」
「まぁ、すぐには決められないだろうから、後でまた来るわ。少しの間だけど、一人でじっくり考えてみて頂戴」
そう、フィリアと下僕はトイレを持って部屋を出ていった。
パタン。ドアが閉まる。
「……………………」
トイレ男は独り残された。
「……………………」
どうするべきか。
フィリアの誘いを受けなければ、トイレがどうなるかわからない。ただでさえ九つのヒビが入っているのだ、乱暴に扱われたらいつ壊れてしまうか知れたもんじゃない。
それに、誘いを受ける条件として襲撃を止めさせる事ももう難しいだろう。あちら側はトイレ男が抵抗するようなら幾らでもトイレをチラつかせればよいのだ。壊してしまったら人質として機能しなくなるのでそこまではしないだろうが、相手はあのフィリアだ、壊してしまうかもしれない。一応時間をくれはしたが、相手の中ではもうトイレ男の選択は確定しているのだ。
……何なら、今この間に館を襲いに行っているのかも知れない。
「…………っ」
そう思うと居ても立ってもいられなくなって、トイレ男はドアに向かって歩き出した。今更だが、拘束は無いらしい。
「……………………」
ドアの鍵も無かったようで、ドアは蝶番が軋む事もなくすぅーと滑らかに開いた。
そしてまた監視も無く、廊下には誰も居なかった。
「……………………」
いや、おかしい。トイレ男は一旦ドアを閉めて落ち着く。
拘束が無いのは、まぁいい。ただ部屋の鍵も外の監視も無いのはどういう事だ。これでは是非とも出ていってくれと言わんばかりではないか。ノコノコと出ていけばそれはフィリアの思う壷だろう。かといって大人しくしている訳にも行かない。「…………」、考えるまでもなくトイレ男の行動は一つしかない訳だ。
では何故フィリアはトイレ男が好きに出歩ける状態にしているのか? もしかしたらすぐにこの建物から逃げ出してしまうかも知れないのに。いやトイレを回収せずに逃げはしないが。「…………」、トイレが常にフィリアの隣にあって、トイレ男がトイレを回収しようとすればどうしてもフィリアと接触してしまうようになっているのだろうか。それなら確かに、トイレ男の脱走防止という目的は達せられている。だが、部屋に鍵を掛けた方が遥かに簡単だ。ドアを見ても別に鍵が付いていない訳でもない。
「……………………」
あの女なら別に酔狂で、トイレ男がどうするか知りたくて……という事も有り得るが。
トイレ男は結論は出せないと結論付け、改めてドアを開けた。
「っ!?!?」
心臓が飛び出るかと思った。
何故ならそこには一人の下僕が居たからである。
「……お待ち……して……おりました……」
「……………………」
いやお前さっき居なかっただろ。トイレ男が一回ドアを開けて閉じて、そしてまた開けるまでの間にここに来たという事だ。
そして待っていたっていうのは何だ、何か用でもあるのだろうか?
「……フィリア様が……お呼びです……」
「……………………」
フィリアが?
彼女の仲間になるかならないかを決めろという事だろうか。いや、その話なら彼女は自分の足でここに来るだろう。つまりは別の話題だ。
「……………………」
断るのも後々の事を考えると恐ろしい。
下僕に頷いてみせると、下僕はすたすたと背を向けて歩いていった。トイレ男はその後ろを付いていく。
◊◊◊
黒女と黒男は地下水路に立っていた。
白女に姿の見えなくなったトイレ男の居場所を訊いた所、『わからない』という珍しい返答が返ってきたので、候補となった三つの場所の内一つに二人で来たのである。
「どうする? この辺りを探し回るか?」
黒男がそんな提案をするのは、辺りに何も見えないからだ。白女の描いた地図によると場所はここで間違いないのだが、何も見えない。
「……いや。白姉が見れないんなら、私達にも見えないだけかもしれない」
「おい、それって」
黒女が虚空に向かって突き進む。
と、何やら透明な壁にぶつかった。
「ほら! あった!!」
「……せめて歩けよ」
跳ね返って尻餅を突きながらも嬉しそうに報告する黒女に嘆息して、黒男もその壁に寄った。
と、
ガチャリ。
「……何してるの?」
ドアが開く音がしたかと思えば、虚空から女が上半身を生やしていた。
「……えっと」
黒男は困惑した。
が、黒女は、
「ツァーヴァスはどこ?」
と物怖じせずに問う。
「ツァーヴァス……? 誰かしら、それは」
「トイレを持った、ヒョロヒョロの男よ」
「…………あぁ!」
名前だけでは伝わらなかったが、特徴を伝えるとそれに一致する人物に心当たりがあるようだった。
「その子なら中に居るわ」
「! すぐに返しっ⸺」
「まぁまぁそう逸らないで。是非中に上がって?」
なさい、と続けようとした黒女だったが、女に止められて、不承不承ながらも彼女の誘いに乗った。彼女が上半身を生やしている所から透明な壁の内側に入る。途端に、外からは見えなかった内装が見えるようになった。
「うわ、すげ」
後から来た黒男がそんな感想を漏らした。
内装は至って一般的な木造の屋敷といった感じだった。女の後に続き、とある一室に案内される。
「ちょっと下僕」
「……は……」
女が中に居た人物にそう話しかけるものだから驚いてしまう。使用人……なのだろうか? 黒女や黒男と同じような黒い服で全身をすっぽり覆っているので怪しいが、机を拭いているのを見るに、使用人のようなものだとは思われる。
「あの子を呼んできてくれるかしら」
「……畏まりました……」
下僕は一礼して、黒女達の横をすり抜けて部屋を出ていった。
「さぁ、今彼を呼びに行ってもらったから。座って待っていて頂戴」
女の言葉に従って、二人は椅子に座る。女はその向かいに座った。
「自己紹介をしましょうか。私はフィリア」
「……アーニ」
「ハミーだ」
二人はやや警戒しながら名乗った。
流れでこんな事になっているが、フィリアの正体が不明な以上、警戒を解く訳にもいかないのだ。トイレ男に何か手を出したというような態度は見られないが、敵か味方かかも知れぬ相手に警戒をしないほど黒女は楽観的ではないつもりだ。
「アーニに……あ」
フィリアは二人の名前をどこかで聞いた事があるのか、何か思い出したように口元を抑えた。
「?」
「あぁ、いえ、気にしないで頂戴」
疑問符を浮かべるも、はぐらかされてしまう。
警戒心を強めていると、ドアがノックされて、開かれたかと思うとそこには先程の下僕が居た。
「……お連れ……致しました……」
そして、その後ろには⸺
「っ!」
驚いた顔のトイレ男が居た。




