10th.02『勧誘』
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⸺ベッドの上に横たわる冷たい体に、一人の男が縋り付いている。
「そもそも俺が、俺なんかが、あんな奴に敵う筈が無かったんだ⸺」
男は慟哭していた。果てしない積み重ねの上に漸く手にした勝利は偽物で、結局は、男がどれだけ積み重ねようと、本物の勝利を得る事などできないのだと。
男は徐ろにマッチを取り出すと、火を付けて、それを床に落とした。
火は床に燃え移り、ベッドに届き、壁を焦がして、やがては建物全体を覆い尽くし、何もかもが、無くなった。
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「少し、二人きりで話したいのだけど」
「っ…………」
フィリア。優男に地下水路に落とされた事から始まる一連の事件の黒幕。
トイレ男は落ちた後、どのような行動を取っても最終的には彼女の元に辿り着き、苦しめられ、最後には黒女達が襲われる。
一貫して"愛"を謳っているがその中身はぐちゃぐちゃで、とてもトイレ男の知る『愛』の化身ではありえない。
「まず、私はフィリア。貴方は?」
「……………………」
トイレ男は口を噤んだ。どうやらフィリアの中では既にこの後館を襲う事は確定しているらしいので、下手に名乗って仲間だと思われたくない。これまでの情報から、フィリアはトイレ男の正体が見ただけではわからない事、そしてわかったらトイレ男を拘束するであろう事は確かなのだ。今トイレ男がやるべきは襲撃を止める事で、動けなくされる事ではない。
「そう、言いたくないのね」
フィリアは黙り込むトイレ男に、「ならいいわ」と微笑んだ。
「まず、貴方は今の自分の状況をわかってる?」
「……………………」
トイレ男は否定も肯定も表さず、自分の今の状況を整理した。
まず、どうやら自分が【眼】を開いたらしい事。頭の中に濁流の如く流れ込んできた情報の中には、トイレ男を抱える下僕達とフィリアの会話もあった。そこからトイレ男の状態は簡単にわかる。今情報が流れてこないのは、薬か何かで一時的に細目にさせられているからだ。
そして記憶。トイレ男はトイレで巻き戻る度に記憶を失うのが常であったが、今は違う。巻き戻って少ししか、少なくとも記憶が戻るような時間は経っていないのに、記憶がある。今回は失わなかった⸺否、見失わせられた後、再び見付けたというのが正確な所だ。
どうやらトイレは、時を戻す度にトイレ男の頭から記憶を取り上げているのではないらしい。記憶はトイレ男の頭の中に置いたまま、トイレ男が意識できないようにしているのではなかろうか。それを今回は無理矢理【眼】で認識した訳だ。記憶があの濁流の中にあった訳ではないにも関わらず、今記憶がある事から推測した事ではあるが。取り敢えず、【眼】が開いた以上、これから巻き戻るたびに記憶を失う心配はしなくてよい⸺かもしれない、という事だ。
「……………………」
自己の状況を確認したトイレ男は、微かに頷いた。下僕達とフィリアの会話から、この会談の内容は予想が付いた。
「そう、流石【眼】を開いた者ね。なら単刀直入に言うけど⸺貴方、私の仲間にならない?」
予想通り。フィリアの仲間へのスカウトだ。
「……………………」
トイレ男は考える。
残念ながら情報の濁流の中に、フィリアの目的や行動原理といったものは入っていなかった。薬を与えられるのがもう少し遅ければわかったかも知れないが、それだと脳が耐えきれずパンクしていた可能性もあるので、まぁ運が悪かったと思う事にする。相手の動機目的は不明、いつかの衛兵の詰所の時と一緒だ。
「……………………」
ふと思う。あの時は結局、黒幕の茶男の目的は黒いネックレスだった。そしてフィリアの胸元を見ると、それを全く同じものが(細部は異なるかも知れないが、遠目には同じに見える)ぶら下がっている。茶男が求めていた物をフィリアも持っている、という事には何か意味があるのだろうか。
「……………………」
今考えてもそれは打開策にはならない。そう結論して、状況整理に戻る。フィリアの目的が不透明な一方こちらの目的は明確で、『フィリアによる館襲撃を止める事』だ。正直、これを呑んでもらえるのなら、トイレ男はフィリアの仲間になって構わない⸺いや、どうだろう。少し怖くなってきた。フィリアの仲間になる、それは多分下僕達の仲間入りをするという事なのだろうが、彼らはデッドを止めるために躊躇なく仲間の命を絶っていた。トイレ男はその希少な能力のためにスカウトされるのだから殺される事はそうそうないだろうが、彼女に愛だなんだ言って日常的に暴力を振るわれる事は有り得る。「…………」、よし、やっぱ嫌だ。フィリアの要求はなるべく呑まない方向で行こう。
ではどうやって襲撃を止めさせるのか。こちらに相手の要求を呑む気が以上とっくに交渉は決裂していて、即ち言葉による解決は難しい。ならば、相手に襲撃を行えなくさせればよいのでは? それは別に殺すという事ではなく、武器を使えなくしたり、相手を動けなくさせたりするだけでもよい。
「……そうね、急に言われてもよくわからないわよね」
思考がどんどん目の前の事から離れていたが、フィリアのその一言で一気に戻らされた。そうだ、まずはこの狂人との会話を乗り切らねばならないのだ。
フィリアは指を三本立てて、
「私の仲間になるメリットを、三つ提示しましょう」
「……………………」
などと言い始めた。聞く気はない。聞きたくもない⸺が、本当にどうしようもなくなった時は、嫌々でも彼女の仲間になるという可能性もある。聞いていて損はない、筈だ。碌なものが来るとは思わないが、それでも耳を傾ける。
「まず一つ。私とベッドを共にできる」
トイレ男は耳を傾けた事を早くも後悔した。
トイレ男にも性欲はある。が、フィリアにそれを向けられるかと言われれば否だし、向けたいかと訊かれれば断じて否だ。確かにフィリアは体付きはいいかも知れない。だが性格が終わっていた。プレイと称してどんな仕打ちをしてくるか想像もできない。
「あら? そんなに嫌がる事無いんじゃない? 自分で言うのも何だけれど私は昔は良い女として評判だったし、主導権だって貴方にあげるわ」
「……………………」
いや、いい。その事はいいから早く次に行ってくれ。
トイレ男のその念が伝わったのか、フィリアは更なる深堀りはせず、指を一本折った。
「二つ目。永久に三食おやつ昼寝付きの生活を保証するわ」
「……………………」
正直、これにはちょっと惹かれないでもない。ただその対価として要求される労働内容が不明な以上決定的な理由には⸺
「勿論タダではないけれど。私の身の回りの世話と護衛、これだけをこなしてくれればいいわ」
「……………………」
え? 労働内容、それだけ?
トイレ男が見ただけでも、フィリアの下僕の数は相当数に登る。あの数で、フィリアの世話と護衛。担い手が多すぎないだろうか。一人当たりの仕事量はかなり少ない筈だ。勿論デッドが来た時などは命の危険が高いが、それでも普段は……
「……………………」
何を言っている。そもそも今の生活だってそんな悪いもんじゃないだろうが。そう、頭を過ぎった選択肢を殴り飛ばした。決して楽ではないが、楽しいのが今の生活だ。果たして、彼女と共に送る生活に楽しさはあるのだろうか。
「……ダメみたいね。なら最後の一つ、いくわよ」
フィリアは指をもう一本折った。
「⸺トイレを、返してあげる」
「⸺っ」
トイレ男の目の色が変わった。
そうだ、トイレはあちら側が持っている。トイレ男が何が何でもそれを取り返さなければならない以上、力ずくで奪い返すのでもなければ、トイレ男は向こうの要求を呑まねばならない。
そもそも、この会談、前提条件から、トイレ男が圧倒的に不利なのであった。




