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07th.18『暗闇に独り』






「ッ⸺!!」


 落ちる。


 穴の深さはトイレ男の身長を優に超え、寧ろトイレ男三人分ぐらいはありそうである。そんな高さを頭から落ちるのだ、下手したら死ぬ。


 とはいえ、空中で思い通りに動く技能を修めた訳でもなければ運動が得意でもないトイレ男にできる事はほとんどない。精々できたのは、トイレを抱き込み丸まる事だけだ。後は当たり所がよくある事を祈る事しかできない。


 幸運にも、体を丸めた時に縦方向に回転の力が加わったようで、トイレ男は背中から地に激突した。


「ァッ」


 空気の塊が喉を破るように漏れる。視界が眩む。


 そのボヤけた視界で、せめて自分を押した人物の様相でも記憶してやると穴の方を凝視した。


 トイレ男を上手く落とせたのか確認しているのか、犯人は穴の中を覗き込んでいた。逆光で顔は見えない。見えなかったが⸺満足したのか、頭を穴の上から動かす時に、その横顔を僅かではあるが見る事ができた。


 それは、明らかに優男の顔であった。


「!!」


 どうして。


 そう思うも、疑問を文字にする暇は無く、優男によって穴に蓋をされてしまった。


「……………………」


 閉じ込められた。


 何故、どうして、今になって⸺疑問は尽きない。尽きないが、遅れてやってきた背中の痛みがそれらを掻き消した。


「〜〜! 〜〜!!」


 元々の地面が湿っているので、出血しているかどうかは感覚ではわからない。取り敢えずトイレを脇に置き、うつ伏せになる。洗えはしないが、傷を汚い地面に触れさせ続けるよりはずっとマシな筈だ。


 灯り一つない、悪臭漂う地下水路で、トイレ男は暫くそうやって横たわっていた。


「……………………」


 引いたのかそれとも慣れただけなのかはわからないが、思考に堪える程度には痛覚は弱まった。鼻は麻痺して、悪臭は感じない。


 まず思い浮かんだのは黒女の事だ。彼女は突然消えたトイレ男の事を探しているだろう。心配してくれているのではないだろうかとも思う。とはいえ、トイレ男をおびき寄せるのに使われたトイレはすぐに撤去されただろうから、ここがわかるかはわからない。


 次は優男だった。彼は一体どうして、今更トイレ男をハメるような事をしたのだろう。打ち上げの時の対話で、トイレ男は巨女に対し何の悪意もないと信じてくれたのではなかったか。あれは嘘だったのか、或いは考えを変えたのか。変えたのならどうして変えたのか。何が彼に再びトイレ男は悪であると思わせたのか。心当たりはなく、答えも知れない。


 ふと、トイレ男は目の前のトイレに意識を向けた。


「……………………」


 このまま自分は死ぬのだろうか。優男がわかりやすい痕跡を残しておいてくれたら、黒女が気付いて、助けに来てくれるだろう。だが優男は周到な人間だ、そんなヘマはするまい。黒女はその能力こそ圧倒的だが、頭脳は歳相応の幼い子供だ。騙界術でトイレ男の居場所がわかるのならともかく、そうでなければトイレ男を助けにくる事などできない。そして、彼がここに落ちてからもうだいぶ経つ。まだ助けに来ないという事は、騙界術でトイレ男の居場所を掴めなかったという事だ。


「……………………」


 唯一、トイレ男の直前の動向を知る黒女が駄目だとなると、トイレ男を助けに来れる者はもう居ない。トイレ男はこのままだ⸺トイレを使わなければ。


「……………………」


 トイレ。理由は知らないが、強く頭をぶつける事で、記憶と引き換えに時を戻る事のできる、魔法のアイテム。これを使えば、ほぼ確実に優男に落とされる前に戻れる。


「……………………」


 今使えば、恐らく戻る先は店で働いている時になるだろう。そこに巨女は居ないが、店主という信頼できる人物が居る。戻っても記憶喪失のトイレ男が危険な目に遭う可能性は低い。


「……………………」


 使うか、使わざるか。使わない理由は無く、寧ろ使わなければ苦しむだけである。


「……………………」


 トイレ男は両手でトイレを固定して、頭を上げた。


 そしてある限りの力で、トイレに打ち付ける。


「……………………」


 何も無い。痛いだけである。


「…………、…………、…………、…………、」


 何度か繰り返すが、時が戻る気配は無い。どうやら、勢いが足りないらしい。マシになっているとはいえ背中は酷く痛んでいるのだ、限界まで力を振り絞ったとてそれは所詮怪我人の出す弱々しい力に過ぎない。


「……………………」


 トイレ男は仰向けになって⸺水分に触れて背中が痛んだので、恐らく出血していたと思われる⸺、両手でトイレを高く持ち上げ、頭に向かって落としてみた。


「っ」


 痛い。さっきよりも痛い。だが⸺足りない。


「……………………」


 背中の痛みがまた増してきたので、トイレ男はうつ伏せに戻った。


 どうやら⸺トイレも使えないらしい。


「……………………」


 まぁ、この湿ったくっさい空間でも、こうして寝ていれば、痛みは引いて十分に力を出せるだろう。


 そう悲観しても仕方ないので楽観して、トイレ男はぼぉーっとし始めた。


「……………………」


 どのくらい経っただろうか。


 背中の痛みはほとんどが引いたように感じられた。試しに、立ち上がってみる事にする。両手を地に突き、力を込める。久方ぶりに足を動かし、裏を地に付ける。そして最後に、手で地を突き放しその勢いで立った。


「っ、」


 よろめいたが、どうやらすぐそこに壁があったらしく、そこにもたれる事ができた。壁伝いになら歩けそうである。


 トイレ男はもう一度トイレを試してみようと思って、トイレを置いたまま立ち上がってしまった事に気付いた。


「……………………」


 一寸先も見えない暗闇の中では、トイレ男の頭から地面にあるトイレを探すのは難しい。


 トイレ男は屈んで、手探りでトイレを探す。が、どうやらよろめいた時に離れてしまったらしく、トイレ男の腕の射程にはないようであった。また背中が痛くなってきたので慌てて立つ。


 トイレ男はトイレを探すために、まずは独力で立ち歩く事ができるようになる事を目指した。壁から離れる。「……っ」、倒れかけて慌ててもたれる。もう一度。できなかったのでもう一度。何回か繰り返すと、バランス感覚を取り戻し、立ち歩く事ができるようになった。


 それでもフラフラとはしながら、トイレを探す。「…………」、今、足で何か蹴った。重さからしてトイレである。あろう事か、トイレ男はトイレを蹴っ飛ばしてしまったらしい。飛んでいった方向に、今度は蹴っ飛ばしてしまわないように、弱い力で歩いていく。


 今回は無事にトイレが足に触れ、トイレ男はトイレを取り戻す事ができた。


「……………………」


 できる限り背中を反って、手で持ったトイレに頭を打ち付ける。


 が、ぶつけた時に腕が動いてしまったせいで勢いが失われてしまったらしい。時が戻る事はなく、トイレ男は前のめりに倒れた。


 そして倒れた先に地面は無かった。


「…………!?」


 どうやら崖になっていたらしい。


 今度こそトイレ男は如何なる防御姿勢もとれず、落下した。


「あ"あ"あ"あ"あ"っ"!!!!」


 元々背中が痛んでいた所に、もう一度高所から落下したのだ。流石に痛みに耐えかねて悲鳴が出る。


「……………………」


 折角碌に動けるようになったのに。今回は腹から落ちて、体の前も後ろもボロボロのトイレ男であった。寝返りを打つ事すらままならない。というか、落ちた時に口に少し水が入った上に飲み込んでしまった。しかもトイレも手の中から消えている。最悪である。


「……………………」


 トイレを求めて伸ばした右手が、ちゃんとトイレに触れた感触を得たトイレ男は取り敢えず一安心する。さっきのように痛みが弱まり体力が戻るのを待てば、今度こそ頭をぶつける事ができるだろう。


 だが⸺地下水路は、そこまで生ぬるくはなかった。

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