07th.06『店主の娘から逃げろ』
さて、昼頃である。トイレ男には一つ困った事があった。
「……………………」
それは店主の娘についてである。
昨夜、トイレ男は意図せずとはいえ黒女の監視から外れた。元々緩すぎるにも程があった監視だが、それでも報告無しに午後から翌朝にかけて消息不明となれば茶男は疑念を抱くだろう。なので今日の昼休みに、それを解きに行こうと思っていたのである。
だが勿論、店主の娘は連れていけない。危険なのは勿論、『組織の情報を漏らしてはならない』という"約束"に抵触しバチが当たってしまう可能性もある。しかし、自分から護衛を頼んでおいて、暫く離れてくれと言うのもやりづらいし、何より店主の娘の疑心を刺激してしまう。それが『この嘘つきめ!』という方向に行くならばまだいいが、『裏を暴いてやる!』という風に向かってしまえばおしまいだ。過去にされたイタズラから彼女が狡猾でその気になればトイレ男に気付かれず家まで付いてくる事も可能であるとトイレ男は知っている。
トイレ男は午前中色々考えたが、結局どうやっても店主の娘の目を掻い潜る方法など思い浮かばなかったので、諦めて帰りに行く事に⸺いや、それもダメだ。帰りは帰りで巨女が居る。彼女は今日トイレ男の家に泊まるそうだ。彼女の目を欺く事もまた難しい。
よし、無理だ。今日はもう行けないから、また明日とかにしよう。
トイレ男がそう決めた時、店主が戻ってきて昼休憩を告げた。トイレ男、店主の娘、そして黒女は普段着に戻り、昼食を食べに屋台のある広場へ向かう。
「アーニちゃんは何食べるの?」
「そうね……今は何でも食べたい気分ね」
「だめだめ、『何でもいい』なんて言っちゃぁ。ツァーヴァスさんはケチだから一番安い物しか買ってくれないよ?」
「違う、全部を食べたいの!」
「そっち!?」
初めは店主の娘のグイグイに辟易としていた黒女だが、若さの賜物というべきか、既に順応したらしく逆に店主の娘を驚かしている。「…………」、ケチとはなんだ、失礼な。
トイレ男は二人に豪快に通常のなんと二倍もの金を叩き付けてやると、気がそそられた屋台へと向かう。
不幸にもトイレ男の気をそそってしまい客足が遠のいた屋台の主は、ここ数日ですっかり有名人になってしまったトイレ男を忌々しく睨み付けつつ、「注文は」と訊いた。
「……………………」
トイレ男はメニュー表を指差して注文する。この屋台で一番安い、濃い味の肉を瑞々しい葉野菜で包んだ物を一つ。「…………」、懐が寂しいのである。
屋台の主は思わず舌打ちをしそうになってそれを我慢しつつ、代金を受け取るとトイレ男にぞんざいに商品を渡した。トイレ男は特に気にする事無く受け取り、屋台から離れた。
店主の娘と黒女はいつもより多いお金に何を買うか決めあぐねているらしく、未だに様々な屋台を回ってはあーでもないこーでもないと姦しくしている。「…………」、たった四半日でよくぞここまで仲良くなれるものだ、と思った。
ついでにそんな時でも常にトイレ男を視界のどこかには収める店主の娘の有能さに恐れ慄きつつ、昼食を頬張る。
「……………………」
口に入れてまず感じたのは、水だ。肉を巻いている葉野菜は僅かながらに露を残しており、口がダイレクトにそれを感じ取ったのである。
次に来たのは葉野菜の苦味。あまり心地いいものではなかったので、一気に顎を閉じた。シャキ、と音を立てて葉野菜が千切れ、中から甘い肉が溢れてきた。たちまち苦味は消え、甘味と旨味が口内を支配する。
安物なのでやや甘味が足りない感はあるが、別に不味いという訳でもないし、安物という事で諦める。
そうして少ない昼食を腹に入れ終わると、腹を刺激しただろうか、急に便意が湧いてきた。そしてトイレ男の頭が冴え渡る。
⸺トイレに行くと言えば穏便に店主の娘の目から抜け出せるのでは!?
閃いた道筋はこうだ。まず、近くにある公衆トイレに入る。窓から抜け出し、ダッシュで茶男の所まで行き、フルスピードで言い訳して、猛ダッシュして帰ってくる。こうすれば店主の娘の目を掻い潜りつつ茶男の疑念を晴らせる!
問題点は、黒女を連れて行けないので道中優男に襲われる可能性がある事。というかアイツは何をしているんだ。辺りを見回すが、全く彼の姿は見えない。広場は人が多いとはいえ物陰は無いし、ここが見えるかつ隠れられる場所というのはかなり少ない。トイレ男は店主の娘の位置を意識しつつそれらの物陰を虱潰しに探した。「…………」、どこにも居なかった。もしかして、居ない? いや、広場の出入口付近に隠れている可能性もある。広場の中はともかく外になると一気に隠れる場所が増えるので、そこを虱潰しに探すのは現実的でない。「…………」、だが、位置的に考えて広場の出入口付近から公衆トイレの窓は見えない。これならば、抜け出しても優男にもバレない!
トイレ男は決意した。店主の娘と優男を出し抜いて、茶男の元まで行くと。
トイレ男は漸くメニューを決め注文を始めた二人に近寄り、紙を見せた。
【ちょっとトイレに行ってくる】
「あ、ちょっと待ってください。それとこれの高い方を七つ」
トイレ男は店主の娘の注文内容を耳を塞いで聞かないようにしながら待った。
そして店主の娘は代金を払い商品を受け取ると、「それで何ですか?」とトイレ男の方を向く。トイレ男は再び紙を見せた。
「あ、わかりました。さっき既にトイレの中に人が居ない事は確かめてますので」
いつの間に。トイレ男は彼女を騙す事に軽く罪悪感を覚えつつ頭を下げ、公衆トイレに駆け込んだ。そして奥にある窓に手をかけ、一気に身を乗り出そ⸺
「……どうしたのツァーヴァス?」
⸺うとした所で、窓の外に黒女が居たのを見てバランスを崩し落ちそうになった。
「……………………」
【ちょっとジエクラのとこに行こうと】
トイレ男は窓をトイレ側に降りて書き、窓からその紙を黒女に渡した。
「ふぅん、それで急にトイレなんて……。私はマリスに『窓の外から敵が来るかも知れないから見張ってて』って言われたから来たんだけど」
「……………………」
いつの間に。
多分、店主の娘はトイレ男が耳を塞いでいる間に黒女にそうお願いしたのだ。トイレ男にバレないようにしたらのは、トイレまで監視されてるという印象を与えないためだろうか。「…………」、やはり店主の娘を欺く事はできなかったのであった。
「何でお父様の所に? 何か用?」
「……………………」
【昨日の事を話そうと思って】
トイレ男は正直に書いて渡した。
「昨日の? 私に言ってもらえれば私が伝えておくのに」
【直接言った方がいいと思って】
「直接も間接も変わらないでしょ。ほら、マリスの居ない今の内に書いちゃいなさい。私が持っていくから」
いや変わるが。
とはいえ遅れて直接言うよりは早めに間接的にでも言った方がいいのは事実。トイレ男は紙に昨夜のあらましを一部捏造して書きつつ、黒女に渡した。
「はい。そろそろ出た方がいいわよ」
確かに、時間的にそろそろトイレを出ないと店主の娘を心配させそうである。トイレ男は手を濡らしてから、公衆トイレを出た。
そしたらすぐ前に店主の娘が居たので驚いた。
「あ、遅かったですね。丁度今入って様子を確かめようとしてたんですけど」
「……………………」
ギリギリセーフであった。
そこに黒女が戻ってきた。
「マリス、私はちょっとお父様の所に行かなきゃいけなくなったから行ってくるわね」
「え? お昼ご飯は?」
「お父様の所で食べてくる!」
黒女はそう言うや否や背を向けて駆けていった。
「あぁ、私のアーニちゃんが……」
「……………………」
断じて彼女のではない。というかトイレ男の監視は? ……まぁ、多分、店主の娘が付いている限りトイレ男も変な事をしないだろうという事なのだろう、多分。
「うぅ……。ツァーヴァスさん、これ私一人じゃ多いんで食べてください」
店主の娘は泣きの演技をしばらくした後、トイレ男に食べ物の半分を渡した。「…………」、まだ全然お腹は減っていたので喜んで受け取るトイレ男。
それらの味を噛み締め終わる頃にはもう昼休憩が終わる時間だったので、二人はやや小走りに店へと戻った。




