とある英雄の幼馴染み
いつもとは趣向を変えた物も書いてみようと思ったら、気分が乗ってがっつり書いてました。偶にはこう言う、ちょっぴりダークな物語も良いですね。
そこは街の教会。
教会の周辺に集まって居るのは、総勢で百人弱。
私を含めて、彼らは今年16歳になる子供達だ。
鐘の音と共に司祭がご祈祷をして頂いて、私たちは晴れて成人となった。
ご祈祷が終わると街はお祭り騒ぎ。
この時期はこの街に限らず、帝国領内の何処へ行っても見られる、ごく一般的な祭典だ。
街の人々が協力して、成人する子供達の今後を想い、願い、祝うお祭り。
街道沿いには多くの露店が開かれ、普段なら見かける事の無い不思議な店も時々現れたり。
そんなお祭り騒ぎの街の中、私は露店でいくつか食べ物の買い物を済ませてから、街の外れにある森へ向った。
整備されていない獣道を数分ほど走って森を抜けると、そこには大きな湖が広がっている。
湖のほとりには小さな別荘があり、小屋の軒下で揺り椅子に腰掛ける二人の少年がいた。
一人は優雅に本を読み、一人は剣の手入れをしている。
小屋のそばまで走ると、剣の手入れをしていた少年がふと金糸の様な髪を揺らして顔を上げた。
「あ、遅かったねリアリー。何かしてたの?」
私の名前を呼んだ彼はレイド・アルラインス。衛兵の息子で、彼もまた剣の道を歩んでいる。神童とまで呼ばれる剣術の天才で、私の恋人。
「うん、買い物してた。二人ともお昼はまだ何も食べてないと思って」
「ありがとう、君はいつも気が利くね」
そう言って微笑むレイドに、私も思わず笑顔を返す。
露店で買った食べ物を入れた籠をレイドに手渡すと、不意に横から手が伸びてきた。
何も言わずに籠の中から串焼きを取り、本に視線を落としながら一口齧る。
「あっフィル、行儀悪いよ!」
私が注意すると、長い銀の前髪の奥から真紅の瞳をこちらに向けた。
思わずドキッとしてしまいそうな美貌をした彼は私とレイドの幼馴染み。孤児で姓名を持たず、どこから来たのかも分からない。
「もう……。また魔法の本?」
「そうみたいだよ。まったく、剣も魔法も使うって、珍しいことするよね、フィルも」
「お前にも勉強しろって言ったよな」
小さく首を動かして、紅い瞳をレイドへと向けた。
レイドは肩をすくめて、やれやれと首を振る。
「生憎、僕は君ほど器用じゃないんだよ」
「安心しろレイド、お前は剣より魔法の方が才能あるから」
「そう言われてもね。練習してても君みたいに上手く行かないじゃん」
「まず大雑把を何とかしろ」
「僕寧ろ繊細な剣技が売りのつもりなんだけど」
定食屋の娘として育った私には戦いの事はさっぱりで、二人の話にはあまりついて行けない。
ただ魔法に関してはちょっとした火を起こしたり水や風を使って楽に掃除をしたりと、工夫次第で生活が豊かになる物をフィルに少し教わっている。
小さい頃からとても器用だった彼はレイドに付き合わされる形で剣術を身に着け、自分の興味のままに魔法を扱える様になった。
どちらに置いてもこの街では屈指の実力者で、対等に渡り合えるのはレイドだけ。
レイドと私は恋人だけど、レイドとフィルは親友でありライバルであり、私が間に入れないくらいの強い絆がある。
微笑ましいけれど、そんな関係が少しだけ羨ましい。
「あっ、二人は午後から、いつもみたいに街の外を見回りするの?」
本来は衛兵の仕事だが二人はその衛兵の誰よりも強く頼りにされている為、半ばボランティアの様な形で毎日仕事を手伝っている。
「あー……どうしようか?」
「俺一人で行くよ」
レイドが少し悩む素振りを見せると、すぐにフィルがそう言った。
「えっ、でも」
「……お前、こういう時まで恋人置いてモンスターと戯れるのはどうかと思うぞ」
「言い方が悪くない?」
「良いから行って来い、愛想尽かされたく無かったらな」
「私はこの街を守ってるレイドも好きだよ」
「ありがと、僕も好きだよ。じゃあ、フィルが戻って来る夜まではデートとしゃれ込もうか。ちょっと着替えてくるよ」
そう言ってレイドは小屋の中へ入って行った。
フィルはその後ろ姿を横目に見てから、パタッと本を閉じた。
そして椅子から立ち上がり、私の直ぐ側に寄って来る。
「フィル?」
フィルの綺麗な顔が近くに来ると、レイドとは別の意味でドキドキする。珍しい行動に少し困惑していると、彼は「しー」と口元に人差し指を立てた。
「ちょっと動かないで」
言われた通り大人しくしていると、彼は何処から小さなアクセサリーを取り出して、私の耳元に手を伸ばした。
フィルに触られて少しくすぐったいけれど、すぐに右の耳が何かで挟まれる様な感覚があった。痛くはないが、ほんの少しだけ重量感がある。
「はい……良いよ」
そう言われてから、髪を耳にかけて小屋のガラスに映る自分の影を確認する。
「あ、可愛い。これイヤーカフだよね」
「君は誕生日すぐだから、一足先にプレゼント。あいつの前で渡すのは……ちょっとな」
「そんな気遣いしなくても良いのに」
「いや気遣いっつーか……。なんか恥ずいだろ、渡してるってバレんの」
椅子に座り直したフィルは、少し顔を背けて前髪を照れたようにいじった。
「ふふっ、じゃあこれの事は内緒にしておくね」
「……そうしてくれ」
彼が恥ずかしいと言うので、長い髪で耳は隠しておく。
それから少し待つとレイドが珍しくお洒落をして、それに何よりも帯剣をする事なく小屋から出て来た。
「や、お待たせ」
「来たか。なら俺はそろそろ行ってくる」
同じく森には入ったが、私とレイドは街の方へ向かい、フィルは軽い足取りで跳び上がり、そのまま木々を伝って森の中を駆けて行った。
ほとんど音を立てず、まるで鳥の様に。
「じゃ、僕らも行こうか」
「うん」
そうして、私とレイドは空が暗くなるまで、惜しみなくお祭りを堪能した。
いつもなら三人で歩くか、フィルとレイドが居なくて家に戻って居るかのどちらかだった。
けれど今日は成人の日と言うこともあり、フィルが気を利かせて二人きりにしてくれた。
お陰で恋人としての時間を過ごす事が出来たのだった。
そうして夜。
まだ双子の三日月が空に浮かんでも、街の中はまだ明るさと騒がしさを残していた。
名残惜しい時間はあっという間に過ぎ去り、私とレイドは湖のほとりにある小屋に戻って来た。
小屋の軒下に三つの椅子が出してあり、その一つに座るフィルは、暗いからか本を読まずに白銀の剣を磨いて月明かりを反射させていた。
「ん、おかえり」
今はレイドとフィルの二人が活動拠点として使っているこの別荘だが、元々は孤児だったフィルが孤児院を抜け出していつの間にか作った小屋だ。
「やあ、わざわざ待ってたのかい?」
「……お前が待ってろって言ったんだろ」
「そうなの?」
「まあね」
今朝私が来る前に、二人は何か話していたようだ。
レイドはそれだけ答えて、彼の隣に座る。
私も同じように向かい側の椅子に座ると、レイドはゆっくりと話し始めた。
「僕は、明日になったら街を出るよ」
そんなあまりにも突然の言葉。
私はしばらく呆然としてしまった。
分からなかった。
彼が何を言っているのか。
「なんっ、で……そんな、急に!」
「実は少し前に来た商人にこんな物を渡されたんだ」
レイドはそう言って懐から一つの封筒を取り出し、私に差し出した。
中にある便箋に書かれた内容は、世間にも良く知られている事。
現在この帝国は、魔族という邪悪な存在に侵略されている。彼らは人の姿をしたモンスターで、人と同じ様に国を作り、王を立てているそうだ。
魔族の住む地はとても過酷で、そこから出る為に人の住む土地を奪おうとしているのだとか。
そして今、帝国は人の地を支配しようとしている魔族の皇帝〝アスタロト〟を討伐する為の勇者を募っている。身分は問わず、必要なのは実力のみ。
帝都に集められた勇者達の中から選りすぐり戦士が、魔族の軍勢や皇帝を倒す為の戦力として先頭を走る事になる。
そして、レイドが渡されていた手紙は──
「第二皇女殿下の、直筆……?」
レイドはこの街以外でも衛兵ではなく一人の冒険者として高い評価を得ている。寧ろこの街の守護者として名が知れているのはフィルの方だ。
だが、まさか帝国の中心人物である「聖女姫」の下まで名前が届いて居るとは思わなかった。
「どうやら、以前に会った皇女殿下が僕のことを覚えていたみたいでね。お忍びだったらしくて僕は全く知らなかったんだけど、手紙で命の恩人だって感謝されたよ」
「それってさ、すごい事だよね」
「うん。平民の、ただの冒険者見習いが皇族に目をかけられる、それはとても名誉な事だし、僕自身が目指した場所へ大きく近づく一歩にもなる」
レイドはそう言って波一つ無い湖に写る三日月へと、視線を落とした。
彼が何を悩んで居るのか、それは言われなくても分かる。
「今この国は……いや、この世界は、邪悪に支配されようとしている。僕の力はそんな邪悪を滅ぼして、この世界に住む人々を助ける為にあるんじゃないかって思うんだ」
分かっていた。少し前にフィルも話していたから。
レイドの力はこんな小さな街を守る為だけに使われるなんて勿体ない事なのだと。
「だから、行かせてほしい。こんな機会は二度と無いし、行かなかったらきっと僕は──」
「後悔する?」
「……うん」
私は立ち上がってレイドの前に立ち、彼が膝の上で強く握っていた手を優しく包みこんだ。
「なら、私には止める権利がないよね。レイドの人生はレイドの物だから」
「……」
「私はずっと、この街でレイドが帰って来るのを待つよ」
「……ありがとう、リアリー」
彼の気持ちは決まっていた。なら、私はそれを応援したかった。
とても危険な道で、生きて帰ってこれるか何て分からないけれど。
この街には、二人の天才が居るから大丈夫。
そう思って、私とレイドはフィルに視線を向けた。でも、フィルは顔を見合わせるでもなく、空を見上げた。
「俺は行かない」
「えっ?」
「フィル、僕は君にも来てほしいんだ。僕達二人なら、どんな相手にも、魔族の皇帝にだって勝てるって、そう信じてるから」
レイドが強い口調でフィルに語り掛けた。
対してフィルはゆっくりと視線を上げて、レイドに笑いかけた。
「お前一人で十分だろ。悪いけど。俺は“英雄の故郷”を守らなきゃいけないから」
そう言いながら、フィルはニヤリとイタズラっぽく微笑んだ。
「フィル……。君は……」
フィルは、磨いていた剣を鞘に納めると、それをレイドに投げ渡した。
「これは?」
「別に。ちょっとした魔法が込められてるだけの普通の剣。レイド、武器はどこまでいっても武器だ。道具であって、使い手次第だよ」
フィルはそれだけ言って、小屋に戻った。
二人にとって、これ以上の言葉を交わすは必要無いのだろう。
レイドも、微かに笑みを浮かべた。
「敵わないな、フィルには。あいつと居ると自信無くすよ。だから、全力で努力して、追い付こうとしてるんだけどね」
「じゃあ、安心だね」
「……安心って?」
レイドの頬を撫でて、笑いかけてみせた。
「レイドがそれだけ認めてる人のお墨付きでしょ?」
「英雄の故郷を守らなきゃいけない、か」
レイドは噛みしめる様につぶやいて、椅子を立った。
その表情はとても清々しく、彼の決意を濁すような事をするのは私としても嫌だった。
「レイド、ご両親にはもう言ったの?」
「いや、まだだよ」
「なら言ってきなよ。明日になって急に、なんて事にならないようにさ」
「ははっ、それやったら本当に怒られるね。じゃ、僕は街に戻るよ」
「うん。おやすみ、レイド。私はもう少しだけ、ここに居るね」
「分かった、一応気をつけて。おやすみ、リアリー」
街に戻るレイドの後ろ姿が見えなくなってから、私は椅子に座り直した。
「……っ」
胸の奥が痛くて、椅子の上で膝を抱える。
明日までにはこの痛みを抑え込んで、頬を伝う熱を冷まさなきゃいけない。
言葉をどれだけ紡いでも、心の奥底に残る不安や辛さは消えない。
無事に帰ってくるかも分からない、どれだけの時間会えない日が続くかも分からない。
それでも今だけ、今だけは誰にも見せちゃいけない。
この涙はきっと、彼の決意と二人の絆を踏みにじってしまう物だから。
その翌朝、レイドは街に来ていた商人の馬車の所へ来ていた。
「レイド、無事に帰ってくるんだぞ」
「分かってる。心配しないでよ」
レイドは両親と話をして、抱き合う。
出立するレイドを、街の皆が見送りに来ていた…………ただ一人フィルを除いて。
「リアリーちゃん、フィルはどうした?」
衛兵の一人が私に尋ねてきたから、私はいつも通りに答えた。
「フィルなら、多分、いつも通り見回りしてると思いますよ」
「はぁ〜?何をやってんだあいつは、こんな大事な日に」
「良いんですよ、フィルは」
私と衛兵の話に割り込んで、レイドは小さく笑みを浮かべた。
「あいつはお別れなんて言う気ないだろうから。そういうところが、僕を安心させてくれる」
「お前らのそういう所は、本当に良くわかんねえな」
「大丈夫です、幼馴染みの私にも分かりませんから」
そして、旅立つその寸前。
レイドは突然、私の手を優しく取った。
「魔族の皇帝を倒したら、必ずここに帰ってくる。その時はリアリー、君と結婚したい」
左手の薬指に、シンプルな銀の指輪を嵌めてくれた。
そこまでしたのに、返事は帰ってきてからにしてほしい、なんて照れながら言っていた。
私の答えは決まっているのだから、そんな時間も必要ないのに。
「必ず帰って来て、私をお嫁さんにしてください」
二人が自信を持って世界を救えると、そう言うんだから。私は二人を信じる。
「じゃ、行ってきます」
遠出をするなんて思えない軽い口調で、彼は馬車に乗り込んだ。
いつもこの街を守っていた、二人の天才を。
涙を流す事無く、私は馬車を見送ることができた。
帰ってくるのにどれだけ時間がかかるだろう?
もしも帰って来なかったら、なんて不安が消えることは決して無い。
ただ、私のそんな不安はたったの二年で吹き飛ぶ事となったのだった。
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レイドがこの街を旅立ってから二年後。
帝国領内のほぼ全土、それどころか大陸中が一つのニュースに夢中になっていた。
それは────
「〝聖女姫〟エステリーゼ・フォン・ガルジオン第二皇女殿下と、〝剣聖〟レイド・アルラインスの結婚パレード、ね」
街中に飛び交う号外の一枚。
それを眺めながら、フィルはぽつりと呟いた。
「……指輪、外したんだな」
「うん。もう、要らないかなって」
湖のほとりに建てられた小さな小屋。
そこで、私はフィルと二人で暮らしていた。
レイドが旅立ってすぐに、病気で父が他界した。私は父の願いから定食屋を継ぐことはしなかった。代わりに、街の治安維持を行う衛兵……ではなく、モンスターの狩猟を専門の仕事とするハンターになったフィルの生活の世話をしながら暮らしていた。
フィルが居ない時は孤児院や教会へ出向き、子供たちのお世話や、フィルに教わった治癒魔法を教会で役立てて生計を立てている。
そんな生活していたらいつの間にか二年が経っていた。
すると数日前、私たちの耳には「レイドを中心とした勇者パーティが魔族の国を壊滅にまで追い込み、魔族の皇帝を討伐した」と言うニュースが入って来た。
現在、勇者パーティは帝都へ帰還し、騎士団が魔族の掃討に出向いているのだとか。
そして今朝、突然出回った号外で知った、レイドと第二皇女の結婚。
剣聖レイドを筆頭としたパーティは皆、それぞれが異名を授けられたそうだが、中でも第二皇女は元々その高い治癒魔法への適性から〝聖女姫〟と呼ばれてきた。
共に戦った聖女姫エステリーゼ様と、最強の剣聖レイドのラブロマンス。発表後の帝都の盛り上がりは凄かったらしい。
「……レイド、街に帰ってくるんだよね」
「ん」
彼は皇女との結婚だけでなく、皇帝陛下から特別な貴族の爵位を授かってこの街を含む広大な土地の領主となる。
「……気不味いよね」
「気不味い、って……怒ってないのかよ、レイドの事」
フィルの言う怒る、というのはレイドが私に一切の相談無しにエステリーゼ殿下との婚姻を発表したことについてだろう。
「……レイドが決めた事だから、怒ってない。送り出したのは私だし、手紙のやり取りとかやろうと思えばできたのに、やらなかったのも私だから」
時々入って来る情報から、レイドはほとんど帝都に居なかったとは言え帰ってくることは何度もあっただろう。その時に手紙を出していれば、返事を書いてくれる余裕くらいはあったかも知れない。
けれど忙しいだろう彼に、そんな事で時間を使って欲しくなかった。
「それに、もしも私がレイドの立場だったら、浮気といわれようがエステリーゼ様と結婚するし」
「……」
「普通に考えて、そうじゃない? 何処にでも居る様な平民の幼馴染みと、皇族ですっごく美しい聖女様だよ?」
「……まあ、エマおばさん達に拒否権なんてないし、拒否する気も無いだろうけど」
「でしょ? 私だって流石に身の程を弁えてるよ。まあ、周りの視線は痛いけど」
頭ではしっかりと理解している、気持ち的に納得もしている。
私と聖女様では天と地ほどの差がある。
聖女様はとても美しい方だと聞いてるし、少し前に一度だけ見た肖像画の美貌と言ったら、その時の姿は今も忘れていない。加えて、治癒魔法に限らず様々な魔法の腕も凄いらしい。
それに、レイドが生きて帰って来る事も、今きっと幸せの絶頂に居るだろう事も、私は心から嬉しい。
これだって、間違いのない本心だ。
ただ、その隣に自分が居られなかった事が、少しだけ辛い。
「あ、でも……パレードは行きたかったなぁ。今から街を出ても、帝都に着く頃には終わってるし」
「……一応、幼馴染みの人生の門出だからな」
「エステリーゼ殿下の晴れ姿、見たかったよ」
「……えっ、そっち?」
フィルは思わずと言った様子で私の方を二度見した。
「そりゃあそっちでしょ!」
「そうなの?」
「フィルは見たことあるんでしょ、聖女姫様のこと」
「小さい頃に一回、一瞬だけ」
「その子が今や18歳だよ?見たいでしょ!」
「見たい……見たい、か?」
「見たい、よ。うん、私は……そっちが……」
レイドじゃなくて、浮気者のことなんかじゃ、なくて。
「っ……なん、で」
不意に、目頭が熱くなった。
「リアリー……」
二年。
たったの二年、されど二年だ。
命懸けの戦場で、まさしく互いの命を預け合う存在と二年過ごして、共に生還した。
レイドとエステリーゼ殿下、二人の間にどんな関係が築かれて、どんな時間を過ごしたのか、詳細なことは分からなくても、惹かれ合う事に違和感など無い。
盛り上がる世間の気持ちだってよく分かる。
だけど、そうだけれど……
それなら、十年以上を密接に過ごした筈の、私の時間はなんだったのか。
「プロポーズされて、二年待ったんだよ?生きて帰って来たって知って、凄く泣いた、本当に嬉しかった」
意味がないのは分かっている。それでも、頬を伝う雫を、溢れる想いを抑える事が出来なかった。
「分かってるよ、頭では理解してる!仕方ないって納得もしてる!でもやっぱり……グスッ、つらいよ。やっと帰って来ると思ってたのに!」
なんでこんな仕打ちになったのか。
この街に居ても肩身が狭いし、もう家族も居ない。
私にはもう──
「ねえ……フィル……。フィルは、ずっと、私の側に……居てくれる?」
涙を拭って、正面に座っていたフィルに問いかけた。
幼さを残した美しい顔立ちの彼は、泣きそうな表情で眉をひそめて、ぐっと瞳を閉じた。
「居るよ、ずっと」
絞り出す様な微かな声で、フィルは私にそう言った。
その言葉を嘘だとは思わない。
けれど、彼の何かを押し殺すような表情は、脳裏に焼き付いて離れなかった。
剣聖レイドとエステリーゼ第二皇女殿下の結婚パレードから一ヶ月が経ち、二人と何百というレイドの騎士、そして何故か勇者パーティまでもが、この街に来た。
救国の英雄であるレイドが、妻として皇女を連れての帰郷。
貴族としての立場を得た彼へ、少しの遠慮こそあれどその祝福は一瞬にして街中へと伝播した。
そんな街に居ても肩身が狭いだけの私は、相変わらずフィルと二人で湖のほとりの小屋に居た。
今日だけは小屋を出ない。
それどころか、近い内にこの街を出ていく事を決めて、今は荷造りの真っ最中だ。
レイドに会うべきかどうかはともかく、エステリーゼ皇女殿下……いや、もうエステリーゼ・フォン・アルラインス〝剣爵〟夫人というべきか。
彼女のことは、せめて一目見てみたい。肖像画を見たことがあるだけで、その御尊顔を拝見してみたいと思うのは、帝国に住む一人の国民としてごく当たり前のことだ。
ふと、私が荷造りをしていると、フィルが何故か完全武装をした状態で部屋から出て来た。
「えっ、フィル?その格好……」
「ん?」
「何か、危険なモンスターでも出たの?」
「あぁ、いや。そろそろ客人が来るんだ」
「客人、って?」
「実は────」
不意にフィルの目付きが変わった。私の事を抱き寄せると、真紅の瞳を細めてその場から飛び退った。
「えっ、何が──」
すると突然、小屋が丸ごと爆発したような衝撃波が発生した。
高々と跳び上がったフィルは、着地するといつの間にか抜剣していた。
私を降ろしてから、フィルが軽く剣を振るうその瞬間、音も立てずに土埃が縦に割かれ、物凄い速度で斬撃が飛んで来た。
鈍い金属音を立てながらも、フィルは表情を変えずにその斬撃を弾き飛ばした。まるで全て分かっていたかのように。
そして、小さく呟いた。
「……リアリー、少し離れてて」
「えっ……で、でも……!」
彼は柔らかく、フッと微笑んだ。
「大丈夫」
「っ……うん」
ゆっくりと土埃が薄れて行くと、倒壊した小屋の影が見えてきた。
その奥から現れたのは────騎士団。
そして、 青い鎧に身を包んだ、レイドが……フィルに白銀の剣を向けていた。
その剣は、二年前にフィルが彼に手渡した物に間違いなかった。
レイドの周りに居るのは、魔族の皇帝であるアスタロトを討伐したパーティだろう。
聖女姫エステリーゼ、神子フィリア、魔剣士ファリオン、賢者アルカディアの4人だろう。
レイドは一歩前に出ると、漏れ出る殺気を抑えることもなくフィルを睨み付けた。
「……君が、最後の一人だ……フィル」
最後の一人。レイドが何を持ってそう言ったのか、私には皆目見当もつかなかった。
だが、フィルは小さく笑みを浮かべていた。
「君が、アスタロトの息子で間違い無いな?」
「…………え……?」
本当に、言っている意味が分からない。
状況が全く理解出来なかった。
武器を構える騎士団と勇者パーティの面々。
それをレイドは手で制止する。
「……もう一度聞くよ、フィル。君は魔族の皇帝アスタロトの三人目の息子。アスラフィルに、間違い無いな!!」
「そうだな、間違い無いよ」
フィルの答えに、騎士団と勇者パーティが少しの動揺を見せ、より一層表情を鋭くした。
ただ、ひどく混乱しているようにも見える。
フィルが、魔族。
それも皇帝の、息子?
「おかえり、レイド。その剣は、役に立ったか?」
フィルは特に態度を変えることなく、あくまでも帰って来た親友を労うような優しい表情を見せた。
それに対して、レイドはひどく表情を曇らせている。
「あぁ、今まで使って来た何よりも、ずっと手に馴染むよ。君がくれた、この剣は」
「そっか、なら良かった」
「……僕はこの剣で、何千、何万もの魔族を斬った。君が……魔族の皇子である君がくれた、この剣で、だ」
「…………そうだな」
フィルは一切否定しない。自分が魔族の皇子である事を。
私には、分かった。
レイドは否定して欲しくて、そんな言い方をしているんだと。
「どういう、つもりだったんだ……君は……!!」
「別に。命を懸けて大変な戦いに挑む親友に、生きて帰って欲しくて、俺が作れる最高の剣を渡した。それだけだよ」
「ふざけるなよっっっ!!」
レイドは声が裏返るほどの勢いで叫んだ。
「君はぁっ……!僕に──」
「レイド」
対照的に、フィルは優しい声で彼の名前を呼ぶ。
「俺は嬉しかったよ。お前が帝都に生還したって聞いて、嬉しかった」
「っ…………」
「最後の一人ってことは、この大陸に残ってる魔族は俺だけか」
フィルは優しい声のまま、現実を噛みしめる様にそっと呟いた。
「……分かってる、魔族はモンスターだ。その中でもイレギュラーな、人類の敵。お前が俺を殺しに来る事は分かってたよ」
なんで、そんな事を言うの?
「違う、違うよ……。フィルは、モンスターなんかじゃ、ない。フィルがいつ人を襲ったの?誰かを傷つけたの?」
レイドが、今日初めて私のことを見た。
「……リアリー」
レイドが、フィルを殺すなんて、そんな。
そんな事があっていい訳が無い。
「嫌だよ、私は……。だってフィルは……二人は──」
「「親友だから」」
二人の声を聞いて、俯きそうになった顔を上げた。
「……親友、だから……僕がやらなきゃ行けない。魔族は、人間と同じで群れるんだ。二十歳になると瘴気を生み出す。その瘴気は土地を枯らし、モンスターを発生させる」
「そして魔族の皇帝の血を継ぐ俺の瘴気から生み出されるモンスターは、当然皇帝の血を引き継ぐ魔族だ」
「……だから、そうなる前に芽を摘まなければ行けない」
魔族の皇帝。それはすなわち始祖だ。
他のモンスターの瘴気を受けず、完全な魔族としての力を持つ存在。
たった一人魔族が居るだけで、人類は危機を遠ざける事が出来なくなる。
だから、人類は否が応でも魔族を淘汰しなければならない。これは生存競争だ。
人間と魔族はどちらかが完全に居なくなるまでの、絶滅戦争をしていたのだ。
「レイド様……親友、というのは……?」
不意にそう聞いたのは、レイドの妻になったばかりのエステリーゼ様だった。
レイドはここに来るまでに、自分とフィルの関係を話していなかった様だ。
「……言葉の通りだよ。僕とフィルは……小さい頃からずっと、一緒にこの街で育った」
「何故、魔族が人間の街で?」
「それ、は……」
……そうだ、レイドは……知らない。
「14年前、俺たちが4歳の時だ」
「フィル……」
「俺はアスタロトの正室、俺にとっては育ての親だった魔族と帝国に来た。母さんは人間との和平を望んでた」
「……和平……?魔族が、人間と?」
「そんな事ある訳が……」
騎士団の面々は、訳が分からないと言った様子で動揺している。
だが勇者パーティの面子は、表情を曇らせて俯いただけだった。
「交渉の為に帝都にまで行って、母さんは人間達に殺された。奴等は言葉が通じるにも関わらず、対話をすることもせずに殺した」
そう言うと、フィルは私を見て微笑んだ。
「……母さんは人間に殺された。逃げた俺は、リアリーに助けられた…」
「……リアリーに、助けられた?」
レイドは呆然と繰り返す。
そう、二人だけの思い出だ。
それはお父さんと一緒に、森の中のキノコを採っていた時。
彼は街の外にある小さな森の中で、ボロボロの状態で倒れていた。理由は分からない、聞こうととも思わなかった。
でも、同じくらいの年齢の男の子が、怪我をして倒れていたんだから、助けない理由がない。
喉が潰れて、話す事もできない状態だった彼を、お父さんにも言わず、街の人達に見つからない様にこっそりと街の孤児院に連れて行った。
誰にも言わなかったのは、私が「助けてくれる大人の人を呼ぶ」と言った時に彼が酷く怯えた表情で首を横に振ったから。
街外れにある孤児院の玄関まで、私はフィルの手を引いて連れて行った。
それが私とフィルの出会いだった。
彼に何があって、ボロボロの姿で倒れていたのか。その詳細は結局聞いて来なかった。聞く必要も無いと思っていたから。
何があった所で、フィルが私の幼馴染みで、大切な人ある事に変わりは無い。
この世界に彼の代わりは居ない。
「……僕が殺してきた何万もの魔族は…………。人間と、変わらなかったよ。彼らが人の国を襲うのは、増え過ぎた事で瘴気が濃くなり、土地が枯れて、頑丈な魔族ですらも生活が出来ない死んだ大地を抜け出す為だった」
「そうだな。広い豊かな土地で、瘴気が濃くなり過ぎない様に分散して暮らせば魔族は増えすぎる事なく生活出来た。だから、母さんはその為に人間と交渉をしようとした」
魔族は住処を広げるだけで良いのに対して、人間達は一度始まった以上、魔族を必ず滅ぼさねばならなかった。
人間に滅ぼされない様にする為には、魔族もまた人間を滅ぼさねばならなくなる。
そうして始まったのはこの戦争だ。
この戦争を望んだのはある意味で人間であり、また勝ったのも人間だった。
「……フィル、一つ聞いても良い?」
「なんだよレイド?」
「君は……抵抗、するのか?」
レイドの言葉から、この後に起こる事が分かった。
……嫌だ。そんなの。だってフィルは……
「ふっ、いや、これは抵抗じゃないよ。いつも通りの稽古だ」
「フィル……」
「まあ、使うのは真剣だけどな」
「……そうだね。いつもは木剣だったっけ」
いつもの、稽古。二人はそう言って剣を向けあった。
「いくよ」
「ん」
真剣な表情のレイドと少し楽しそうに笑みを見せるフィル。
「セアアッ!!!」
「っ」
魔法と共に凄まじい速度で剣を斬り結ぶその姿は昔と同じ。
二人が稽古をしている時、私はいつも側で見ているだけだった。
いつも……笑って見ているだけだった。
不意に頬が熱くなった。
思わず触れると、指先が赤く染まった。
飛んで来たのは…………フィルの血だ。
そう、いつもと変わらない。
単純な身体能力ではレイドの方が上なのだ。
それだけじゃない。
今日に至るまでに、きっと壮絶な戦いを繰り返して来たに違いない。
この街で、レイドと比べたらノンビリと暮らしていたフィルとはどれだけの差がついていることだろうか。
────カンッ!カンッ!
「はあっ!」
「……っ……くっ!」
窓の外から聞こえてきた気合の籠もった二人の声と、木剣がぶつかり合う音で目を覚ました。
ゆっくりと体を起こして、軽く伸びをする。
「んん〜……ふうっ」
部屋の窓を開けて、そこから見える近くの広場に顔を向けると、そこでは二人の少年が木剣を打ち合っている。
「二人共、おはよう!」
私が声を上げると、一人は稽古を止めて、もう一人は突然の出来事に体勢を崩して、慌てて尻餅をついた。
「おはよう、リアリー!」
「うわぁっ!?痛っ。おいレイド、急に止まるなよ! まったく……はぁ。おはようリアリー。偶にはもう少し早起きしたらどうだ?」
二人のそんな光景を見て、いつも私は笑っていた────
「笑え、ない……笑えないよ、こんなの……っ!」
生傷が増えていくフィルと、返り血を浴びる度に表情が曇るレイド。
レイドが決めにかかり、フィルは致命傷を外す事で辛うじて耐える。
それだって、いつもの稽古と、何も変わらない光景なのだ。
「もう、止めて、やめてよ!レイドぉ!!」
途中、止める為にと二人の間に割って入ろうとしたが、勇者パーティの魔剣士ファリオンに羽交い締めにされた。
「っ……リアリー」
私の声で、レイドは足を止めた。
それでもフィルは動けない。膝を付いて、怪我をしてない筈の瞳から、ドロリと濃い血の色を滲ませた。
魔力が切れた。
以前にフィルが話していた様に、レイドは魔法にも才能を持っている。その最たる例が、圧倒的な体内魔力の保有量。
同じレベルの魔法を使い続ければ、先に息切れするのはフィルだ。
これ以上、彼に抵抗する力はない。それどころか、立ち上がる事も出来ないようだ。
「……なあ、レイド」
「っ……フィル、これ以上は」
「殺してきた魔族のこと、どうした?」
喋らないで、フィル。お願いだから……もう。
「……魔族はモンスターだ。殺せば魔力となって霧散する。跡形も残らない」
「あぁ……そうだっけ」
ふらふらと覚束無い足取りで立ち上がり、フィルはまた剣を構えた。震える手で剣を持ち、動かない足で立ち上がる。もう魔法も使えないのに。
「……フィル、もう止めてくれ。僕はこれ以上、君を傷付けたくない」
「…………あぁ、そう。なんでも良いよ」
フィルは微かに呟いて、剣を持つ手に力を入れた。
けれど、腕に力が入らないのか、剣を振る前に、取り落とした。
「……本当は、大人しく斬られるつもりだった」
「フィル……」
「でも、やっぱり……気に入らない。せめて、一発、ぶん殴って……やらない、と」
足を前に出せず、またふらついて、片膝を突いた。
それでも、フィルは言葉を紡いだ。
「なあ、レイド……お前なんで、リアリーのこと裏切ったんだ?」
「裏切っ……た?」
「そう、だろ」
なんで、今、そんな話を。
それどころじゃ────
「レイド、が居る、から」
フィルは呼吸が荒くなり、息がうまく出来て居ない。
なのにまだ、声を出そうとする。
「お前が、リアリーのことを……」
「フィル、もう喋るな!」
「幸せに……してくれるって。だ、から、何も……思い残さないで、死ねる……って、そう、思ってた……のに」
フィル……なんで、そんな事。
「なん、で……裏切ったんだよ」
「違う、僕は……」
「お前、が……旅立つ、前の日に、リアリーが流した涙を、なんで、踏み躙ったんだよ、レイド!!!」
「……フィル、なん、で……」
「……え……?」
見られていたのか、あの夜の事を。
レイドに旅立ちを告げられて、泣いてしまったあの日の事を。
「どう、なるんだよ。お前が居るから、押し殺し続けてきた、この気持ちは……」
血を吐きながら、フィルは叫んだ。
「俺の、リアリーを好きだって、愛してるって、この気持ちはどうなるんだよ!!レイドおぉ!!!」
「……ぇ……っ……?」
血と涙に濡れた顔で、もう一度叫ぶ。
「なんで!!俺は……っ……!!」
言葉は、続かなかった。血を吐き、両手を地面についた。
「フィル……。君は……」
傷付き弱った体で、完全に魔力も尽きているのに、無理に動いて、叫んで。
それでもまだ、何か言おうともがいている。
「……ぁ、っ…………!」
「っ!」
不意に拘束が緩んで、私は転びそうになりながら、四つん這いになっているフィルの下へ走った。
「フィル、フィルぅ!!」
「ぃ……あ……」
倒れそうになるフィルを抱き寄せると、異様な軽さにゾッとした。
チリチリと、フィルの体から青白い光が漏れていく。
魔力の光が、消えていく。
「嫌だ、やめてよ……!」
「……っ、……」
「言ってくれたじゃん、ずっと……私の側に居てくれるって、フィル……言ったよね?」
「……ぉ、……ぇ……」
「居なくならないでよ……。私、一回もフィルとの約束破ったことなんて、無かったでしょ?ダメだよ、フィルも……約束、守ってよ……!」
不意に、耳が軽くなった。
「っ?」
思わず右耳に触れると、そこにあった筈の、イヤーカフが消えていた。
フィルがプレゼントしてくれた筈のそれは、魔力の光となり、霧散した。
「……剣が」
誰の声かは分からなかった。
顔を上げると、レイドが持っていた白銀の剣も、同じ様に魔力となって消えていく。
「……これは、君が魔法だけで作った物、だったのか?」
レイドの呟きを聞き、私はもう一度フィルを見た。
彼の半身はもう少し消えている。
このまま私は、何も出来ないまま……また、大切な物を失う。
「ぃ……あ……………ぃ」
フィルは、動かない筈の体でゆっくりと私の手を握った。
「……ぅ………………」
そこには人肌の温もりはなく、ただ微かに冷たい感触があるだけだった。
「……ねぇ、フィ───」
「────」
フィルの体は、音も無く夕空を映す湖の光に紛れて消えて行った。
「あ……っ……」
彼が居た筈のそこには、何も残っていない。
髪の一本も、声も、温もりも。
「ぅ……あぁ、あああ…………」
最後の言葉を、彼なら何と言っただろう。
「フィルううぅぅぅ!!!!」
その答えを聞くことも、叶うことはない。
私には分からなかった。
きっと、一生をかけても分からないと思う。
私は、街を出ることにした。
レイドの事は恨んでない。彼のしたことは彼の役目であり、フィルが望んだことでもあるから。
けれど、この街に残る理由も、私には無かった。
レイドは形だけでもと彼のお墓を建てようとしたけど、それは私が止めた。
だって、彼はきっと、それを望んでいなかったから。
フィルは、何も残さなかった。
自分の結末を知っていたはずなのに、何一つ、残さなかった。
あの小屋も、いつも使っていた道具すらも、彼は自分の魔法で作っていた。
私には、分からない。
せめて何か、一つだけでも残してくれれば、フィルという男の子の存在を証明できるなにかがあれば、私は一生、その何かに縋って要られたかも知れないのに。
何故なにも、残してくれなかったのか。
この大陸から魔族は完全に淘汰された。
人々は歓喜し、帝都は三日三晩お祭りの様な騒ぎになったそうだ。
きっと、それが普通の事なのだろう。
思う所はある。無い訳が無い。
本当なら、彼の死を喜ぶ全ての人間を殺してやりたり。
でも、私には何も出来ない。だって、彼はそんな事を望んでないから。
何処へ行こう?
この空虚な気持ちは、何処へ向かうのだろう?
彼は私に何を望んだだろう?
そうだ。レイドなら幸せにしてくれると思っていたと、そう言っていた。
フィルは私に、幸せになってほしいと、そう望んでいた。
………………でも、それは叶わないよ。
だって、私の望む「幸せ」に君が居ないなんて、絶対にあり得ないんだから。
ねえ、フィル。
君が私に「幸せ」を望んだのなら。
君はまだ、この世界に居るの?
それなら私は、この街を出て探しに行くよ。
私の幸せを、みつけるために。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
異世界での恋愛的なお話ってほぼ書いたこと無かったので、ちょっと探り探りな感じです。
今度は貴族物とかも書けたらいいなと思ってます。
このお話が面白かったら、コメントや☆から評価をして頂けると嬉しいです。