9.母親に会う影勝(2)
「受付の金田です。椎名堂様がお見えになりました。あと近江君も、です。あ、はい承知しました」
受話器を置いた彼女は影勝に向かい「近江君、七階の病室まで案内お願いしてもいい?」と聞くので、「わかりました」と返答する。影勝はふたりを連れ、エレベータに乗って七階に向かう。
「影勝くんは顔パスなのね」
「何度も来てますからね。何度も来たくはなかったですけど」
エレベータを出た影勝は静まり返った廊下を歩いていく。このフロアにいるのはダンジョン病の患者のみだ。入院=意識がないので声を発するのはセンター関係者だけである。
ナースセンターに顔だけみせ、影勝は病室へ急ぐ。はやる心が足に出てしまっていた。
「影勝君、落ち着こう」
碧に手を取られ、歩みが遅くなる。我に返った影勝は「ありがとう」と手を握り返す。そんな二人を背後の葵は、やっぱりニヨニヨ眺めているのであった。
七〇五号室。そこが影勝の母、千恵が入院している部屋である。すでに扉は空いていて、誰かが先に中に入っているのがわかる。影勝は「失礼します」と病室に入っていく。
病室はさほど大きくなく、ベッドが一つの個室だった。寝かされている母親の顔色は、白い。ダンジョン病が進行しているのだろう。
母親の脇には大きな機械があり、その機械の前に白衣姿の初老の男性が立っている。白髪交じりだが清潔に整えられており、ダンディさもあった。
「瀬田先生、お久しぶりです」
「影勝くん久しぶりだね。また大きくなったんじゃないか?」
「えぇ、まだ成長期みたいで」
軽くあいさつ代わりの会話をしていると、影勝の横に葵が立っていた。
「椎名堂の葵です。五年ぶりでしょうか、こちらは娘の碧です」
「し、椎名碧です、は、初めまして」
「いつも貴重な薬をありがとうございます。感謝の言葉も手紙だけで申し訳なく思っております、病院長の瀬田です」
挨拶が終わり、全員が部屋にあったパイプ椅子に腰かける。
「早速ですが、先日メールで送らせていただいた件でお伺いしました」
「えぇ、信じられない内容に夢でも見ているかと思いましたが、椎名堂さん自ら来られるということが、その信憑性を裏付けてくれました」
「影勝くんたってのお願いでしたので。それに、この薬を作るための原料を集めたのは影勝くんですし」
葵は影勝に視線をやりながら、自分のマジックバッグから妖精の秘薬を取り出した。小さいガラスの小瓶に入れられている。
「それが妖精の秘薬、ですか」
瀬田が目を開いてガラス瓶を見つめる。その眼には懐疑と希望の感情が見て取れる。
「えぇ、わたしの鑑定ではそう出ていましたし、ギルドの鑑定士にも見てもらって、同じ結果でした」
「なるほどなるほど。してどのくらいの量を投与いたしますか」
「一回に小さじ一杯ほどです」
「ふむ五CC程ですかね。そうなると注射ないしは点滴ですが、緩やかに投与しつつ経過観察が望ましいので点滴としましょう」
瀬田は持ってきていたトレイに乗せてあった注射器を手に取り、妖精の秘薬の便に針を刺し、吸い上げる。メモリでおおよそ五㏄になるくらいだ。点滴用の新しい生理食塩水の袋を取り出し、そこに注射器で刺し入った液体を注入する。
その様子を、陰勝は固唾を呑んで見守っている。見ることしかできない自分に苛立つが、やれることはないのだ。
葵がハンディカムを取り出し「記録として録画したいのですが」と問うと「えぇ、ぜひお願いします」と瀬田が答える。
「四月三〇日一四時二一分。投与を開始します」
腕時計で時刻を確認した瀬田が点滴を開始する。滴下する一滴一滴を、影勝は見守っている。
効果があってほしい。
その願いを込めるように。
「大丈夫、だと思う」
緊張から固く握りしめた影勝の拳を、碧がそっと包む。それだけで、影勝の心は落ち着きを取り戻した。
「情けないな、俺」
「そんなことないよ」
影勝と碧は寄り添って静かに見届けている。二人の様子を見た瀬田が「おや?」と片眉を挙げたが、葵にシーっとジェスチャーされ、千恵に視線を戻した。
バイタルを図る音だけが響く病室で、三〇分ほど経ったろうか。千恵の瞼がピクリと動いた。影勝は叫びそうになったが、手を包む碧の温かさがすぐに正気に戻した。
「投与から三四分、患者に変化あり。瞼の微動」
瀬田が告げる。
瞼の微動は多くなり、ゆっくりとだが瞼が開いた。焦点の定まらない瞳は天井を見ているように思えた。
「ッ!」
影勝が腰を浮かせたが、碧が手を離さない。
「ここはお医者様にお任せしよう」
「……そうだな」
影勝は歯を食いしばり、母親の様子を見続ける。
「近江さん、瀬田です。わかりますか?」
瀬田が視界に入るようにベッドに寄り、声をかける。千恵の瞳がゆっくり動き、瀬田をとらえた。
「……せ、んせい?」
「えぇ、そうです、瀬田です。わかりますか?」
冷静なように見える瀬田だが、緊張とうれしさが込められているのか、声が大きい。
「えぇ……なんだ、か。からだが、あたた、かい、です、ね」
「無理にしゃべらなくもていいです。少し前に新しく調合された薬を投与しました」
「そう、なん、です、ね」
血行が良くなったのか、千恵の肌の色が赤みを帯びてきた。
「あたたかい、ですね……」
千恵は目を閉じ、静かに寝息を立て始める。寝てしまったようだ。
「……表情が穏やかになりましたね」
瀬田がバイタルを確認する傍らで影勝が椅子から立ち上がるが、ヘナヘナと床にしりもちをつく。
「かあさんが、おきた……」
影勝は茫然と焦点が定まらない視線を床に落とす。ついでポタリと涙も落ちてきた。
「うん、うん、よかったね」
碧はうつむき小さくなってしまった影勝の頭を胸に抱く。嗚咽を漏らす影勝の背中をあやすように撫でた。
「……意識を取り戻したあと、寝たようですな。経過観察をしないと何とも言えないですが、何とかしたくても何もできずに亡骸を見送るばかりだった日々が終わる気がします」
目を赤くした瀬田が葵を向く。葵はマジックバッグから一〇本の小さなガラス瓶を取り出す。
「霊薬ではないので完治はしないかもしれませんが、日常生活を送れるまでには回復するような気はしてます。妖精の秘薬を置いていきますので、追加投与のタイミングはお任せしてもよろしいでしょうか」
「任せてください」
瀬田は強く言い切った。
影勝が落ち着くのを待って経過観察と報告の段取りを打合せした後、三人はセンターを辞した。夕日に照らされて深々と頭を下げる瀬田の顔は晴れやかであった。
ハイヤーに乗り込みんだ影勝は、その左手をずっと碧に握られている。
「もう丈夫だから」
「ダメ」
「いやほら葵さんも見てるし」
「泣いてる影勝君、可愛かったなー」
「やめて、俺のライフがなくなる!」
影勝は右手で顔を覆って泣きまねをする。いや本当に泣いているかもしれない。
「ほらおふたりさん、宿に戻るわよ」
葵が手を叩く。その音で影勝は我に返り、ホテルがスイートであり、三人同室なことを思い出した。
「葵さん、ホテルって三人部屋なんですよねぇ」
「そうよー。寝室は別だけどね。よからぬことでも起こるのかしら?」
「いえ、起こりませんけど」
と言って碧に視線を送る。ほぼ毎日夕食をごちそうになり碧の自室や調合室で二人っきりだったりしたがお泊りはなかった。影勝がホテルを連泊しているのもあったが、さすがに女性しかいないところにお邪魔する勇気はない。
今回の宿泊費用などすべては椎名堂の負担なので影勝は一円も使っていない。よって葵に従うほかない。
「寝るまでお話できるね」
「いつもたいしたことは話してないじゃん」
「それがいいんだよ?」
にっこり微笑む碧を見て影勝は、今日は寝られるかなと不安を隠せない。明日からオークションなのだ。すでに出品するアイテムは綾部経由で空送されている。貯めたとはいっても五〇〇万円程度しか持ってない自分がオークションに参加することはないだろうと高をくくっているが、それが間違いだと気が付かされるまであと二日と十二時間。
首都高の渋滞に巻き込まれたがハイヤーは十九時前にホテルに着いた。ホテルのロビーでカギをもらった一行がエレベーターまで歩いていると、前方から金属的朱色に髪を染めた若い女性が歩いてくる。汚れた赤のつなぎという個性的ないで立ちで、非常に目立っている。緑まみれ白衣の椎名母娘とどっこいだ。
すらっと長身な美人でモデルかと思われるが、ここに泊まれるということはただの金持ちな女性ではないだろう。
「あ、麗奈さん!」
「碧、おひさ」
彼女に手を振った碧がトテテと駆け始める。安全上、彼女をフリーにはできない影勝も後を追う。
「れ、麗奈さんもオークションに出すの?」
「うん。いい鉄ゲット」
「そ、そっか! わたしも出品するんだ!」
「碧の薬。落札する。で、その彼が彼?」
その麗奈と呼ばれた女性が影勝を見る。美人にじっと見つめられ影勝はたじろいだ。
「お、近江影勝です」
「高田麗奈。錬金術師。よろしく」
「麗奈さんはね、すごい錬金術師なんだよ」
「わたしはすごくない。すごいのはスキル」
このやり取りで、この人も職業が人の名前なのかも、と影勝は推測した。影勝が知る自分と同じような探索者はスキルが特殊かつ強力だった。
だが、その事を正面切って聞くのは憚られる。
「なるほど、碧の趣味、理解した」
麗奈が影勝にツカツカと近寄り、右手を差し出す。握手かと思い影勝が右手を出すと、ガシッと掴まれすごい力で引っ張られた。