だってハロウィンが近いから
端の方にホコリの溜まっているくすんだリノリウムの床に白い朝陽が差し込んでいる。冬に切り替わる直前の澄んだ空気が満ちた空間に、似つかわしくないものが視界に飛び込んでくる。
血痕だ。
赤黒い液体は一ヶ所だけにとどまらず点々と廊下の奥に続いている。
追いかけなければ。
突き動かすような衝動に駆られて足を動かす。怪我をしているのなら相当な手負いだろう。命さえも保証できない。それくらいの血が流れている。
それが不意に途切れたのは俺の所属する教室の前だった。
むせかえるほどの嫌な予感に逡巡してからドアの取っ手に触れる。瞬間、ぬるりと粘着質な感触が指に伝わり思わず手を引いた。赤黒いそれがベッタリと手に付着している。唾と一緒に不安を飲み込んでから恐る恐る戸を引いた。
教室の中にも血痕は続いている。
それを目で追いかけていく。やがて中央に置かれた机で視線が止まった。
「……ヒナ」
机に突っ伏している女子生徒の名を呼んだ。けれど彼女はピクリとも動かない。
何度も名前を呼びながら近づいていく。
揺れる視界がヒナの様子を映す。制服の白いシャツの大半が血に濡れている。脇腹から滴り落ちる血液が椅子の真下に出来ている血だまりに落ちて跳ねた。どんな表情をしているのか、長い栗色の髪に覆われていて見当もつかない。
「ヒナ、おい、」
力なく垂れる手に触れる。氷水につけたように冷えた指先は肝を冷やすには十分だった。
もう一度名前を呼ぼうとしたが、大音量で響いた効果音にかき消される。
「テッテレー! ドッキリ! 大・成・功~!」
鳴り響いた効果音を再度口にしながら、大怪我を負っていたはずの女子生徒、ヒナは勢いよく顔をあげた。栗色の髪は邪魔だとばかりに払われ、中から現れた笑顔は太陽のように燦然と光を放っている。
そんな無邪気さに当てられて強張っていた体から力が抜けていく。ついでに盛大なため息を落とす。
「……んなことだろうと思った……」
「ふっふっふ~、驚いてる驚いてる。やっぱりマジメなマーくんはからかいがいが、あいたっ!?」
ふふんと満足気に胸を張っているヒナの頭に軽い力でチョップを落とす。
驚いたけれど、ちっとも笑えやしない。
「こんな大掛かりなドッキリ、ド平日に仕掛けるやつがあるか」
「退屈な日常に色をつけてあげようと、って、待ってまって、チョップは勘弁~!」
慣れた応酬を繰り返せば周囲からドッと笑い声が溢れた。
視野が狭くて映っていなかったらしいクラスメイト達がいつものように呆れながら笑っている。
誰か止めろよ、いやいやお二人さんの邪魔できないだろ、それに面白そうだったし。
なんて言い合ううち一気に和やかな空気に切り替わった教室に、ガラリとドアの開く音が紛れ込む。
やばい。ギクリと体を固くして出入口に目をやる。
「中島ァ! 間島ァ! お前らの仕業だな!!」
式典以外は常にジャージを着て怒鳴っている体育教師兼生徒指導主任の登場である。
途端に蜘蛛の子を散らすようにクラスメイト達が離れていき、教室の中央の血だまりの傍、俺とヒナだが取り残される。
「違います」
「そうでーす」
発言のタイミングはほぼ同時。お互いに何を言っているんだと視線が絡む。そのまま軽口をたたき合っていると先生のため息が間に割って入った。
「イチャついてないで掃除だ、掃除!」
廊下を綺麗にするまで戻ってくるなと教室を追い出される。教室を片付けてくれるあたり、ただ厳しいだけじゃない人だ。
とはいえ俺は完全にとばっちりなのだが、シマシマコンビから名物カップルとしてその名は狭い校舎に轟いている。もはや教師陣の間ですらヒナとセットの扱いになっているものだから反論したって無駄なのだ。
俺を驚かせるためというシンプルかつ迷惑な理由で実施されたのだから、まあ確かに俺にも若干の責任はある、かもしれない。
「で、なんでドッキリだよ」
拭っても拭っても跡の残る血糊を冷たい水で濡らした雑巾で根気強く擦りながら尋ねる。
突拍子もないのは今に始まったことじゃないが、今日のは格別に手が込んでいた。記念日を忘れたことによる報復にしては規模が大きすぎる。何か意図があってのことなのかもしれない。
しかし返ってきた言葉はおかしなものだった。
「だって、ハロウィン近いし」
脇腹に仕込んでいた血糊の袋を落として状況を悪化させているヒナはいつも通り言葉足らずだ。視線を向ければヒナの担当範囲は綺麗にするどころか塗り広げるように赤く染められていたのでカバーするように位置を変える。
「ヒナ語は理解出来ん」
「まったくもう、まだまだなんだから」
むくれるように頬を膨らませているので汚れをハンカチで拭ってから片手で挟み込んで潰す。ぷす、と空気の抜ける間抜けな音がした。
何故か上機嫌にステップを踏んで距離をとってからいつものイタズラな笑みが浮かぶ。
「ハロウィンは皆が警戒してるから、マーくんも警戒しちゃうでしょ? そんな状態で驚かせてもつまんないし、それなら事前に驚かせようと思って。ね?」
ね? じゃないが。
「言っとくけどハロウィンってドッキリ祭りじゃないからな」
「え、コスプレドッキリ祭りじゃないの」
「まあそう思うのも仕方ないけどなあ」
他愛もない会話だ。それが何でも面白くてずっと笑いあっていた。
遠い思い出だ。
ころころと表情の変わるヒナの顔が段々遠ざかっていく。せっかく綺麗にした廊下が歪んでいく。ぐるぐると世界が回転していって自分が今立っているのかしゃがんでいるのかもわからなくなる。
ああ、これ、夢だったのか。
気付くと同時に意識が浮上する。
目を開いてすぐ布団から顔を出して手元にあるスマホを手繰り寄せ迷いなく電話のマークをタップした。着信履歴の一番上を押せばコール音が流れ出す。
「もしもし、ヒナっ、」
『おはようマーくん。モーニングコールなんて熱烈だね? 布団より私が恋しいなら、部屋出た方が早いと思うけどね?』
繋がった瞬間に話しかけたが何倍もの言葉が飛んできて瞬きを繰り返す。
「部屋……?」
『目覚まし代わりにケチャップじゃなくてタバスコかけちゃお』
鼻から空気を吸い込めば寝室のドアの向こうから美味しそうなにおいが漂ってくる。何かが炒められているのか油の跳ねる音が耳に届いた。
まさか。
布団を飛び出してドアを開ける。塵ひとつないフローリングは身を縮めるほどに冷たいがそんなこと気にしていられない。
短い廊下を足早に通り、リビングに繋がるドアを開いた。
「ヒナ、」
朝の光を切り取った窓に照らされた後ろ姿を見つめる。
キッチンにはエプロンのリボンを後ろでくくり、聞く度に変わる聞いたこともない歌を口ずさんだヒナがそこにいた。朝御飯のいいにおいに包まれた部屋は幸せが具現化したようだった。
そうだ。結婚したんだった。何度だって新鮮に感動出来る。
「おはよう寝坊助マーくん。まだタバスコかけてないよ」
セーフだったね。
楽しそうに笑うヒナは調理に集中しているようでこちらを振り向かない。
「電話、なんだったの?」
「懐かしい夢見たんだよ。学生時代の」
「あ~あったね~、そんなことも」
「なんか急に、ヒナの声が聞きたくなってさ」
口に出してから自分の言ってたことの気恥ずかしさに我に返った。いつもなら臭いセリフをつついてくるはずのヒナはフライパンを揺らすばかりで何も言葉を返してこない。
「……ヒナ?」
様子がおかしい。
じゅうじゅうと勢いよく跳ねていたはずの油はいつの間にか鳴りを潜めていて、トースターのダイアルが回る小さな音だけが響いている。今さらになって秋の空気の冷たさを感じたのか、ぞくりと悪寒が走った。
一歩近付くたびに、珍しく静かなヒナへの違和感が膨れあがっていく。
「ヒナ」
確かめるように何度も呼びかける。最早それは祈りに近かった。
料理中はじゃれ合わない。危ないからと決めたルールなんて今はどうでも良かった。触ったら折れそうな華奢な肩に手を置いた。じわりと感じる体温は少なくとも人のものだった。
振り向かせようとする前にヒナの軽やかな声が落ちてくる。
「学生時代の私ってさあ」
相変わらず肩より少し下に伸ばされた栗色の髪がいつかのように顔を覆っている。そういえば今日は後ろ手に結んでいないんだな、どこか遠い出来事のように思う。
「どんな顔してた?」
「え、えっと、普通に可愛かったけど?」
大きく何かが変わるようなこともなく、ヒナは今も昔も可愛いままだ。
「それ、ほんと?」
様子のおかしいヒナに肯定を返すよりも早く、栗色の髪が揺れた。そのままぐるりとこちらを振り向いて……
「本当はさ、顔、なかったんじゃない?」
今みたいに。
こちらを向いたヒナの顔は、何もなかった。パッチリした目も、小さな鼻も、よく笑う口も、何もかも。あまりの異質さに息を呑んだ。
「は、え、」
「なーんちゃって! まったくもう、マーくんってばいつまで経っても驚かせ甲斐があるんだから。私の技術が進歩し続けるばっかりだよ」
ヒナの体からヒナの声がする。けれどヒナの顔はなくて。
目を白黒させているうちにベリベリとアニメや漫画の怪盗がやるように顔を剥がし始めた。よくわからない素材の下からは見慣れたヒナが顔を出す。
「テッテレー! ドッキリ! 大・成・功~!」
夢で見たのと同じ言い方で楽しそうに笑っているヒナは間違いなく本人だ。
俺も夢と同じように溜め息とともに脱力した。
「こういう洒落にならないやつ、やめろって」
「だって、ハロウィン近いんだもん」
夢と同じ言い訳をするヒナは楽しそうに顔を緩める。
「マーくん、油断してばっかりだし。ちゃんと気を引き締めなきゃ」
「家でくらいリラックスしたい」
「え~、そんなんじゃつまんないでしょ」
「ヒナが居たら飽きそうにないのは事実だけどさあ」
温め直されたスクランブルエッグと、飛び出したトーストを皿に載せてリビングのテーブルに乗せた。ドリップコーヒーも添えるとささやかながら満点の朝食のできあがりだ。
二人で向かい合って両手を合わせる。
「学生時代にさ、流行ったよね、家に帰ったら死んだフリをした奥さんがいる歌」
「え? あー、あったあった。懐かしいな」
夢の話をしたからか思い出話に花が咲く。
出掛けなければいけない時間は刻一刻と迫っているが、ヒナと過ごす時間は何にも変えがたい。叶うならずっとこうしていたいくらいだ。
「じゃあここで突然ですがヒナちゃんクイーズ! 問題です、デデン!」
「久々だな」
突拍子のないヒナの言動にもいいかげん慣れてくるもので。一体どんな問題が出題されるのかと卵の焼き加減とケチャップの味が絶妙なスクランブルエッグを頬張りながら耳を傾ける。
「あの曲と私では決定的に違うところがあります。さて、どこでしょう」
曲にちなむのか。そんなことを片隅に置きながら考える。
違うところ、ね。
「帰ったときだけじゃなくて朝っぱらから驚かせてくるところと、死んだふりだけじゃないし動き回るところ」
ヒナクイズは一問一答ではない。指を二本折ってみせた。
しかしコーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを入れてからヒナは胸の前でバツ印を作る。
「ブブ-。残念。そんな些細なことじゃないんだなあ」
正解はね。
端にケチャップを付けた形の良い唇が動くのを見て――
――俺は、目を覚ました。
「……は、」
目尻に浮かんだ涙を強引に拭う。いつもは離れがたい布団を蹴飛ばして寝る前無造作に放り投げたスマホを探し当てる。震える指でロックを解除して電話のマークをタップした。表示される通話履歴のどこにもヒナの文字はない。
浅い呼吸で冷たい空気を取り込めば心臓まで凍り付く気がした。
正解は、知ってるよ。知ってるけど。
「ヒナ、」
縺れそうな足を動かして電化製品の動く音だけが響くリビングに飛び込む。いない。キッチン、いない。脱衣所、いない。トイレ、いない。玄関、いない。ヒナの部屋……いない。ドッキリのために潜んでいるかもしれない俺の部屋、いない。
いない、いない、いない。どこにもヒナが居ない。
「ヒナ、なんで」
大して広くないマンションの部屋のドアはすべて開け放った。
記念日を忘れたわけでも、機嫌を損ねたわけでもないのに。
「だって、ハロウィン近いし。驚かせようかなって」
耳元で鈴の転がるような、ヒナの声が聞こえた――気が、した。
「だからそれ、ひとつも笑えないんだって……」
崩れ落ちながら絞り出した情けない声とは裏腹に、黒い枠に囲まれた写真の中のヒナは夢で見たままの、イタズラで眩しい笑顔を浮かべていた。