婚約破棄
王宮で不穏な気配に一部のものが気づきはじめた頃、アリアはというと学校が長期休みに入ったため自らの領地にある実家でのんびりと過ごしていた。時折遊びに来てくれるエレオノールとともに、丘に登ってピクニックをしたり、学校の授業では習えなかった乗馬に挑戦してみたり。久しぶりの穏やかな日々だった。
庭で屈託なく笑い合うアリアとエレオノールの様子を、屋敷の窓から見下ろす人影があった。アリアの両親である。慈しみをたたえつつも痛ましい色を目に浮かべる二人は、娘のデビューの日に何が起き、カインは今何をしているのかを知っていた。大事な娘に関わることであったから、アリアが悲しげにデビューを終わらせたその日の内から即座にカインと、そしてカインに近づく令嬢の身辺調査をしていた。その調査結果は目を覆いたくなるようなものばかりで、親としてはあんな奴とは縁を切れ、そう言いたい気持ちでいっぱいであった。しかし、2人ともアリアをずっと見守ってきていたからこそ、言えなかった。
美しい金の瞳に、今も昔もうつっていたのはカインだけだったから。
だからこそ、何も言わず、アリアが過ごしやすいよう、少しでも楽しく過ごせるように心を砕くしかなかった。
彼らの家に伝わる歴代当主の手記、それらのうちにはこうあった。
『金の瞳を持って産まれた者は、古の竜の血を引く。故に、竜のごとく愛情深く、そして慈悲深い。一度番と決めたもの以外を受け入れることのない頑固さを持つ。死ぬまで、心に決めたものを愛し続けるだろう。我が娘、エリーゼのように。』
と。
10数年前、金の瞳の赤子が産まれた時にアリアの両親は真っ先に過去の当主の手記を読み漁った。金の瞳という他の人間とは違う娘が、どうこれから生きれば良いのかを知るために。そして手記に残された記述を見て息を呑んだのだ。
それは10代前の当主の娘に起きたことであった。大恋愛の末、愛し合うものと結ばれた金の瞳の娘エリーゼ。しかし平穏は長く続かず、しばらくして夫が事故に合った。即死ではなかったようで、昏々と眠り続ける夫の変わり果てた姿の側から娘は離れようとしなかったらしい。周りの制止も聞かず、必死に看病を続けたが、10年後、一度も目覚めることなく夫は息を引き取った。娘は慟哭し、そして…愛する者のいない世界に生きることはつらすぎる、と亡くなった夫に寄り添うようにして自死したと書かれていた。
アリアの両親は恐れていた。愛する娘が、かつての金の瞳の乙女のようになってしまうのではないかと。娘のためをおもって引き離した先に、その娘が悲しみに自死を選ぶ可能性があることがわかってしまっている以上、軽率にカインとの離縁の提案もできなかった。
そんなふうにアリアが周りの人々にあたたかく見守られながら日々を送っていた時、ティファナは裏で動いていた。手を尽くしてようやくカインの恋人の地位を勝ち取った彼女であったが、まだ足りない、と次の段階へ計画を進めていたのだ。次の計画、それは…邪魔であるカインの婚約者を追い落とすことだ。
いくら恋人であろうが貴族間の婚約は契約である。このままでは数年後、カインとアリアは結婚してしまうだろう。そうなってしまえば恋人になった努力も水の泡となってしまう。だからこそ、心身ともにカインを手に入れ結婚するために様々な工作をした。
そして、その工作は見事に成功した。
カインはアリアとの婚約の破棄を宣言したのである。ティファナが描いていたとおりに。
やり方は簡単だ。あまり社交界に出てこないアリアの良くない噂を少しずつ広げていく。このときにはっきりとアリアが「悪」と言わないことが重要だ。それぞれに「もしかしたらアリアという令嬢は良くないことをしてしまう人なのではないか」と想像させ「気づかせる」のだ。人の意見を鵜呑みにする人間は扱いやすいが他の意見も鵜呑みにしてコロコロと意見を変え、長続きしない。そこでそれぞれ個人が考え出した自分の意見、としてアリアは悪いことをしてしまう人間なのではないかと定着させていくのだ。これは思っていた以上に効果があった。もとより人付き合いが少なかったアリアは、内面についてを知っているものがあまりにも少なすぎた。
外見の美しさの評判ばかりしかない「アリア」という像に、流れてきた生々しい人間らしいエピソードをはめ込み、人々はアリアという人間を知った気になった。どれだけアリアが偶像とはかけ離れているとは知らずに。
なまじ外見が注目されていただけあって噂の広がりは早く、休暇が終わり学校が始まる頃にはその噂で持ちきりだった。これまでただ高嶺の花としてアリアに関心を払わなくなっていたものたちが、一斉にアリアの一挙一投足を気にするようになる。そんな状況下でいくつか事件を起こしてしまえばあとはティファナが巻いた噂が勝手にアリアの評判を下げていった。
例えば、アリアとすれ違ったときに派手に転び、困惑しつつ手を貸そうとするアリアに対して過剰に反応する。
ーー傍から見たものはアリアが転ばせたように思うだろう。なにせ「悪いことをするかもしれない人間」のアリアと、ごく普通の令嬢とだと、圧倒的に前者の方に原因があると思うだろう。そして過剰な反応は、なにかひどいことをされたあとの怯えなのではないかという空想を駆り立てる。
ほら、これで加害者と被害者の出来上がり。
例えば、朝に登校してきた少女の机の中から、ずたずたに破られた教科書やノートと、一通の手紙。「私の婚約者に近づかないで!」との一文だけの手紙が荒らされたティファナの机から出てきたらどうだろう。ティファナのクラスメイトたちはカインとティファナの仲を知っている。そして、時々ティファナがカインとの話をする際に、「でも、婚約者の令嬢が…あっごめんなさい、なんでもないの…」と具体的に話さないものの悲しげに、そしてつらそうにこぼしているのも聞いていた。
ーークラスメイトには、婚約者がいる令息と恋仲になってしまったがために、その婚約者から辛い仕打ちを受けている可哀想な、けれどむやみに愚痴らず必死で耐えようとする健気なティファナ、としかみえない。
これで、恋敵に嫉妬する醜い令嬢と、そして恋のためにいじめに耐える健気な令嬢の出来上がり。
例えば、カインと会う前。ちょうどアリアであるとわかる後ろ姿がカインから見える位置でアリアとすれ違い、そしてカインのもとに来る頃には涙目になる。どうかしたのかと問いかけるカインに返事を渋りつつ、「あの方は…あの方は悪くないの!すべて私が悪いんだわ」とだけ伝える。しばらく泣き、カインに慰められ、そして落ち着いてきた頃、何があったのかを何度目か聞いてきたカインにこう訴えるのだ。
「私が、カインをとってしまってあの方は怒っていらっしゃるのよ。…でも、あの方は悪くないのよ。貴方と恋に落ちてしまったのは私だけれど、先に婚約者になったはあの方。だからちょっとくらい辛い目にあっても大丈夫よ。私、負けないわ!」
と。
婚約者であるアリアが恋人に酷いことをしているらしいとの噂もすでにカインの耳に入っていた。それでもアリアは違う、と信じていたが、実際に目撃をしてしまった、と考えるカインには、もうアリアを信じることができなくなっていた。
まあ、実際は本当にアリアが酷いことを言っているところに出くわしたわけではなく、アリアとすれ違ったあとのティファナが泣いていた、という現場だけを目撃しただけであったが。
これまで純粋に鈍感に生きてきたが故に、カインにはその状況が作られたものかもしれないとの想像を働かせることができなかった。
ある日、中庭でエレオノールと昼食をとっている時、カインがティファナを引き連れてやってきた。アリアは、カインがひさしぶりに会いに来てくれた!と内心喜んだものの、すぐにその隣の存在に心を萎ませる。なにせアリアからしてみれば、恋敵である。そんな相手を引き連れてきたら、好きな相手との対面であっても純粋には喜べ無い。それに、その恋敵はなんだか周りでよくすっ転んだり涙目で突然睨みつけてきたりする訳のわからない子、という認識であったから、何故カインが連れてきたのかもわからなかった。
「なにか御用?随分とわたくしのことを避けていらっしゃったみたいだけれど」
カインがなかなか話出せずにいたため、しびれを切らしてアリアから話しかける。デビュタントの日から、カインはティファナと一緒にいることが多く、アリアと顔を合わせるのを避けていた。アリアにはそれが悲しく、そしてつらいことであったし、婚約者であるはずのカインの態度にも怒っていた。デビューの日、本来エスコートするはずの彼が役目を放棄し、なおかつその後、本人は一度も謝りに来なかったのだから。貴族としてのプライドや矜持も傷つけられたものの、なにより、好きな人に心を踏みにじられた乙女心が、何よりも痛かった。
「最近、君はティファナのことを虐めているね?やめてくれないか。」
「は?」
ようやく口を開いたかと思えば。まるでアリアが一方的に悪であると決めつけたその口調。好きな人のその言い方にアリアは呆然とし、エレオノールは想わず貴族令嬢にあるまじき声を出してしまった。
「カイン、貴方何を言っているの?アリアがそんな事するはず無いじゃない!」
「エリー!君は黙っててくれ!僕とアリアの問題なんだ!君がティファナを虐めていると他のクラスメイトからも聞いた。何より僕がこの目で見た。」
「見たって何を…?それにカイン、貴方ならアリアがそんな事するはずないってわかるでしょう?何を馬鹿なことを!」
「ティーにすれ違いざまに悪口をかけて泣かせていただろう!気の強い君ならやりそうなことだ!」
「カイン!貴方本当にアリアが悪口をいったところを聞いたの?!聞いていたと言うならそのセリフ言ってみなさいよ!」
「いや、聞いてはいない、ただその現場を見たんだ。」
「声も聞いてないってのに悪口をアリアが言ったって?!どうやってわかるのよそんな事!まさかその阿婆擦れがちょーっと泣いてたからそう思ったとかでしょう!言いがかりも甚だしいわ!」
「エリー!!きみはティーになんてことを!ティーが泣き真似していたと言いたいんのか?そんなことをする子じゃない!」
「はっ!どうだか。中流貴族令息に流れてる噂も知らないで。」
エレオノールがアリアを擁護し、カインと口論になっている間に、どんどんと中庭を注視するギャラリーが増えて来ていた。噂好きの貴族はこういうネタには真っ先に飛びつく。
人だかりの中に、ゴシップ好きのおしゃべりな令嬢がいることを確認したティファナは一計を案じた。
「カイン!もう良いの!私は大丈夫だから!」
「ティー…でも君の名誉のためだ。大丈夫、僕らは幼馴染だし、話せばアリアもきっとわかってくれる。そしてしっかり言い聞かせるから。」
カインの中にあるアリアに対する信用が残っているのが見え隠れして苛立つ心を押さえつけ、ティファナは言葉を続けた。
「でも、本当に私が悪いの、だって婚約者は彼女だもの。彼女がいる限り私はカインと結婚できない。あなたのそばにはいられないわ…愛人扱いなんて、耐えられないもの、私…」
「愛人なんてそんなこと!僕は君と結婚したいと思っている。君は何も悪くない。」
「カイン…でも、じゃあ婚約はどうするの…?」
「アリアとの婚約を破棄する。僕と婚約してくれ、ティファナ」
「カイン!!」
エレオノールの制止も虚しく、カインはティファナに膝を付き、婚約を乞う。それはかつてアリアがカインにしてもらった宝物の記憶と同じように。
ずっと何も言うこともできず、ただカインから疑いの言葉や謝罪を強要する発言も硬直したままであったアリアであったが、かつての記憶と同じように、別の女に膝をつくカインを見ていられずにその場を飛び出した。
「アリア!待って!」
活発で運動神経が良かったアリアは足が速い。運動があまり得意ではないエレオノールではすぐさま追いつくことはできない。
走り去るアリアに目を向けたものの追いかけないカインに、一瞬嘲りの笑みを浮かべたティファナ、そしてざわつくギャラリー。それらを一瞥して、エレオノールは必死でアリアを追いかけた。
なかなか書きたいところまで到達せず。。。こつこつ進めていきます。
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2020/4/1 一部修正。矛盾が起きていた部分を変更しました。