第一章(5)
「何が気に入らなかったんだ?」
鹿島の言葉に、青貝は蕎麦を啜りながら答えを咀嚼する。学食価格で一杯百五十円。具無しでネギと揚げ玉と刻み海苔のトッピングは無料。安価ながらコシが強く食べ応えがあり、グチッと麺を噛み千切る触感と感覚はストレス解消になる。
「そりゃお前、発端はお前の一言が気に食わなかったんだろ?」
「一言って、旧人類のことか?」
「そうだ。旧人類の中には、その単語自体に多大なストレスを感じる場合もあるんだぜ?」
友の言葉に、鹿島はわざとらしく仰け反る。
「ただの単語に神経衰弱を? よく自縊死せずあの年まで生きて来れたなあ」
「あの年だからだろ。教授はもう、とっくの昔に歩みを止めたんだよ。それに旧人類は自縊死はしねえ。死ぬ時は自分で縄を用意するんだ。忘れたか?」
青貝の言う「とっくの昔」を、鹿島は思い出す。空に穴が空いて神様が滲み出て来るよりも前、全ての人類の心が常時不安定だった精神の開拓時代。自殺という死因が世に存在していた、悪夢のような時代だ。
今の人類は鹿島らも含めて大半がその時代を生き抜ぬいた人間だが、同じく大半の人間がその時代の事をよく思い出せない。忘却したのではなくアンデスの力によって全ての苦痛や困難の記憶に〝華〟が添えられ、行き過ぎた神の横暴に対しても人類賛歌の伝説譚として刻まれた。
「短い間だったが俺達もあの〝人が自分を殺す日常〟を生きてきた。歴史の汚点だと言う奴もいるが、教授にとっては四十年以上過ごした大切な日々だったんだ。ノスタルジーに浸ってしまうのも無理はない」
「そういうものなのかねえ……」
「そう言うお前は、たまにはあの時代の事を思い出さないのか?」
「あの時代か」
そう言って鹿島はカツ丼を頬張る。三百六十円。カツは肉厚で衣はクリスプ状になっているので、噛む度にサクサクとした音が鳴って心地良い。
旧人類。新時代を拒み、苦痛を伴ってでもアンデスによる心の平穏を拒否した者達。心の平穏は常に不安定で、絶望が身を包んでも自然に死ぬ事すら出来ない悪夢の狭間で生きる人種。
旧人類のほとんどは自ら神経を乱す事を望んだ退廃的思考の持ち主で、全体の八割が何らかの犯罪行為に手を染めていると言われている。アンデスの影響に阻害されないで飲酒や喫煙の刺激を貪る重度の薬物中毒者や、創作神話を信仰した異端思考者ばかりだ。
教授はいい歳なので、おそらくは自然死信仰の持ち主だろう。あるがままに生き、死を恐れず受け入れるという意思に似た概念。十次元戦争以前、空から神が現れるまでの混沌が日常であった日々に縛り付けられたテクノロジー恐怖症だ。
「俺は、あんな人が自分を追い詰めて死にまくる時代に未練は無いよ」
鹿島は窓から空を見上げた。今日も空に開いた〝穴〟は大きい。
穴の奥には虹色に輝く不思議な空間が見えるが、青貝にはきっと違う景色が見えるのだろう。天人がやって来た際に開けられた穴はどこへ繋がっているかも分からないし、新たな災厄を恐れて誰も近づこうとしない。
そもそもあそこに存在する穴は物理的な欠落ではなく概念のようなモノだ。全ての人類がたまたま同じ幻覚を見続けているに過ぎない。
ふいに鹿島は息が苦しくなる。首元を手で抑えると、青貝が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫か?」
その言葉に鹿島は咳払いをして頷く。
まただ。また何かが首に絡まっている感触がする。幼き時代に父に手を曳かれて歩いた記憶が自分を苦しめる。体内のアンデスにいくらクレームを送っても、精神が安定する兆しが見えない。
父はいつだって優しくて、いつだって忙しそうに部屋の机に向かっていた。それでも普段は愛嬌とユーモアに溢れた人で、殴られた事も乏しめられた事も一度だって無い。そんな父も天人の襲来時に死亡し、どこかの簡易火葬場で炭になってしまった。
鹿島は呼吸を整えると、小さく息を吐いた。アンデスという永久精神安定薬があろうとも、人は親しき人の死からは逃れられない。胸の奥では常に死への〝悲哀〟や〝恐怖〟が心を蝕み、それをアンデスがポジティブに結びつけようとする輪廻にも似た鼬ごっこを繰り広げている。
鹿島はふと、あの自縊死したサラリーマンを思い出した。人は常に何かと戦いを繰り広げている。過去の苦痛、未来への不安、現代の焦燥。大型哺乳類と戦い、隣人と戦い、隣村と戦い、隣国と戦い、神とも戦い、全てに勝利を収めた後、最後に立ち塞がったのは己の心だった。
そして一人で戦う事の知らない人類が作り出した友が、アンデスこと自律神経失調予防プログラム細胞「アンチ・デストルド・システム」なのだ。
水谷教授はアンデスの福音がある生活を知らない。知れば永遠の安寧を約束されると分かっている筈なのに、何故かそれを拒んでいる。
もしこれが無かったら、自分ならこの世界でどんな生き方をしているのだろうか。そもそも自分だって昔はそれを知っていた筈なのだ。だが今は幸福な感情が、それを知るべきでないと立ち塞がっている。
鹿島は友の顔を見ながら思う。絶望とはどんな感触なのだろうか。
どんな感触だったのだろうか。