第五章(8)
鹿島は両手を合わせると、そこから虹色に輝く糸を取り出した。虹色の糸を見た天人は顔を驚愕させたが、それが歪み切るよりも前に鹿島は糸を鞭のようにしならせた。
「這いつくばれ、屑野郎!」
横面を糸で思いっきり叩かれた天人は地面に這いつくばり、自慢の顔に何十年と積もった埃を擦り付けた。
「そうかい……、それがお前の源か」
そう言うと天人は頬を地に擦り付けながら、クツクツと笑い始めた。
「大切な人を守りたい、か。御大層な事だがそれをした先に何がある? ……俺は知っている。貴様らはどれだけ人を護ろうと、いずれは護ってきた人間に迫害される運命だ」
「……何が言いたい?」
「お前はさっきの言葉を、ブタ相手に同じ事が言えるか? 今から俺とチークを踊る事が出来るか? 言うまでもなく無理だ。存在目的の意義が違う同士では手を取り合う事は出来ない。豚と人間、人間と天人、天人とイモムシ……。その隔たる壁を壊すには、全てを一つの存在にするしかないんだよ」
「一つの存在?」
「全ての生物、全ての魂を遍く救済し、平等に十次元の住人に変える。それこそが! 俺に与えられた使命だ!」
そう言うと天人は手を突いて起き上がり、苦しみもがく青貝の方を見た。
天人は地面を強く踏み込むと、青貝の元へ駆け寄った。鹿島も追いかけるが、今の鹿島では天人に追いつく事が出来ない。
身動きの出来ない青貝の前に、アタシが立ち塞がる。アタシはメンタルフォルスの糸を盾のようにして広げたが、天人はそれを手で一振りしただけで消し飛ばした。
「お前に用は無い!」
天人はアタシを払い飛ばすと、彼女は草野がいる方向に吹っ飛ばされた。天使の腕が当たった瞬間、彼女の身体からゴギッという嫌な音を立てた。
束の間二人きりになった天人は、悶え苦しむ青貝を見下ろした。青貝も天人は見えているのか、視線をどうにかして上げる。
「青貝君、俺の声が聞こえるかい?」
今までとは違う優しさに満ちた声色に、青貝は食い縛った表情に虚を突かれた。
「俺は間違っていたよ。君こそ天に相応しい存在だったんだ。そんな君に対してこんな惨い行為をしてしまい、俺は自分がとても恥ずかしいよ」
青貝はただ、天人を見上げる事しか出来なかった。今でも心の中では誰かの絶望の声が鳴り響いている。
頭の中ではムカデが走り回るかのような苦痛が走り、せり上がる吐瀉物は血や汗に水分を奪われて流れ出る事すら出来ない。
「君も辛いだろう。もう何人の絶望を追体験した? 何度殺され、何回凌辱された? だがそれももう終わりになる。苦しむ君に、一ついい事を教えてやろう」
その言葉を聞いた瞬間、鹿島はこの天人が何を言うのかが分かった。
「やめろ青貝! 聞くんじゃねえ!」
鹿島が攻撃を加えるよりも先に、天人の口は滑らかに動いた。
「そこにいる鹿島君だが、産まれて早々もう長くはない。彼の力は強大過ぎて、今なお自分自身を繭に取り込もうとしている。俺を斃そうが斃すまいが、彼が助かる見込みは無いんだよ!」
予想もしなかった天人の言葉に、初めて青貝は明確な反応を示した。血と汗に塗れていた青貝の目が、鹿島と合う。
「彼は再び君の目の前で死ぬ事になる。それは何故だと思う? 答えはね、君が彼の羽化を邪魔したからだ。彼は蝶にも芋虫にも成れず、かといって人間にも戻れず歪のまま産まれてしまった出来損ないなんだよ!」
その言葉を聞いた途端、絶望に抵抗していた青貝の動きが止まった。青貝だけでなくアタシも草野も鹿島までもが言葉を失い、世界ごと制止したような静けさに包まれた。
「時々いるんだよね、君みたいな人間ってさ。人を助けた気でいながらその実はトドメを刺しているっていう厄介な人種がね。君だって薄々気付いていたんだろう? 他のイモムシと呼ばれる者らとは明らかに違う、既に死を受け入れているかのような彼の姿にさあ!」
静けさの中で最初に響いたのは、青貝が膝をつく音だった。
「俺が、鹿島を……?」
「違う、お前のせいじゃない!」
鹿島の言葉に、青貝は両手を見る。血がこびり付いた掌に、彼の糸の感触が残っている。
「俺はあの時、お前の繭を……」
「違う、違うんだよ!」
必死に肩を揺さぶる鹿島に、青貝は目の光を失い始めていた。多くの人の絶望に触れ、助けられなかった友の死を乗り越え、自分にはやるべき事があるという信念が今、折れようとしていた。
それらを全て見ていた天人は、囁くように言った。
「安心したまえ。君の罪は償われ、彼も間もなく死ぬ。他の者もまたあちらの世界に行くのだから、あちらで仲直りすればいい。君の人生最大の友を生かしも殺しもせず、死体すら残せない醜悪な状態にしてしまった罪はここに置いて逝くといい」
天人は鹿島を突き飛ばして青貝と向き合うと、にっこりと微笑んで言った。
「もう大丈夫だ。安心して死んでいいぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、青貝の中の最後の理性が切れた。
次に響いたのは、青貝の全身を何かが巻き付く音だった。その音は彼の身体から飛び出し、目にも止まらぬ速さで彼を包み込んだ。
首に巻き付くどころか全身を余すとこ無く包み込み、バキバキと嫌な音を立て始める。
「あ、青貝! ……てめえぇェ!」
そう言って衝撃波を飛ばした鹿島に対し、天人はそれを翼で受け止めた。見れば完全に消滅させた筈の翼が、天人の背中に戻ってきていた。
「出来損ないの天使に出来て、俺達に出来ない道理は無い。どれだけお前の攻撃が歪であろうと、時間さえあれば再生出来るんだよ」
「なら何度だって……」
「何度だって付き合ってやってもいいが、その前にお前の身体が持つかな? 上手く服に隠せているようだが、その下はどうなっている?」
天人の言葉に、鹿島は舌打ちをするのを堪えた。天人が察した通り、既に鹿島の下半身はほとんどが糸に包まれていた。
青貝を助けに行くのが遅れたのもこのせいであり、もはや糸に包まれているのか身体が糸に変化しているのかも鹿島には判らない。
今では糸は腰元まで包み始めている。これが首にまで伸びたら、完全に身動きは出来なくなるだろう。もはや一刻の猶予すら惜しい。
鹿島は無機質な糸に包まれた友の姿を見た。見るに堪えない、心が掻き毟られるような光景だ。自分がこうなっていた時も、あいつはこんな気持ちを抱いていたのだろうか。
能力を使えば彼を引っ張り出す事も出来るだろう。だがここで意志も無い彼の糸を引き裂けばどうなるかは、鹿島にも分からない。
もし自分のような歪として産まれてしまったのなら、きっと彼は自分の身がどう変わろうとも自分を許してしまうだろう。許し、笑い、くだらぬ茶々を入れた後で、ひっそりと一人で堪えた涙を流すのだろう。自分がそうしようと思っていたように。
俺達は双子以上に双子っぽい生き方をしてきたが、こればかりは俺一人で十分だ。今の俺に出来るのは、ただ彼に言葉をかけ続ける事だけだ。
鹿島は最後の力を振り絞ると、天人に向かって掴み掛かった。まだ動く両手で胸倉を掴み、糸と化した足を地面の底まで伸ばして天人の動きを止める。
「土鳩野郎、一緒に死ねや……」
鹿島は全身から虹色の糸を伸ばすと、それを羽のようにして開放した。天人の翼よりも遥かに大きく、この建物全てを呑み込もうかという大きさだ。
「道連れのつもりか? 小賢しい」
天人は忌々しそうに手を振り上げると、それで鹿島の胸元を貫いた。手応えに違和感を覚えた天人は首を傾げると、鹿島の服を引き裂いた。
既に鹿島の糸は胸元まで伸びていた。その姿を見た天人はクツクツと嗤う。
「もう駄目だな。お前は終わりだ」
「テメエだって終わりだ」
「生憎だが……」
そう言うと天人は大きく両翼を伸ばした。伸ばした瞬間鹿島の糸のドームは引き裂かれ、小さな空から陽光が当たる。
「お前にはもう、俺を地に留めておく程の力も無い。いくら俺に触れる不条理な糸であろうとも、今のお前には無理だったな」
そう言うと天人は一つ息を吐いた。まるでコーヒーを飲んで一息つくかのような、一仕事を終えた吐息を漏らした。
「お前は終わりだ。最期くらいは天の遣いらしく、空から見下ろしてやるとしよう」
「……それは出来ねえな」
その言葉に対し、天人は表情を変えた。その言葉を言ったのが、目の前にいる鹿島ではなかったからだ。
声の主に気を取られているうちに、天人は地に足を縛り付けられた。
「蔓延蔓七式・奈棗緊縛」
草野は両の掌から七本の蔓を走らせ、天人の足に巻き付けていた。
「よう、さっきはよくもやってくれたな?」
彼の言葉に天人は舌打ちをして切り落とそうとしたが、何故か蔓は最初の交戦の時と違って激しい抵抗を見せていた。
「切りにくいだろう? そいつは特別製だ」
「貴様一体何を……」
「今だアタシ、やれ!」
草野が叫んだ時には、天人の目の前にアタシが飛び込んできていた。
飛び込んできた彼女の姿に、天人は両翼で身体を隠した。何物も何者も寄せ付けぬ拒絶の翼に触れればイモムシの糸は切り落とされ、肉体だって瞬時に裁断される。
だが天人は目を開けると、そこには五体満足で息を切らしながら自分を睨むアタシの姿があった。先ほどまで存在していた両翼は、またしてももぎ取られて消滅していた。
「馬鹿な。何故だ! 何故貴様如きが……」
突然の出来事に、天人は驚きを隠せなかった。確かに自分の翼は彼らを寄せ付けなかった。彼らがどれだけ強固にメンタルフォルスを伸ばそうが加工しようが、自分の身体は自分の意志一つで弾き飛ばす事も透過する事も可能だった筈だ。
そんな天人の思いに対し、アタシは憐れみに満ちた目を天人に寄越した。天人はアタシが手に持っている物に気付くと、ギリギリと歯軋りをした。
「その鋏は……!」
「ええ。貴方の身体を唯一切り裂ける、鹿島の糸から産み出したモノよ。貴方を地に縛り付けているその蔓には、散々ばら撒いた貴方の羽根が縫い込まれてるわ」
「ち、畜生……!」
思わず呟いた天人の言葉にアタシは鋏を肩に乗せながら、憎たらしい笑みを零す。
「畜生? 天の遣いたる貴方がそんな言葉を使っていいのかしら? 日本語でも十分最低だけど、英語なら『God damn it』で『神よ、地獄に堕ちてくれ』っていう意味になるわよ?」
「グ、グウウゥ……!」
身体も能力も言葉すらも封じられた天人は、ただ獣のように唸り睨む事しか出来なかった。
「何故だ、何故貴様らがこんな……!」
その時天人は初めて、目の前にいる鹿島を見た。糸が首元まで迫って来ていた鹿島の身体からは、三本の糸が伸びていた。その内の二本はアタシと草野の頬の辺りに繋がっている。
「まさか、貴様……」
「ようやく気付いたか。糸は攻撃するだけが能じゃない」
そう言って鹿島は天人に対し、皮肉っぽく嗤った。
「最初から俺はお前と心中するつもりなんて無かった。俺はただお前をここに縛り付け、後は他の皆に任せただけだ」
「お前、あんな雑魚共を信じたというのか?」
「少なくとも、お前の慕う神よりは信じられる」
そう言うと天人は忌々しそうにしながらも、クツクツとではなくゲラゲラと笑い出した。まるで下劣な人間がするような、人を対等に人として馬鹿にする堕ちた笑いだ。
「俺も終わりという訳か。……まあいいだろう。さっさと殺せ」
「死を目前にした割には、やけに落ち着いてるじゃないか」
「天人に〝死〟などという概念は存在しない。望めばまた好きに産まれ直す事が出来る。所詮最初から貴様らとの闘いも、俺にとっては一時の暇潰しに過ぎなかったんだよ」
天人の言葉に対し、鹿島はふうとため息をついた。
「それが十次元の存在という訳か。まあ、そんなところだろうなとは思ってたけどよ。死すら超越してやがるとは、まさしく不条理の塊だな」
「そういう事だ。……残念だったな、虫ケラ」
その言葉に鹿島は静かに目を閉じると、小さなため息を吐こうとしてそれを止めた。
「確かに俺は死ぬ。でも俺は今ここで死ぬとしても、俺を継いでくれる奴はいる。あいつがいる限り、俺はこの世に存在し続ける」
「……あいつだと?」
「ああ。……お前の後ろにいるよ」
瞬間、静かだった建物の中に、カツカツと足音が響いてきた。その音は一歩一歩と天人の背後に近づいており、途端に彼の中で不思議なモノが湧いてきた。
それはある一つの感情だった。天人に相応しくないこの感情を、何故か自分は知っている。昔何処かで自分は、この感情を強く感じた事がある。
最初に頭の中に湧いてきたイメージは、針の穴程に小さな空だった。
何故だろう。今よりもずっと昔、自分は空を見るのが怖かった。何故かは分からないが、空を恐れていた。空に亀裂が走った瞬間、自分は獣のように泣き叫んでいた。
だが今は上ではなく、後ろが怖い。後ろを見るのが何よりも怖い。
何か得体の知れないモノが自分の、俺の背後に迫ってきている!
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ!
誰か、誰か!
「お前もさっさと現実を見るべきだ、屑」
そう言って鹿島は最後の力を振り絞り、天人の首をそっと横に向けた。
天人の視界に、背後に立つ男の姿が映る。
そこには自分に対して強い殺意の目を宿し、掌からジャラジャラと無機物なモノを巻き付け、絶望のアカシックレコーズの糸巻きを手に構える男の姿があった。
地獄の底から死神に鎌を借りてきた、青貝繋一の姿があった。




