第四章(11)
途端に彼女はその場に俯くと、まるでヒトとは思えぬ尋常じゃない叫び声をあげ出した。大型の獣が合唱をしているかのような耳をつんざく音に、鹿島だけでなく他の三人も耳を塞ぐ。
「これはまずい! 鹿島、こっちに来い!」
草野は声の限り叫んだが、獣の如く悶え暴れまわる平野を抱き寄せる鹿島には届かない。
草野は一度舌打ちをすると、指先から蔓を伸ばして鹿島を無理やり引き寄せた。茫然と地面に転がる鹿島に、草野は平手打ちをした。
「クソ馬鹿野郎! お前までああなりたいのか?」
平手打ちを食らっても尚、鹿島はただその場に茫然と座り込んでいた。傍らに立った青貝が彼に手を伸ばすが、鹿島はそれに見向きもしない。
「何か、何か方法は無いんですか?」
鹿島に代わって青貝が、アタシと草野に叫ぶ。
「無理だ。直に彼女は天使に変貌する。もう助ける事は出来ない」
「じゃあ……、じゃあせめて! イモムシになる可能性は!」
「イモムシになるのは自発的な絶望だけだ。あれは天使の肉とかいう他発的な要素によって変貌するから、彼女は天使になる以外の道は無い」
「そんな事って……」
「出来れば羽が出る前に仕留めておきたいんだが……」
そこまで言って、草野はへたり込む鹿島を見た。ヒトの形を留めたまま苦しむ彼女を、彼の前で殺すのはどうしても出来ない。
「せめて苦しまないように、簡単に斃せるタイプだといいん──」
「ねぇ、ちょっとおかしくない?」
驚きつつも冷静なアタシの物言いに、鹿島も含めた三人は彼女を見た。鹿島に至っては、彼女の言葉に希望すら見出した気分だ。
「これだけ待っているのに、彼女からは〝糸〟が出てこないわ。まるで己の中の何かと戦ってるみたい……」
アタシの言葉に鹿島は立ち上がると、叫びのたうち回る平野を見た。見るに堪えない醜態だが、確かに彼女はまるで己の中にある何かを追い出そうとしているかのようだった。
「平野……、おい、平野!」
鹿島の言葉に、平野は口を開いた。
『か、カし、ま……。わら、イ、しテ……』
その言葉は彼女の、魂の慟哭だった。彼女は〝彼女〟であるうちに、鹿島に言葉を遺そうとしている。
「おい、何だよ。ちゃんと分かる言葉で言ってくれよ……。なぁ、頼むよ……。頼むから!」
「……無駄だよ」
冷たく言い放った言葉は、四人の背後からそっと流れ込んできた。四人が振り向くとそこには、アタシや草野の見知らぬ男性が立っていた。
だが鹿島と青貝の二人は、その男を知っていた。浅黒く焼けた肌に相手を威圧するかのようなワイルドな服装、青貝なんかは近寄りたくもない人種である友の想い人。
平野愛里の恋人が、そこに立っていた。
「あれは天使の肉なんてご大層なモンじゃない。十次元の住人に肉体は存在しない。あれは天人の魂を詰めて固めただけの、ただの石ころだ」
男の姿に咄嗟に糸を構え出す二人を見ても、男は平然とした様子を崩さない。
「東雲から取り出したのは、お前らも持ってるだろ? あれは概念に近い十次元人、お前らの言う天人を三次元に格落ちさせて閉じ込める為の道具だ。まぁ、一種の堕天だな」
「堕天だと……」
事態を呑み込めない草野の前に、アタシが立ちはだかる。
「それよりも貴方、いま東雲さんの事言ったわよね? まさかあの子も貴方が……」
アタシの言葉に対し、男はクツクツと不気味に嗤った。
「ああ、そうだ。俺が彼女を天使に変えてやった。あいつは俺に振られて相当ショックを受けていたからな。別れのキャンディにプレゼントしてやったよ」
「お前えぇ!」
激昂した青貝ががむしゃらに殴り掛かったが、男はそれをするりと躱しながら青貝の腹に軽い蹴りを一発撃ちこんだ。
青貝は腹を抑えて咳き込みながら、華麗に拳を躱した男を睨みつける。
「話を聞け、旧新人類」
そう言って男は埃を掃うようにパンパンとズボンを掃うと、遠くでもがき苦しむ平野を見た。
「先にネタばらしをしよう。この際俺の名前はどうでもいい。俺の目的というか役目は、この世界に全ての天人を呼び戻す事だ。どっかのバカが五年前に閉じた十次元の狭間の扉を開き、全ての人間を天使に変える。その為に東雲も平野も俺が利用した」
「何だってそんな事を!」
「さあな。空を仰いで神様に訊いてみたらどうだ?」
そう言ってクツクツと嗤う男を見て、三人は本気で殺意を沸かせた。
「おっと、今は俺より先に彼女を見た方がいいぞ」
殺気を感じたのか男はそう言うと、未だに安らがず苦しむ平野を指差した。その様子からはもう、彼女が自分の恋人であった事実など微塵も感じられない。
「東雲のとは違い、アレが呑み込んだのには複数の天人の魂が入っている。繭が中々出来ないのもそれが原因だ。今アレの心の中では複数の下級天人達が肉体の主導権を握る為に、寄って集って彼女の意識を凌辱しているんだよ」
腸が煮えくり返るような言い草に全員が激昂して攻撃したが、男は全ての攻撃を難なく避けた。アタシの髪は男の背後に突き刺さり、草野の蔓は軌道が逸れ、青貝は無様に壁に突っ込んだ。
だが攻撃を加えなかった鹿島だけは気付いた。見間違いで無ければあれは躱したのではなく、身体を通り抜けたのだ。
鹿島は平野の元から離れると、男の前に立った。
「何の為にこんな事を?」
男は最も絶望に近い筈の鹿島の冷静な物言いが意外だったのか、つまらなそうに言った。
「ただの興味だよ。一つの天人の魂からでは、一枚の羽しか生えない弱い天使しか産まれない。だが最初から複数の魂を叩き込んだ場合はどうなるのかを、試してみたくてな」
「そうか、だったら最後にもう一つ答えろ」
「何だ?」
「お前は彼女を、平野愛里を愛していたか?」
鹿島は男の目を鋭く睨みながら、決して見離さずに言った。授業の時に彼の目を逸らしてしまった事が心の底から悔やまれる。
相手が得体の知れない存在である事は百も承知だが、今はそれ以上に大事な答えがそこにある。
「……ああ、愛してたよ。見ていて滑稽で笑えたし、具合も良かったからな」
その言葉を切っ掛けに、鹿島の中で何かが捻じ切れた。
「下衆野郎がっ!」
殴り掛かろうとする鹿島を引き留めたのは、草野だった。止めたのは彼の生み出す蔓ではなく、煮えるように熱くなった彼の右腕だ。
「……お前が人間だか天使だかはこの際どうでもいい。この世に実害しか生まないお前は、俺が殺す」
「乱暴だねえ。それはお兄さんの影響かな?」
男の言葉に草野は一瞬目を見開くが、直ぐにそれを鋭くさせた。
「場所を変えよう。ここでは邪魔になる」
その言葉に頷き草野と共に去ろうとした男は、去り際にわざとらしく「あっ」と言って鹿島の方を振り向いた。
「言っておくが、それはもう助からないぜ? 例え俺が死のうが悔い改めようが、確っ実に助からない。今ならそこらの煉瓦で頭を砕けば殺せるだろうけど、そうなると死体はこの場に残っちまうから、お前らの内の誰かは殺人罪でしょっ引かれるのは間違いないな!」
その言葉は鹿島と青貝の胸に響いた。殺人行為なんて新時代においてはテロ並みに起こらない現象だ。旧時代と比べて厳罰化が進み、する奴といえば旧人類の武闘派やらアンデスが壊れて錯乱した連中など、獣に等しい連中だけだ。
だが限界まで神経を逆撫でする男の口調は、残された三人の心に嫌でも刻みついた。もはや殺意を以って睨むのは、せめてもの抵抗心でしかない。
「まぁ犯罪以前にお前らに出来るかな? そいつはまだヒトだ。精神を滅茶苦茶に侵し犯されているが、まだヒトである事に変りはない。断言してやるけど、お前らにヒトは殺せない」
「……何が言いたいの?」
「お前らはナイフを持とうが銃を撃とうが糸を生やそうが、最後の最期まで人間である事を辞められない。やらなければやられて死ぬ状況になっても、最期まで人間性を棄てる事の出来ないクソみたいな人間中毒者なんだよ」
そう言うと男はさっさと外へと出て行ってしまい、激昂した草野がそれを追って行った。
残された三人は苛立たしさを感じつつも、苦しむ平野を見た瞬間にはそれが全て消えていた。例え彼女が罪を犯していたとしても、どうにかして彼女を救ってやりたい。それだけが三人に共通していた切なる想いだ。
最初に口を開いたのはアタシだった。
「私がやるわ。私が罪を背負う」
アタシがそう言うと、青貝がそれを引き留めた。
「駄目だ、君にはアンデスが無いんだぞ! 殺人なんて心の負荷に君は耐えられるのか? それに君一人に重い罪を背負わせる事なんて、俺には出来ない……」
青貝の言葉に少女は目を逸らす。今まで彼女が天使を屠れたのも、全ては人間と明確な線引きをしていたからなのだ。それが崩れてしまうとなると、彼女はより重い罪と罪悪感に潰されてしまうだろう。
「やっぱり俺が──」
「いや」
青貝の言葉を、鹿島は遮った。
「俺がやる」
鹿島の言葉に、今度は青貝が立ち塞がる。
「バカ、お前には無理だ! お前だけは彼女を殺せる訳が無い! お前だって本当は知ってたんだろう?」
「知ってたって、何が?」
「それは、その……」
口を濁す友の様子を見て、思わず鹿島は小さく笑みを零した。こんな状況でそんな〝照れ〟を出す奴があるか。そんな事を考えると、僅かにだけ心が安らいだ。
……それでいい。お前はそれでいい。それが俺の友人であるお前、青貝繋一なんだ。
だが鹿島優はここまでだ。
これから俺は、地獄に堕ちる。
「彼女は殺さない。だがこのまま放っておく訳にもいかない。となると方法は一つだ」
「一つ?」
「まだ人の声が聞こえるうちに、彼女を天使に羽化させる。自縊死するまで彼女の精神を追い詰め、生きようともがく彼女に引導を渡す。……こればっかりは俺にしか出来ない」
話を続けようとする青貝を無視し、鹿島は平野の前に立った。嘲るように彼女を見下ろし、侮蔑を込めた目で睨む。
『か、かシ……』
辛く助けを求めるように伸ばす彼女の掌を、鹿島は払い飛ばした。
「……うるせえよ」
一つ息を吐いてから、鹿島はそれを爆発させた。
「この際だから全部言ってやる。初めて会った時からな、お前の事が気持ち悪くてたまらなかったよ。誰にでも股開く安い女みてえな姿に、ダラダラと無駄に伸ばした髪! 女だからとか初期型アンデスを持ってたからとかじゃなく、生理的にお前という存在が無理だったから距離を置いたんだよ俺は!」
鹿島の言葉に平野だけでなく、頭の中のアンデスもまた生きようともがき始めた。
「しかも何だ、あの気っ色悪いアンデスは? 首にケツの穴でも付いてんのか、ああ? 女の癖にあんなもん体に取り付ける事に抵抗なかったのか? お前の言う通りありゃ人間じゃねえよ。半端に人間の姿で俺の周りを歩き回るだけでなく、友達面までして俺に話しかけやがってよ。お前の傍に立つくらいなら、ラブドールでも抱いて学内を歩いてる方がまだマシだったよ」
血を流す覚悟で目元に力を入れ、流れ出ようとする塩水を食い止める。平野は少しずつ暴れまわるのを止め、落ち着きを取り戻した。その落ち着きが何を指すかも分かる。
鹿島は最後に一つ大きく息を吸うと、一気にそれを吐き出した。
「お前なんかと友達になったのは、俺の人生最大の汚点だ! お前のせいでどれだけの人が犠牲になった? お前は生きる価値も無い、最低最悪の極悪人だ。誰もお前を愛したりはしないし、当然俺もお前を愛さない。……お前は天人が来た時に無様に生き延びたんじゃねえ、最初からお前は生きてちゃいけなかったんだ。産まれて来なければよかったんだよお前は!」
言葉の力は恐ろしく強い。一度も思った事が無い言葉でも、一度口に出してしまえば自分の言葉として心に刻まれてしまう。現に鹿島はもう、全ての言葉は自分が本当に思っていた事のように錯覚し始めていた。
鹿島の言葉に彼女は動きを完全に制止すると、肩から糸状の物質が出てきて身体に巻き付き始めた。生きたいと抵抗していた彼女の意識は、遂に天人に対して身体を明け渡した。
それは形容し難い、シンプルな線のような糸だった。塊に潜んでいた天人の分だけ七色に輝き、繭が胎動をし始めた。
七色の繭は少しずつ破れ始め、まるで鹿島の言葉を否定するかのように、彼女はこの世に二度目の生を受けた。
平野愛里の意識、正確には平野だった天使が彼女の意識を紡ぐ。
『愛しています。まだあなたを愛してください。あなたの笑顔が大好きです。あなたの優しさが大好きです。愛の力。あなたのトーンが好きです。私はあなたを愛しています。それは痛いが、私は好きです。だから──』
「もういい!」
鹿島は平野だった天使に向かって言う。天使の言葉は宿主の想いを適当に喋っているに過ぎない。これも全ては彼女の意識を適当に拾い集めた、ただの戯言なのだ。
だがそうなら、それが正しいのなら、何故もっと複雑に喋ってくれなかった? 複数の天人の魂に蹂躙されても尚、お前は〝それ〟しか考えていなかったのか?
これでは俺は、俺はお前が俺に何を伝えたかったのかが、嫌でも分かっちまうじゃないか。
抑えきれなくなった鹿島は力を抜き、大きなため息をついた。糸が切れたように止め処ない涙が溢れ始め、口の中に塩味が流れ込む。
「お前の言う通りだよ。この世は苦しくて、理不尽で、残酷で、神様なんていないのかもしれん。例えどこかにいたとしても、俺達の事なんて一目すら見ていないだろう」
平野天使は最後の人間性を保つかのように攻撃をせず、鹿島の言葉を聞き続けた。
「でもなあ平野、俺はまだ生きていたいんだ。俺は友のようにやりたい事や、やらなければならない事も何も無い。今となっては生きてる価値だって無いのかもしれない……」
鹿島は最後に息を吸い込むと、その気持ちを呼吸に乗せた。
「それでも俺は、まだ生きていたい。生きる為なら、お前とだって戦う」
鹿島の言葉を聞き終えた平野天使は肩を隆起させ、七色だった糸を一色に染めて彼に突き付けた。
針のように鋭い彼女の想いが、鹿島の目の前に現れる。
それを見た鹿島は、また大きなため息をついた。
「……本当に、神様は悪趣味だ」
鹿島の目の前に、赤い糸が伸びて来た。




