第一章(2)
大学までの道程が楽なのは、下宿の利点の一つだ。大学から歩いて五分というキャッチに釣られて辺鄙な場所に部屋を借りてしまったが、残り二年近く通う事を考えれば安いものだ。
まだ働こうとしない頭を振り回し、鹿島は二限の講義内容を思い浮かべる。確か「日本語の研究」という講義で、文学部に籍を置く自分と青貝には必須の専攻科目だ。出席日数に余裕は持たせているが、それでも逃したら留年が確定する。
だがあの激しくつまらない講義内容を教授の心地良い安眠ボイスで受講していると、大抵の学生は眠ってしまう。生徒の間では「水谷ローレライ伝説」とまで呼ばれており、真面目に聞こうとすればする程深い眠りに落ちる泥沼講義だ。
ましてや水谷教授は鹿島と青貝のゼミの担任教授でもあった。ただでさえ出席率の悪い講義なのに見知った顔までが厚顔無恥を晒すのは、旧人類の教授には頭にくるものがあるのかもしれない。
罪悪感から気持ちだけ歩みを早めていると、道の真ん中に人だかりが出来ていた。火事か何かかと思ったが、強い怒りの声が周囲を埋めている。
人々の隙間から覗いてみると、そこには男性の首吊り死体があった。生気を失った顔を見るに二十代後半から三十代半ばといったところで、着用しているビジネススーツはくたびれ、顔には悲壮感が漂っていた。
鹿島はそれを確認すると、瞬時に興味を失った。何かと思えばただの縊死体だ。何故こんなにも人々が集まっているのかと思えば、正確には死体ではなくその前で大騒ぎしているおばさん二人を皆で宥めていたらしい。
おばさんの片方、パーマがかかった方が声を荒げる。
「この糸を見なさい、アナタの家の塀に付いてるでしょうが! アナタが通報しなさいよ!」
その言葉に、恰幅の良いおばさんが反論する。
「何を言ってんの、ちゃんと見て! 足が地面に付いてるでしょう! 足が地面に着いている場合は〝道路上自然縊死〟となって、通報義務を負うのは第一発見者じゃないの?」
そういう事かと、鹿島は一人合点する。
十次元戦争終結から三年経つが、自然縊死問題は未だに解決の目途が立たない。普通は第一発見者、縊死場所が私有地の場合はその持ち主が通報、葬儀に顔を出すのが暗黙の了解且つ良識ある社会人としての行動と言われているが、何の縁も無い他人の為に丸一日の時間と数万円の香典費用を用意するのは中々に手痛い。
鹿島は首を吊ったサラリーマンを見た。縊死したサラリーマンの糸はまるで蜘蛛の糸のように粘つき、それが体中の様々な箇所から飛び出て首に巻き付いておばさんの家の塀に貼り付いていた。
頬骨が浮き出る程に痩せた顔つきに、一回もアイロンをかけた事の無いようなくたびれた服装からは、彼がどれだけ社会の荒波に揉まれていたのかが伝わってくる。憔悴して老け切った顔をしているが、年は自分とそこまで離れてはいないのは間違いない。
導入世代からして三期か四期型の新人類。当然体内にはアンデスが活動していた筈だが、更新が追いつかない程に目まぐるしい日々を送っていたのかもしれない。
鹿島は思う。蜘蛛の巣に巻き込まれて死ぬなんて、なんと詩的な死に様だろうか。同期の女友達が聞いたら食いつきそうな題材だ。あるいはそういう自分を想像していたからこそ、こんな糸が発生したのかもしれない。
おばさんらの問答に見飽きたのか、野次馬は鹿島を除いて全て消え去っていた。鹿島は目立たぬように人の群れから一歩離れると、ぼそっと呟いた。
「ん、あれって清掃車じゃないか?」
さり気なく言った途端、おばさん二人は鹿島が指差す方向を食い入るように見た。その隙に鹿島がそっと死体の糸を指で解くと、サラリーマンはズルズルと地面に落ちた。
目を離した隙に糸が切れてしまった死体に戸惑う二人だったが、鹿島が「角を曲がったのかな?」と言うと、慌てて存在しない清掃車を追いかけて行った。自縊死体は巡回していた清掃車が見つけたのなら葬儀参加義務が行政に移るので、おばさんらはどこかどこかと探している。
鹿島は三度サラリーマンを見た。この死体も時期に清掃会社に引き取られ、摩耗したアンデスを取り除いた後に焼却されるのだろう。
自縊死体は大抵の遺族も引き取りを拒否するから、彼が〝人間〟でいられる時間は今この瞬間が最後だ。己が刻んだ絶望の記録が人類の希望に繋がるというのなら、彼の死も意味があったのかもしれない。
朝から嫌なものを見てしまった。布団占いは特大ラッキーだった筈なのにと、鹿島は一人舌打ちをする。
ふと、鹿島の頭の中で何かが響いたような気がした。痛みではなく軋みのようなその音は、鹿島の過去の記憶をくすぐった。
だが鹿島はそれを気にせず、おばさんらが戻って来る前にその場を去った。