第四章(3)
指定された待ち合わせ場所は1号館に併設された情報センター内の喫茶店だった。一階は講演会やら何やらに使う大ホールで二階は図書館となっており、目的の喫茶店は地下一階にある。
店内に入ると、既に半分近くの席が埋まっていた。昼飯時なのである程度混むのは予想出来たが、青貝に言わせると最近は喫茶店のマスターが凝り出したラテアートの写真を撮る為に、多くの女学生が来ているのだという。
二列に並ぶテーブルの一番奥、店内で一番陽当たりの悪い場所に彼女はいた。机の上にはラテアートの無いラテが置かれ、彼女の他には誰も座ってはいない。
「久しぶり。元気してた?」
青貝がフランクに少女に話しかけるのを、鹿島はじっと見守る。少女は初対面の時からは考えられない位に警戒心を解いていた。
少女は青貝に目を向けると、小さくふんと鼻を鳴らした。
「イモムシに『元気』なんてモノは無いわ。慢性的な不眠と悪夢、己を非難する幻聴に毎日悩まされているわよ」
「それは、その……。ご苦労様」
慰めたいのか馬鹿にしたいのかも分からぬ言い草に、思わず少女も鹿島も吹き出す。
「大丈夫よ。私はこれでもマシな方だし、むしろ普段より調子が良いくらい。酷い人は眠れないどころか寝ると大汗かいて暴れ叫んだり、夜尿を繰り返したり、まともにご飯を食べる事も出来なくなったりするらしいわ」
少女の言葉に一瞬どきりとするが、鹿島はどうにか平然を保つ。
「今日来る人もそう。いつ見ても無理していてこっちが滅入っちゃうような人だから、そこは覚悟しておいてね」
「その人ってもしかして……」
「ええ、私と同じイモムシよ」
彼女を見た時から薄々感付いてはいたが、やはり彼女以外にも意識を保って糸を操る者はいるのだ。
メンタルフォルスの糸と呼ばれるモノを操る、異形の能力者が。
「彼はこことは違う所に住んでるんだけど、今日はちょっとヤバそうだから出張してきて貰ったの」
「ヤバそう?」
「……まだ時間もあるし、先に見て貰った方がいいかもね」
そう言って少女は隣の椅子に置いた鞄をゴソゴソと引っ掻き回すと、中から何かを取り出した。モノが婚約指輪を入れるような箱に入れられていた為に二人は大いに動揺したが、中身を見てからは違う動揺に誘われた。
ケースの中に入っていたのは、何の変哲もないただの小さな石ころだった。今すぐスニーカーのつま先をほじれば出て来るような、どこにでもあるような鈍色の石だ。
「何だこれ?」
「東雲さんの体内から出てきたモノよ。あの時、彼女の〝中〟から取り出したの」
彼女が指す「あの時」とはつまり、彼女のメンタルフォルスの糸で東雲天使のどてっ腹に大穴を開けた時の事だろう。相川の財布といい、どうも彼女は手癖が悪いようだ。いや、この場合は髪癖か。
「前に草野さん、今待ち合わせている人に聞いた事があるの。東雲さんみたいに自然羽化した天使の中には、こういったモノが体内に潜んでいる事があるらしいのよ」
「それがその石ころ? ただの骨か血の塊か、東雲さんの胆石か何かじゃないのか?」
「さすがにあの若さで胆石は無いでしょう? それに石自体には何の問題も無いの。問題は中身よ」
「中身?」
「よく見て。石の中に、なにか筋みたいのが見えるでしょう?」
言われて見ると確かに石ころの中には、繊維のようなモノが張り巡らされていた。まるで石に神経が通っているかのようにも見えるし、子供の頃に恐竜図鑑で見た虫の入った琥珀のようにも見えた。
「草野さんが言うには、これが天使の〝核〟とも言える存在らしいの」
「核だと? 何て言うんだ、それ?」
「名称は色々あるわ。十次元の断片、不可視の結晶、ちょうちょ細胞……。私は単純に『天使の血』と呼んでいる。これが体内に入る事によって、人間は天使になるらしいの」
言われた瞬間に鹿島の血の気はサッと引き、手に持っていた石ころをピョンと青貝に投げ渡した。青貝は小さく「ギャアッ」と言いながらそれを受け取り、震える手でケースにしまった。
一連のやり取りを見て、また少女は笑う。
「安心して。私もよくは聞かされてないけど別にウイルスとか放射線みたいなモノじゃないらしいし、なんなら食べたって害は無い筈よ」
「そうは言ってもよ……」
「それにそれはただの欠片。もう何の効果も無いまさしくただの石ころで、本命がどこかに存在する」
「本命?」
「ええ。これよりも遥かに大きなモノ、原石を持った奴がこの大学にいる筈。そいつは東雲さんを無理矢理天使に羽化させ、大学構内の人々全てを天使にしようとした」
「つまり黒幕って事か……」
黒幕と言う青貝の言葉に、鹿島の胸の鼓動が早まる。未だに尾を引く天使との攻防は、まだ鹿島の心のどこかに引っ掛かっている。
「そういう事。しかもそいつは人間だった東雲さんに全く怪しまれる事無く、その石ころを手渡すか注入する事が出来た。そんな事は自我の無い天使には出来やしない」
「じゃあ誰が?」
「それは分からない。ただそいつは間違いなく自意識と害意を持った〝人間〟として、この大学のどこかに潜んでいる」
みるみるうちに青貝の顔が、義憤に駆られた男の面構えになる。恩師とゼミ仲間を殺され、何の罪も無い学生も大勢自縊死させられた。そんな悪魔の所業をやった人間が、この大学の何処かにいるという。
何より彼の心を痛ませるのは、彼らの死を悲しみ慈しむ事の出来る人間がこの世にいない事だろう。
だからこそ彼は怒るのだ。悲しめない人々に代わって青筋を立て、涙を流し、手を合わせて、彼らはこの世界で確かに生きていたのだと繋ぎ止めようとする。英雄だった彼の父と同じく、彼もまた真っ直ぐで曲がる事を知らない。
鹿島はそんな友の姿を見て、ばれないように小さく笑う。こんないい奴にどうして恋人の一人や二人出来ないものかと、ある意味で神とやらを糾弾したくなる。
ピリリリリと、誰かの携帯電話が鳴った。無機質なデフォルト音の先は、少女の掌から流れ出ていた。
「もしもし。……ああ、ええ。今一緒よ」
口調からして相手は例の草野さんとやらだろう。名前だけでは見た目も年も分からないし、彼女とどういう関係かも掴めない。
「……本当に? 分かった、直ぐ向かうわ」
通話を切ると同時に少女は立ち上がると、鹿島らに言った。
「黒幕の正体が分かったわ。人間を誑かす悪魔とでも言いましょうか」
「何処にいたんだ? やっぱり大学の構内か?」
「場所は6号館の〝首吊り煙突〟。悪魔の正体も、草野さんが写真に撮って送ってくれたわ」
6号館といえば文学部棟のある8号館の直ぐ近くだ。あの一帯は人気の無い立ち入り禁止区域だが、逆を言えば何かを企むにはうってつけの場所だ。
「それは丁度いいな。人に見られずに済む」
「それで、その悪魔とやらはどんな奴だ」
少女は草野から送られた通話アプリの画像を見ると、一瞬だが大きく目を見開かせた。一種の超人とも言える彼女が驚いただけに、鹿島も青貝も恐怖を助長される。
「この人よ。貴方達も知って、……いえ、貴方達の方がよく知っているよね?」
画面に映った姿を見て、二人は言葉を失った。そこに映っていたのは俺達も良く知っている文学部の同期にして友人。
平野愛里の姿だった。




