第三章(3)
断末魔をあげる暇も無くスライスされた教授の体はその場に崩れ落ち、縄も糸も共にゆったりと床に落ちていった。縦に四分割された教授の体の形通りに黒い染みが生まれ、それも床に染み込んでいくかのようにして消えてしまった。
鹿島が少女の方を見ると、少女は黒髪、メンタルフォルスの糸とやらを縮ませながら床を見つめていた。床にはもはや、教授が存在した証は何一つ残っていない。
一点に床を見つめる彼女の顔は、ここからでは泣いているようにも見下しているようにも見える。あるいは単に戦闘に疲れて疲弊しているだけかもしれない。
「もう、これで終わりだよな?」
そう言った青貝の声は、足元から聞こえてきた。青貝はしゃがみこんで、また何も無い虚空に掌を合わせていた。
「それは分からないわ。水谷教授は誰も天使にはしていないけど、東雲さんが教室に来るまでに誰かしらを繭にしてる可能性は否めない」
「じゃあ?」
「既に構内で何匹か暴れ回っている可能性はあるわね」
言われた途端に勝利の余韻は消え、場を包んでいた空気がガラリと変わった。周囲に広がる人の声、壁板の軋み、窓を叩く風の音の一つまでもが黒々としたモノに変貌していく。
鹿島と青貝の中に最悪の光景が浮かぶ。人を安らかに殺して繭にし、繭からは同じように安らかに殺す事だけを考える天使が生まれて来る。もはやゾンビパニックというよりは、旧時代に存在したカルト教団のようだ。死こそが救済と宣う、最高に最低な一神教集団だ。
「だったら早く見つけないと! 繭を見つけるにはどうすればいい?」
「足で探すしかないわ。適当な人に訊いてもいいけど見た目には天使は普通の人と変わらないし、新人類は自縊死体には無関心だから難しいかもね」
「なんだよそりゃ。その髪、探知とかレーダーとかは出来ないのかよ?」
ムッとした顔を浮かべた少女が何か言い出す前に、青貝が割り込んできた。
「じゃあ、狙われる人の特徴みたいなのは無いのか?」
「……そうね。天使は絶望させやすい人を好むから、それを目安にすればいいかもね」
「絶望させやすい人?」
「第一目標はアンデスの無い旧人類。精神的苦痛がダイレクトに伝わるから、捕まればほぼ一撃で逝く。次に、アンデスが追いつかず摩耗する程にストレスを溜め込んだ新人類。社会人には多いけど学生にはあまりいないと思う。最後は、アンデスの型番が古い旧型新人類ってとこかしら?」
型番という言葉に、鹿島は思わず青貝を見る。そういえば先ほどの東雲天使も、多くいる学生の中から真っ先に青貝を狙ってきた。自分の隣にいる友の型番は現行型よりも一つ分古い。
思わず鹿島は青貝を見たが、彼は一向に気にも留めていないようだった。それが鹿島を妙に苛立たせる。
いつだってそうだ。こいつは自分の死の可能性の高さよりも、他者の微弱な死の可能性を懸念する。まるで父から教えられてきた教えを順守するかのように、人を慈しむ事に執着する。
青貝が少女に尋ねる。
「君が考えうる中で、構内で一番天使が来やすい場所はどこだ?」
少女は頬に手を当てながら思案した後、ぼそっと呟いた。
「保健室。怪我や病気、課題の行き詰まりにストレスを抱えた学生が多く集まるし、保険医の先生も確か旧人類だった筈」
「保険医の先生も旧人類なのか?」
「ええ、そう。私はこの大学にいる旧人類は大体覚えているわ」
少女の言葉に鹿島は考える。もしかしたら彼女がやたらと水谷ゼミに顔を出していたのも、水谷教授が天使の襲撃を受ける可能性を危惧していたのかもしれない。
「なら急がないと! あんなバケモンが何匹も出たら大勢の人が死ぬぞ!」
「……一つ気になってたんだけど」
慌てる青貝を制しながら、少女は静かに二人に尋ねた。
「何だ?」
「何故貴方達は、他人を心配出来るの?」
「……は?」
「新人類は他者を慈しむ感情は持っているけど、自ら死にゆく人間を守るような思考形態は持たされていない。人間の自殺行為は全て〝天からの攻撃〟と判定され、自縊死体はビジュアルが強烈だからアンデスは自縊死した人間を〝人間〟と見なさないように設定しているの。ましてや天使なんか、普通は見ただけでも自我と記憶が飛ぶわ」
確かに先ほどまで陶酔していた連中も、チャイムが鳴ると同時に何事も無く出て行った。心の中に「異常事態が起きた」という恐怖と不快感は残っているのかもしれないが、ゼミ仲間が変貌して教授を殺したところまでを仔細に覚えているかは分からない。
「でも貴方達は記憶を改ざんするどころか、自ら天使と戦おうとまでしている。新時代の常識で考えれば狂人に近い変人よ?」
少女の言葉に鹿島は面食らう。さすがに面と向かって変人と言われると少し凹む。
だが心は不思議なくらいに落ち着いていた。それは極限状態を経験したが故の余裕かもしれないし、隣にいる友の存在もあるのかもしれない。
「ねえ教えて。貴方達を動かすモノは何?」
その言葉には鹿島よりも先に、青貝が口を開いた。
「俺の父は、最初に天人に殺された十三人の内の一人だ」
青貝の言葉に少女は開きかけた口を閉じ、少しだけ目を見開かせた。
その驚きに満ちた目を見ながら、静かに青貝は語り始めた。




