第三章(2)
「曲がり角に消火器がある筈よ。それを取ってきて」
少女の言葉に鹿島らは視線を泳がす。消火器なら目と鼻の先にあるが、それには一度教授天使の横を通り抜けなければならない。
鹿島は青貝と目を合わせた。教授天使は既に自分らを意識の中に入れている。背を向けていようとも自分達は攻撃対象であり、一つでもミスをすればあっという間に死が訪れるだろう。
だが今ここで棒立ちしていても結果は同じだ。青貝は鹿島の考えを察すると一度顔を横に振ったが、それも直ぐに諦めた。産まれた時からの付き合いの友人は、自分が絶対に譲らない状況をよく知ってくれている。
青貝は辺りに散らばる本を掻き集めると、それを片っ端から教授天使に向かって投げ始めた。教授天使の意識が青貝に向けられると同時に走り出した鹿島が、天使の横を通り抜ける。
消火器が手に触れようとする瞬間、何者かに背中を押し倒された。振り向くより先に目前の壁に横一線が刻まれる。先ほど少女を追い回していた、見えざる斬撃だ。
押し倒した正体は少女の黒髪、メンタルフォルスの糸だった。流れ出る湖水のような光沢と女性らしい匂いに包まれながらも、一本一本が意志を持った針金のような強度を持っているのが分かる。
「間一髪ね。まさしく」
冗談めいて言う少女だったが、その顔に喜びの表情は浮かんでいない。疲弊しているからではなく、単純にどうでもよい感情が滲み出ている。
「あ、ありがとう……」
「礼は要らないわ。それよりも貴方のドジのおかげで、あの攻撃の正体が掴めたわ」
少女が指差した先は教授の背中だ。太めのパイプをぶっ刺したように飛び出た荒縄の隙間から、細く透明な糸が鞭のようにヒュンヒュンとしなっている。
「ステンレス製のワイヤーか何かかしら? 思った通り無機物が入り込んでいたようね」
どうやら見えざる斬撃の正体はこいつらしい。荒縄の強度と纏まりを強める為に入れてあるのだろうか。透明且つ艶消しでもしているのか、目を凝らさなければほとんど見えない。
鹿島は消火器のコックを外すと、教授天使に向かって白煙を噴射した。同時に少女も縛り付けた黒髪を解くが、教授天使は微動だにしない。代わりに透明な細糸が意思を持つようにうねうねと動き回っている。
「青貝、どこも真っ白だし今なら見えるだろ? あれがあの攻撃の正体だ!」
教授の横を通り抜けて、鹿島は青貝に言う。ようやく青貝の目にも暴れまわる触手の正体が映ったようだ。
「な、何だよあれ?」
「恐らく複合したタイプね。厄介だわ」
「複合?」
「私たち〝イモムシ〟には聞いた事無いけど、天使にはままあるわ。親の絶望と子の絶望が同調すると、ああいった混成物が産まれるの」
「同調って?」
「……きっと東雲さんは、水谷教授の大切な生徒だったんでしょうね」
その言葉に鹿島も青貝も何も言えなかった。自身が絶望に狂いながらも、他者の絶望に同調してしまう。それはきっと、人間にしか持つ事の出来ない感情だ。その結果がこんな怪物を産み出すというのなら、神とやらは本当にふざけた存在だ。
「さて。正体も見えた事だし、そろそろ片づけましょう」
そう言うと少女は教授天使の前に立った。目前の教授天使には見えていないのだろうが、背中の透明な糸はまるで彼女を探知するかのように慎重に揺らめいている。
消火器の白粉が薄れ始め、少女と教授天使が目を合わせた。教授天使は手を上げると、また少女を指差した。恐らくあれは距離感を測る為の行為なのだろう。
だがそれも一手遅かった。
「さようなら、先生……」
教授が手を上げ切るよりも先に、少女の黒髪は動き出した。
「初手終え〝塵彗〟」
散らばった少女の髪が大きな熊手のようになると、そのまま包み込むようにして教授天使の体は引き裂かれた。




