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慟哭のメタモルフォーゼ  作者: 田中 スアマ
第二章
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第二章(終)

「お、おい。教授まで変身したぞ!」


「しかも東雲さんよりでけえ! どうすんだよ?」


 慌てる二人とは裏腹に、少女はどこまでも冷静だった。


「羽化の早さ、羽の大きさ……。先生のお気持ち、お察しします……」


 そう言って彼女は、葬式の参列で遺族にするように水谷教授に頭を下げた。所作の一つ一つに対し、真摯な哀れみが感じ取れる。


 だが青貝と違って、彼女は手を合わせようとはしなかった。それは好感や倫理や価値観に関係した結果ではなく、彼女が人を区別する明確な線引きのように見えた。


 下げた頭がゆっくりと戻るまでの間に、教授天使の荒々しい縄羽は少女の首元を狙っていった。東雲天使の薄羽とは違う明らかな強度を持った羽は、今にも少女の頭をもぎ取ろうとしていた。


 だが少女の頭から蛇のような黒髪が動き出すと、縄羽は教授の体ごと縛りあげられた。


「一曲〝|手遊(てあそ)び〟」


 少女の黒髪は四方へと分散し、大蛇のように彼の四肢と羽に巻き付いた。教授天使は汗も筋肉も動かさない涼しげな無表情のままもがき、少女の目をじっと見つめている。


 鹿島はその光景を、ただじっと見つめていた。見た目にはただの毛髪でしかないものが、得体の知れない怪物を封殺している。


 教授天使もまた、まるでストレッチをするかのように体の各所を動かして動作を確認していた。一つ動かす度に弱所を見つけ出し、ほんの少しだけ縛っている髪が解けていくのが分かる。


 だが少女はそれを承知していたようにため息をつくと、縛っていた髪の毛を一気に引き戻した。いきなり解放されてバランスを崩した教授天使が前のめりによろけるのを、少女は見逃さなかった。


「二曲〝河流(かわなが)れ〟」


 少女が頭を傾けると、鹿島らの視界に〝黒線〟が走った。東雲さんの体に風穴を空けた時のように、光を通さぬ直線の闇が教授天使の体へ一直に飛んでいった。


 槍のように伸ばした黒髪は教授天使の胸へと突き刺さり、勢いをそのままに壁へと叩きつけられた。


 コンクリートに水を詰めた袋を叩きつけたような音が響き、青貝は目を背ける。風を切るようなスピードで人体が壁へ叩きつけられる姿には、人身事故の目撃に似た心のざわつきを感じさせられる。


 だが少女の黒髪がどけられると、そこにはピンピンとした教授天使の姿があった。叩きつけられる寸前に背中の羽がカバーしたのだろう。


 その姿に鹿島も青貝も慌て始める。


「おい、全然効いてねえぞ!」


 鹿島の言葉に、少女は小さく舌打ちをする。


「やっぱガイア寄りのミネラルか。厄介ね」


「ガイ、ミ……。なんだって?」


 鹿島の言葉に、少女は大きな舌打ちをした。これは教授ではなく鹿島に向けたモノだろう。


「ガイアとミネラル! 糸の特徴みたいなもんよ。教授の羽は自然物と無機物の特徴を持ち合わせている。多分、あの縄の中に何か混じってるわね」


 教授の背には荒縄を纏めたような羽が生えている。荒縄は藁を編んで作った自然加工物で、目を凝らすと羽の中に人工的な輝きが見てとれた。それを踏まえると、なんとなく彼女の言いたい事が分かってくる。


 ふいに教授天使は右手を上げると、少女の頭から垂れた黒髪を指差した。生気に満ち溢れていながら死体以上に何も語らない教授の行動に、鹿島も少女も身に力を入れる。


 まさか指先からレーザービームでも出るのだろうかと鹿島が思った時、本当に見えない何かが飛び出して少女の黒髪を引き裂いた。


 髪を切られると同時に、少女は後ろに飛び退いた。飛んできた斬撃は床に縞模様を付けながら少女の体を追い続け、窓を打ち付ける雨粒のような音が廊下に広がった。


 少女はバックステップでそれを避けながら次の一手を考えているようだったが、攻撃の正体がまるで読めていないようだ。鹿島の目にも飛び道具のように見えるが、攻撃を受けた床には痕以外に何も残っていない。


 少女は再度黒髪を伸ばすと、また教授の四肢に巻き付けて動きを封じた。教授の動きは再び止まり、ウニョウニョと荒縄の羽が触手のようにのたうち回る。


 だが鹿島が見る限り、少女の黒髪は先ほどよりも教授の動きを止められていなかった。彼女の体力が落ちたのか教授が力や対策を身に着けたのかは分からない。少なくともこのままではジリ貧である事は明らかだ。


「おい、大丈夫か?」


「大丈夫に見える?」


 そう言った彼女の額には、大粒の汗が流れ出ていた。思わず助けに行こうとするが、彼女はそれを片手で制した。


「貴方には無理よ」


 そう言って彼女は皮肉っぽく嗤う。その言葉は自分と青貝、どちらに言ったのだろうか。


「でもこのままだとあんたが……」


「なら、試しにやってみたら?」


 そう言って少女が顎を動かして促した先には、教室から撒き散らされた多くの本が転がっていた。そいつを投げつけてやれという事だろう。


 鹿島と青貝は本を拾うと、教授天使の顔に投げつけた。全力で投げつけた本は教授の顔面、目元のところにヒットした。角度からして一番固くてダメージの大きい角の部分に当たった筈だが、天使はピクリとも柔和な顔を動かさない。


 それでも鹿島はもう一冊本を拾った。常識を超えた存在に古典文学をぶつけたところでダメージが無いのは予想出来るが、このまま少女に任せて何もしないでいる方が嫌だった。


 無力な自分が今出来る事といえば、せいぜい教授天使をキレさせて少女から意識を逸らすくらいだ。あの教授をキレさせる事で自分の右に出る者はいないだろう。


 だが二投目に投げた本は先程と変わらぬ軌跡とスピードで天使の顔面へ向かいながら、天使の顔をすり抜けていった。跳ね返ったのでも消されたのでも吸収されたのでもなく、通り抜けて向こう側の窓に当たって落ちた。


「ど、どういう事だ?」


「言ったでしょ? そこにいるのは教授ではない別の〝何か〟。教授の姿形をした天人とでも思いなさい」


「教授の、天人?」


「もっと言えば三次元、概念ではなく物理的干渉を可能にした天人よ。物質に触れるも触れないも自由に選べるわ」


 そういえば東雲天使は教室の扉を〝手で開けて〟入って来た。そもそも別に浮いている訳でも羽ばたいている訳でもなく地に足は付けているので、彼女の言う通り天使は物体に対して自由に接触の不可を決められるのだろう。


 だがそうなると、一つの絶望的な思いが浮かぶ。鹿島の気持ちを代弁するかのように、青貝が叫ぶ。


「そんなの誰も倒せないじゃないか! あらゆる物理的攻撃が意味をなさないのなら、対処のしようがない。大至急救援を要請すべきだ!」


 青貝の言葉に少女は、大粒の汗を流しながら苛立った顔を浮かべた。


「だから何が来ても意味無いっての! 銃もナイフも毒も放射線も効かないし、地球が爆発したってピンピンしてるわよ。効く効かない自体を自分で決められるのよ」


「じゃあどうしろと?」


 青貝の言葉に、少女はまたふっと笑った。いつだったか彼の誘いを断った時も、確かこんな顔をして断っていたような気がする。


「別に無意味という訳ではないわ。天使に対しても意識外なら攻撃を加える事は出来る。これならナイフでも拳銃でも、外傷は与えられるわ」


 確かに最初の教授天使への攻撃は、教授が少女へ意識を向けていた時の攻撃だった。だが二発目を躱された事を考えるなら、教授天使は自分達に対して意識を向け始めたという事だ。


 つまり俺達は既に、天使に狙いを定められているという事だ。例えこの場に重火器があろうとも、二度目の攻撃は一切効かないだろう。


「そんなんでどうやって教授を倒すんだ! 悪霊化したゾンビみたいな存在を、どうやったら殺せるって言うんだ?」


 創作物のルールに則るならば、ゾンビなら頭や脊髄を壊せば死ぬ。悪霊ならお祓いなり呪文なりが効くだろう。だが目の前にいるのは天使なのだ。そのどれかが効くとは全く思えない。


 鹿島の叫びに少女は鼻で嗤うでもため息をつくでもなく、ただ笑みを浮かべた。


 その笑みを見た瞬間、鹿島は過去の記憶を引っ張られる思いがした。


 歪だった。天人がこの世界から去り、喜びと安心からしか生まれなくなった笑顔とは違う、不幸を携えた笑みだった。与えられた己の状況に対する全ての可能性を毟り取られ、ここまで堕ちれば後はもう笑うしかないという、絶望の笑みだ。


「鹿島、だっけ? 確かに貴方の言う通り、普通の方法では天使には絶対に勝てない。一度死んだ生命をもう一度殺す事が出来ないように、天使はあらゆる方法を無に帰す。肉体を粉砕しても数日経てば再生するし、過去に天人を退かせた精神波状攻撃も人間の肉体では効果が無い。十次元の住人である彼らからすれば不便極まりないあの肉体も、この世界で活動するには良い防護服なのでしょう」


「それならどうやって?」


「簡単よ。相手が死者ならば、私達も死者になればいい」


「……は?」


「アンデスは世界に広がる精神汚染を防護し、他者との感情の共有(エンパシー)によって幸福を増幅するナノサイズ細胞。彼らと完全に隔たるそれを棄て彼らと同じ十次元の攻撃を加えれば、天使はこの世から完全に消滅する」


「つまり?」


「体内のアンデスの機能を完全停止させ、精神汚染を受け入れながらも意識を保つ」


 さも当然の如く少女は言った。いくら現状が荒唐無稽を表していても、それもまた同じくらいに馬鹿げているかは今の人類なら分かる筈の事だ。


「バカな。アンデスを捨てて生きる事など、出来る訳が無いだろう?」


「どうして? ほんの十数年前まで人類は何も持たずに生きてたのよ?」


「第一どうやってアンデスを取り除く? 君が言ってる事は、身体から特定の細胞だけを追い出すと言っているようなものだぞ?」


 青貝の言葉に少女は目を伏せると、またあの薄気味悪い笑みを浮かべた。


「一番簡単なのは、精神に大きな負荷をかける事。つまり──」


 少女は鹿島の目を見ると、呟くように静かに言った。


「死にたくなるまで絶望する事。そして飛び出た糸が首に絡まる死の瞬間に激しく後悔し、みっともないくらいに生きようと抗う事。すると体内のアンデスは機能停止して旧人類よりも更に昔、開拓時代を生きた純粋な人間に戻る事が出来る。飛び出た糸を操る力のオマケ付きでね」


「そんな事が?」


「ただ代償は大きいわよ。アンデスを捨てるという事は、常に天人の攻撃に晒され狙われ続けるという事。そして心に襲い掛かる絶望からもう何も守ってくれない、丸裸の状態になるという事」


 少女の言葉に、鹿島も青貝も黙り込む。鹿島らにとって少女の言葉は、どこか遠い世界の話のようだった。最初から拒否をし続けた旧人類とは違い、アンデスの加護の味を知りながらアンデスを失って生きるという事は、深海で自ら酸素ボンベを外すようなものだ。


「人は苦しみを忘れて新人と成り、その先を進めば羽を広げて天使(ちょうちょ)になれる。でも人らしく苦しみのままに生きようとすれば、芋虫(イモムシ)として生きて行かなくてはならない……」


 それは失楽園だ。幸福と安寧の味をたらふく貪った後に落とされる、精神の飢餓状態。そうまでして出来る事が天使を殺害するという罰当たりであり、逆を言えばそうまでしなければ天使は殺せない。


「己の中にある〝絶望〟が孕むと、その絶望はアンデスを超えた先にある十次元の能力を産んでくれる。繭から羽化する事を拒み、地面に這いつくばる芋虫として生きる決意を固めた者に現れる絶望の糸屑」


 少女は黒髪を靡かせると、静かに言った。


「それが、メンタルフォルスの糸」


「メンタルフォルスの、糸……」


「ええ。……私は決して絶望を恐れない」


 そう言うと彼女のメンタルフォルスの糸、長い黒髪が更に伸びた。


「ただ、今だけは力を貸して。貴方達の希望の為にね」

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